動物農場: おとぎばなし (岩波文庫 赤 262-4)

  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (160ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003226247

作品紹介・あらすじ

「すべての動物の平等」を謳って産声をあげた動物農場。だがぶたたちの妙な振舞が始まる。スノーボールを追放し、君臨するナポレオン。ソヴィエト神話とスターリン体制を暴いた、『一九八四年』と並ぶオーウェルの傑作寓話。舌を刺す風刺を、晴朗なお伽話の語り口で翻訳。

感想・レビュー・書評

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  • 登場人物を動物にしてロシア革命以後のソヴィエトの体制を批判した本書は、1945年8月出版されたが、そこに至るまでに数々の障害があり難航を極めたらしい

    『動物農場 おとぎばなし 』とおとぎばなしと副題がついているが、何と生々しい恐ろしいおとぎばなしだろうか?

    初めのうちは、動物たちが力を合わせて自分たちを搾取していた人間を追い出して、動物たちの自治で、農場を経営していくというものであったが、途中から動物同士の仲間割れやマインドコントロール、支配者と被支配者が生じ、粛清が始まる
    ぶたのナポレオンは、スターリンであり、スノーボールは、トロツキーを表している
    おとぎばなしというのは、もっと可愛らしく、明るく、夢があるものだろう
    しかし、このように動物になぞらえてしか批判できなかった当時の国際事情があったに違いない

    オーウェル自身、序文でこの物語を書いた動機は
    「ほとんど誰にでも理解できて、他国語に簡単に翻訳できるような物語のかたちでソヴィエト神話を暴露すること」
    と語っている

    しかし、悲しいのはこれが旧ソヴィエトのことだけではないということだ
    あれから70年以上経った現在でも、世界のあちこちでこんなことがまかり通っている
    一党独裁下で民主化を求め、立ち上がろうとしている民衆を武力で封じ込めようとしている現実
    言論の自由を奪われ、反対するものは、闇に葬られる現実
    人間は学習しない動物なのか

  • 本篇は開高健訳で読んでいるので、付録二篇を目当てに借りて読んだ。
    付録1 出版の自由
    付録2 ウクライナ語版のための序文

    時節柄、ソ連批判の寓話が非ロシアのソ連圏で出版された時の状況に興味があったのだが、第二次世界大戦終結後に英米の管理下にあったドイツの難民キャンプで暮らすウクライナ人に向けて書かれたものだそう。

    いずれもソ連神話を暴露することを目指して書かれていて、特に付録1の方は、ソ連を美化する風潮を強烈に戒めていて、世界で最初に近代的民主政治を築いた英国知識人の矜持を強く感じた。


  • 【感想】

    〜「平等の構造ー平等という病理ー」〜

     “すべての動物(人間)は平等である。しかしある動物はほかの動物(人間)よりもっと平等である。”
     「もっと平等」と見るとおかしさを感じないだろうか。平等に程度や差異なんてあるのか?と。

     平等を謳って、始まった動物農場崩壊の最初のきっかけは、林檎とミルクだった。後に、追放されスノーボールでさえこれを黙認し、他の動物に黙って豚だけで食べてしまう。
     思えば、この物語は動物たちが自分たちの変えようもない差異の数々にことごとくぶつかっていく話でもあった。体のサイズ、老若、知能、言葉の理解、能力。卵を産むもの、乳を出すもの、文字が読めるもの、計画を立てられるもの、上手に喋ることができるもの。
     動物たちのなかで最も不平等を感じていたのは、頭脳労働者と呼称する豚たちだったと思う。彼らは敵の侵攻に対する防衛策や、農場運営に関して頭を働かせているが、片やアルファベットも途中までしか読めなず、労働でしか貢献のできない動物たちという構図だ。
     豚たちが平等を謳った搾取に行きつかないようにするには、彼らが自らの能力を特別なものだとは考えず、あくまで能力の優位性に驕らず、自分より遥かに知能で劣る動物の扱いと同等の待遇を自らにも適用する必要があった。共産主義の成功の可能性の一つに、強者が弱者が得るものと同じものを得て、強者は自分たちの不平等に甘んじることが挙げられる。人間の単位に戻せば、人より多くの収入を得ている人は、高額な税金を払うことかもしれない。
     
