善の研究 (岩波文庫)

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  • / ISBN・EAN: 9784003312414

感想・レビュー・書評

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  • 著者、西田幾多郎さん、どのような方かというと、ウィキペディアには次のように書かれています。

    西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870年5月19日〈明治3年4月19日〉 - 1945年〈昭和20年〉6月7日)は、日本の哲学者。京都学派の創始者。学位は、文学博士(京都大学・論文博士・1913年)。京都大学名誉教授。著書に『善の研究』など。

    ほぼ同時代を生きた文豪では、夏目漱石がいますね。
    夏目漱石は、1867年生まれなので、西田幾多郎よりも3年位早く生まれています。


    で、本作の内容は、次のとおり。(コピペです)

    真の実在とは何か、善とは何か、宗教とは、神とは何か――。主観と客観が分かたれる前の「純粋経験」を手がかりに、人間存在に関する根本的な問いを考え抜いた西田幾多郎(1870-1945)。東洋の伝統を踏まえ、西洋的思考の枠組自体をも考察対象とした本書は、以後百余年、日本の哲学の座標軸であり続ける。


    とのことですが、本作を読んだわけでななく、今後とも手にすることはないと思います。
    今、読んでいる、『いつまでも親がいる』(島田裕巳著)の中に、本作について触れた箇所があったので、寄り道してみました。

    『いつまでも親がいる』のp141に、次のように書かれています。

    西田の代表的な著作である『善の研究』について言えることです。この本は、「経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである」という形ではじまります。それが、第1編第1章「純粋経験」の書き出しです。

  • まったく内容を忘れていて再読だけど初読みたいなもの。
    よく眠れるかと思い、毎晩寝る前に読み進めた。

    下村寅太郎が解説で書いているとおり、本書は金沢の第四高等学校での講義草案。こんなに高度な内容を!?とまず驚く。

    最初に第2編の実在論と第3編の倫理学(善)ができ、ついで第1編の純粋経験、最後に宗教論ができたらしい。
    内容としては、いろんな哲学者のパッチワークみたいな感じだ。
    カント、スピノザ、ヘーゲル、W ・ジェイムズなどなど。
    西田哲学の出発点にある書物であり、たしかにつっこみどころ満載ではあるのだけれどもそのぶんいくつもの汲み尽くせぬアイデアが輝いている。

    日本という文脈においてみると、西田の精神論は危険だとか、いくらでも悪く言えそうだ。
    「自他合一」「主客合一」するところに知や愛が生じる、とか。もっともこうした考えは西田が座禅をよくしたからこそ
    の着想だろうけれど。まあそれはさておき。

    彼の「実在」の概念はベルクソンの「イマージュ」と似ていると思った。しかしベルクソンはともに持続の概念を方法的に持ってくるから、その後の展開はまったく違ってくるのだが。このへん、西田の論の進め方はすごく素朴。

    次の一節が印象に残っている。

    「幾何学の演繹的推理は空間の性質についての根本的自覚に、論理法を応用したものである。倫理学においても、已に根本原理が明となった上はこれを応用するには、論理の法則に由らねばならぬのであろうが、この原則その者は論理の法則に由って明になったのではない」

    ここを読んで、スピノザの『エチカ』という変わった本で、倫理の話なのに幾何学の証明のような形式を用いていることの意味がいきなり氷解した。ありがとう西田幾多郎。

    なるほど、ユークリッドの『原論』と同様、人間の倫理における公理をいくつか前提としたうえで論を進めていたのだな。またスピノザを読みたくなってきた。

  • 難しい。読破したとは思えない。
    それでも、自分の世界観をガラリと変えた一冊。

    特に、「善」「悪」をという言葉を捉え直す彼の考え方は、今の思考に大変マッチしました。

    善を人間の本来の性質と定義するところから、悪とはなにかを改めて知ることができます。

    ルールを破ること、誰かに不正を働くことではなく、そういった段階からさらにもう一歩深めた価値観が生まれました。
    そもそも、善という言葉には本来道徳的な意味合いはなくて、『ためになる』というシンプルな意味合いだったそうですね(ギリシャ哲学だったでしょうか)私たちが持ってしまいがちな観念を1から丁寧に説明してくれます。

    「人格的要求」という言葉も好きです。
    言葉づかいは難しいけれど、その意味を想像するに、万物斉同、主客合一といった理想を思い描けるからです。

    アニメの例えで恐縮ですが、新世紀エヴァンゲリオンの「人類補完計画」にも通じるような考え方かもしれません(人類を全滅させる、という意味ではないですよ!)