     強者はその能力に見合った平等を求め、弱者はその能力による不平等を厭うために、こちらの不平等が、あちらの平等という感じで不釣り合いを起こしている。平等を求める実行は、他方の平等を侵害し、不平等をもたらす暴力となって機能している。
     足の速いこどもが、運動会の駆けっこ競争に出て、先頭でゴールする。表彰台では同じ一位のメダルを貰う。テストで全ての教科で90点以上を出す子どもがいる。成績表を見ると全員がおんなじで評価されている。
     やはり、競争と平等とは共存し得ない。平等な競争というのもない。
     (公立学校の)教室の平等の論理(建前)では、最も学習効率の低い生徒に合わせて、授業速度、内容が設定される。社会規模でそれをしようとするには、能力的には弱者を切り捨てることなく、平均にまで引き上げ、待遇や収入レベルにおいては、強者が自らの能力に見合わない位置に甘んじるというのが、できるだろうか?
     
     共産主義の失敗は、どこかで競争に基づく資本主義的要素を抜きに考えられていないのが要因の一つだと思う。この失敗を分かりやすく例に挙げたものに、働き者と怠け者が同じ収入だったら、馬鹿馬鹿しくて、みな怠け者になってしまう、というのがある。でも、もし、働き者もいないが、怠け者もいないように持っていけたらどうなるだろう?収入だけが、人間のフィードバックでないとしたらどうだろう?
     信仰にはその可能性が無いわけじゃない。彼らは、収入を求めて十字架を切るわけでも、祈りを捧げるわけでもない。宗教のなかにあって競争の無い領域にある心の有り様が、共産主義に導入できるとしたら?それは一体なんだろう?

     システムの話を別にすれば、動物農場でのイレギュラーな存在たちの動向が面白い。
     ねこだけは労働を免れて、食事を得ていた。物語後半では、いるのかいないのかも不明な存在だったけれど、この管理体制のなかで、ある種の特権的状況にあったことを考えると驚く。
     ねこは塀の上を歩くことができる。そして、屋根を伝って逃げることができる。だれかやどこか一か所に徹底的にもたれかかるということをしない。動物農場では、野生の動物とのコミュニケーションが断絶していたにせよ、ねこの生き方は半分は野生のようなものだった。
     この生き方がとても参考になると思った。
     大勢にも体制にもどっぷりと浸からない。適切な距離をとりつつ、自分のことは自分で責任をもつ。生活が農園というシステムに担保されている他の動物たちにはできない芸当だった。

     カラスもまた異色だ。作り話をするカラスは真っ白、別段、指導者たちの教化を受けていないが、放任され、生活は保障されている。口にしていることが毒にはならず、寧ろ、動物たちに残されている娯楽的な要素を帯びているからかもしれない。天国と思わしき死後の世界を主張するのを見ると、宗教的な要素も感じるが、コメンテーターやインフルエンサーのような立ち位置にも見える。とにかく、吹聴される言葉が、真否を問わず垂れ流される様子はそれに酷似している。
     きつい労働や、飢えを免れる点は魅力的かもしれない。他の動物に嫌われてはいるが、暴力の対象にはならない。が、誹謗中傷の規模とプラットフォームが拡大した現代では、暴力の対象にならない保証はない。

     自分がどの動物なのかを考えるのも面白い。もし自分だったらベンジャミンのように厭世的に期待せず、かと言って、行動を起こしもしないのではなく、外部に内情を少しずつ拡散し、追放されたスノーボールと連携して動物農場の崩壊を目論むかもしれない。でも、外の世界で生きていけるのならそれが一番良い。

     どんな社会だろうと、それが社会である限りろくなものでない。とそう思うからだ。

     考えたいのは“人間の習慣はすべて悪しきじゃ(p,17)”の一文だ。結果的に、人間の習慣を取り入れた豚が人間のようになった以上、この物語の論理で考えると、人間を人間足らしめているのは、人間固有の習慣と環境かもしれない。“家に住んではならぬ。服をまとうのもいかん。酒も飲むべからず。たばこもいかん。金にふれるのも、商売もまかりならぬ。”これを遵守している人間といえば、先住民族だけだろう。ホームレスでさえ、服を着るし、金にふれている。が、“いかなる動物も、自分の同胞に横暴なふるまいをしてはならぬ”を守っている動物は果たしているのだろうか?そんな環境はあるのだろうか?
     そして飲酒や喫煙などの悪しき習慣を避けることの大切さを身に染みて感じることもできた。

     地球という檻、国家という檻、社会という檻……。この環境こそ必然的な衝突空間なのかもしれないと感じてならない。

     他にスクィーラ―のようなもっともらしい論理をでっちあげて広める言論者。それを受けて、真偽を判断できずに大衆の間にイデオロギーをばらまく羊たちは、マスメディアとその視聴者たち。日本で言う野党の議員が、報道番組の担当と話して、国家で発現する内容を、報道に合わせて作るような構図も詳細に描写している。他の動物たちもスターリンの共産主義体制を基に作られたので、考察のきっかけになる。

     『一九八四年』と合わせて読了してみると、こちらは御伽噺で、まだクッションをはさんで読むことができる。構図もこちらの方が単純明快。全体小説の形をとり、内容的には事実をそのまま寓話に差し替えた部分が大半だった。それにたいして『一九八四年』には創作が絡み、人間とその文明を扱うだけにより解像度の高くなっている。動物農場が古典的な全体主義の話だとすると、一九八四は近未来的な全体主義の話なので、この二つを併読・併考するとさらに視点が広がると思う。1984のさらに先の全体主義の物語を想像するための底本と活用していく。
     

  • 角川文庫版と岩波文庫版どちらにするか迷ったが、岩波版を購入。「出版の自由」「ウクライナ語版のための序文」が付録。どちらも読みごたえがあってこの作品に対する理解が深まる。
    角川文庫版には「象を射つ」「絞首刑」「貧しいものの最期」などのエッセー及び開高健による短い文章も収録されているのでこちらも購入する予定。

    最も新しい訳のためか、非常に読み易いものとなっている。原書初版に付けられている“A Fairy Story”=「おとぎばなし」、寓話としての読み易さを考慮したものと思われる。

    各キャラクターのモデルがレーニン・トロツキー・スターリン等々、他の農場がイギリスやナチスドイツであるのは言うまでもない。だが読み進めるにあたって頭の中で「えぇっと・・・あれがああだから・・・」と実在のものに当てはめると時間がかかり、小説としての面白さ、のめり込み具合が半減することに気付いた。
    なので一旦これらを忘れて脇に置き、ひとつの小説、おもしろい読み物として読むことにした。割と短い話なので、2回目に読む際には改めて現実世界に当てはめると二度おいしいと思う。

    僕は小学校高学年から中学生にかけて、ベルリンの壁とソ連が崩壊し、世界地図が次々に塗り変わっていくのを目の当たりにした世代だ。なので体感としてそこの記憶がはっきりとあるが、今の若い世代ではどうなのだろうか。
    いや、今の世代にこそオーウェルはぜひ読んで欲しいと僕は思う。「1984年」が描いたディストピアが翻案され続けるように、「動物農場」が寓話として描かれたように、だからこそオーウェルの作品は永続性と普遍性を持つのだと思う。

    『小説の舞台はイギリスに置かれていますが、これは英語を話す民族が生来的に他より優れているわけではないこと、全体主義はもし戦わなければどこにおいても勝利しうることを強調するためです。』

  • Animal Farm(1945年、英)
    共産主義を批判した寓意小説。動物農場はソビエト社会主義共和国連邦のアレゴリーである。メージャーじいさんはレーニン、ナポレオンはスターリン、スノーボールはトロツキーをモデルとしている。ユートピアを目指していたはずの農園が史上最悪のディストピアへと変貌していく逆説は、人類が忘れてはならない歴史の教訓だ。

    しかし、これを読んで「共産主義怖すぎ」と他人事のように言っていられるほど、世界は単純ではない。作品は1944年2月に脱稿していたにも関わらず、その発表は翌年8月17日まで待たねばならなかったという事実がある。日本のポツダム宣言受諾から2日後、米ソの冷戦時代の始まりだ。

    発売されるやいなや、本書が世界的ベストセラーとなったのは、傑作だったからには相違あるまい。しかし、他言語への翻訳を積極的に推奨したのは米国だったこと、敗戦直後の日本に本書の翻訳をいち早く許可したのはGHQだったことなどは、銘記しておくべきだ。プロパガンダの愚かさを皮肉った作品が、プロパガンダとして利用されるという二重の皮肉である。

    それでも、様々な人々の思惑を超えて、作者のメッセージは21世紀の私達にも強く訴えかけてくる。私の尊敬するクリエイター、宮崎駿氏の言葉を引用させて頂く。
    おとぎばなしは、まだ終わってはいない。

    「自分が善意であるからといって、自分が善良な存在だとは思ってはいけない。とくべつお金を稼いでいるとか、楽をしているわけじゃないから、自分は無罪だ、とは思ってはいけないんです。しくみのなかでは、自分だってナポレオンなんです。そのしくみの問題はいっぺんには解決できないですけど、だからといって、手をこまねいて、無関心でいられること自体、すでにそれはナポレオンなんだってことなんです。(略)社会にはしくみがあるということ。複雑になってはいるけど、でも根源には、労働者がいて収奪者がいるという、そのしくみは変わってないんです」

  •  初めて『動物農場』を読んだ(読まされた)のは、高校の夏休み。英語版を買って読んで訳して来い、という宿題だった。
     その時は何が何だかよくわからなかったのですが、大人になってから「あ、あれか!」と気づいて再読(?)。いやー、こんなに面白い話だったとは!

     人間の搾取に耐えかねた動物たちは、人間を追い出し、動物たちの自治による「動物農場」を成立させる。
     しかし、動物農場のリーダーである豚たちは、他の動物たちが必死に働いているのを尻目に、だんだん贅沢な暮らしをするようになる。そのことを不審に思った動物たちが疑問をぶつけると、
    「豚が頭脳労働をするためにはベッドが必要だ」
    「ジョーンズ(かつて「動物農場」のオーナーだった人間)が帰ってくるぞ!」
     と言い逃れたり脅したり。いつしか動物たちは以前よりも苦しい生活に喘ぐこととなっていた…
     ロシア革命からソ連の共産主義体制までの欺瞞を痛烈に風刺した寓話。

     建前で平等・公平を過度に謳う体制ほど、何やかんやと指導者が理屈を付けながら建前の例外層を生み出し、いつしか独裁体制に至るものである。そして、それを許すのはいつも民衆である。
     本作では、動物農場の動物たちは、すぐ豚に言いくるめられる愚鈍な民衆として描かれているが、我々だって程度の差はあれ、本質的な部分ではこの動物たちと同じである。思考を放棄し、見たくない現実から目を背け、誰かが何とかしてくれると政治の問題を他人任せにする…そういう態度が独裁制の芽を育てるのは、ファシズムの台頭や共産主義体制下の独裁制が示すところである。

     結局、民主主義を統治システムの前提とするなら、我々は権力者に全幅の信頼を置くことなくどこかで監視の目を光らせなければならない。と同時に、権力者の言うことが正しいかどうかを判断できる資質・素養を磨き続けなければならない、ということになる。
    (ちなみに、ここで言う「権力者」は政府や公権力だけではない。政府や公権力を監視する「マスコミ」も立派な権力者であり、彼らの発信する情報や言論にも監視の目が必要である)

     …正直、七面倒くさいシステムだと思う。でも、現行の統治システムが民主主義に則っている以上、面倒くさがっていると政治の腐敗や独裁制がわき起こってくるから、腐らずにやるしかない。
     民主主義とは、つくづく手間のかかるシステムだよなぁ、と改めて思わされる。

     独裁制とは民主主義下で初めて発生する政治体制である、という指摘をどこかで読んだ記憶があるが、本作はそれを痛感させられる寓話である。

    • 佐藤史緒さん
      >独裁制とは民主主義下で初めて発生する政治体制である、という指摘をどこかで読んだ記憶があるが、

      私の知っている限りでは、プラトン『国家...
      >独裁制とは民主主義下で初めて発生する政治体制である、という指摘をどこかで読んだ記憶があるが、

      私の知っている限りでは、プラトン『国家』に似たような主旨の記載があります。
      …通りすがりのおせっかい、失礼しました。
      2013/02/26
  • 物語形式で誰でも読みやすい。
    シンプルなようで非常に面白い。
    国と大衆のありようが非常に鋭く描かれている。
    無残なほどにおバカな動物達と、いつのまにか全体にとっての正義が利己的な利益の追求にすり替わりつつも、これは全体のための犠牲であるという、このように客観的に見れば、アホらしく思えることも、現実世界では実際に起こっていることだと思うと、ただただ笑ってはいられなくなる。
    最後の「ボクサー」という豚の末路は、悲惨すぎて只事ではないように思えるが、これは現実の世界でも今起こっていることだ。
    今や古典的ロングセラーであるこの本も当社は出版社がなかなかokを出してくれず、出版もスムーズではなかった。しかし、こうしたタブーを指摘する本というのは、その時代の本質をえぐっている、のみではなく、普遍的に流れる人間と社会とありようを描いているものだと、改めて思った良書。

  • 約90年前に書かれていながら、現在の政治状況にも当てはまるような物語に驚きと苦笑いが出たが、この本を出版するまでの経緯が書かれた「出版の自由」という序文に当時のソ連の体制を揶揄した物語だ、ということが書かれていてさらに驚かされた。

  • 自らの意思によって革命によって人間からの支配に解放された農園の動物たち。
    その中で新たなリーダーになったのは、他の動物に比べて高い知能を持つ豚たち。
    他の動物たちは豚のことを仲間であると信じているからこそ、ナポレオンの搾取に耐え続け働いた。
    しかし、支配者が人間から豚に変わっただけであり、知能の高いものが低いものに対して権力を使い、労働を強いるという状況に変わりはないのだ。

    みんなのために人一倍働き続けたボクサーを売り飛ばしたシーンが強く印象に残る。それは最初にメジャーじいさんが語った、人間の馬に対して行うことと同じであったからだ。
    そして豚は二足歩行をし始めた。
    二足歩行は動物の敵であるはずなのに。

    ベンジャミンが本当に死なないのならば、彼は以前にこのよう革命がおきても支配者が変わるだけという体験をしたのではないだろうかと思った。

  • 現在の日本じゃん…。
    暗澹とした気持ちになるけれど、同時に物語としては面白いのが見事。
    オーウェル自身の序文等や解説も、とても興味深かった。

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著者プロフィール

1903-50 インド・ベンガル生まれ。インド高等文官である父は、アヘンの栽培と販売に従事していた。1歳のときにイギリスに帰国。18歳で今度はビルマに渡る。37年、スペイン内戦に義勇兵として参加。その体験を基に『カタロニア讃歌』を記す。45年『動物農場』を発表。その後、全体主義的ディストピアの世界を描いた『1984年』の執筆に取り掛かる。50年、ロンドンにて死去。

「2018年 『アニマル・ファーム』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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