    岩波文庫の哲学書、という風体から忌避しなくてよかったと、心から思える1冊です。

    子供にも読んでほしいけれど、自分も40年かかったので、彼女が読む頃には私は死んでるかもしれないなぁ・・・

    (追記)2021年8月に再読

    今回はノートを取りながら。
    前回は読み飛ばしていた部分にも意識を向けて熟読します。
    特に印象に残った点を3つお伝えします。

    1 西田は白黒思考をしない
    思惟と統覚、主観と客観、分化と統一といった言葉の違いを哲学者らしい緻密な言葉遣いで説明しながらも、全く違うものとは断じません。あくまで『程度の差』であり、最終的には同じものだとまとめます。
    一章から四章まで通じてこの言い回しを使うので印象に残りました。
    主客合一、物事は見方の違いで別物のように見えているだけ、という考えを体現しています。

    2 あたりまえの倫理感を疑え
    彼は紙面の一部を割いて、倫理の体系を比較検討しています。
    直感説、即ち倫理とは当たり前に思う良し悪しの判断である。
    権力説、即ち人に決められた良し悪しのルールである。
    合理説、快楽説、、、、

    特に私はストア派(禁欲的な考え方)に賛成しているので、倫理は合理的なものだと考えていました。
    自分で意識的に考えていただけに、彼が提唱する、活動説と呼ばれるものは目からウロコです。

    合理説がもっている、消極的な姿勢(~をしてはならない)という止める力ではなくて、目的をもって自らの行為を改める、変えることが善である。その積極性を強調しているからです。

    話の3つめは、その目的を抜き出しました。

    3 善(~のため)とは私たちの人格を目的とする、手段にしてはならない

    ラッセルが幸福論で『外への関心を向けよ』と言ったように。
    アドラーが『愛のタスクが最も難しい、それでいて最上のいきる意味である』と断言したように。
    自愛、他愛分けず、その合一を目的にして生きること。これを善とした西田の言葉に複雑な気分を隠しきれません。
    その理想の形に同意できつつも、これまでの経験を振り返って、いかにその善行為を避けてきたか。できそうな相手には発揮して、そうでない人々には無関心を決め込んでいたかが脳裏によぎるからです。
    さらに勇気が必要なことには、この善行為が、今ここから出来るという事実です。
    社会的地位、財力、出自を問わず実践できるだけに、誰でも善行為はできるわけですから。
    実践できるだけに、そうでない人は意識の有無に関わらず悪。心苦しいようであれば、悪よりの振る舞いを選んでいることになります。

    彼の言う善とは、今の自分に対する叱咤激励である。
    そう思えてなりません。

    以上、再読の感想をまとめました。
    この出会いを自分の人生観により働かせることを決意して、いったん感想を終えます。
    長文お読みいただきありがとうございました。

  • 明治44年に出版された本。日本人に哲学はできないと言われていた時代に著された本格的で体系的な哲学書。理解が容易な訳ではないが、実在、倫理、意志などを一つ一つ解きほぐす論理展開が明快で読みやすい。『善の研究』よりも相応しいタイトルはあったのではとも思うのだけど、このタイトルだったからこそ広く、長く読まれる本になったのだとも感じる。歴史的にも意義深い一冊。西田哲学自体はもっと後年の内容も知りたい。

    それにしても大学時代から読もうと思って機会を逃し続けた本をやっと読めて気持ちが良い。

  • まだ難しかった

  • 西田哲学については名前しか知らなかったけど、これを読んで少しわかった気がする!
    基本軸は純粋経験にあって、そこから主客がはじまる、みたいな?

  • 「善の研究」西田幾多郎著、岩波文庫、1950.01.10
    254p ¥460 C0110 (2020.01.02読了)(2002.08.26購入)(1989.05.08/63刷)

    【目次】
    序  明治44年1月
    再版の序  大正10年1月
    版を新たにするに当たって  昭和11年10月
    第一編 純粋経験
    第一章 純粋経験
    第二章 思惟
    第三章 意志
    第四章 知的直観
    第二編 実在
    第一章 考究の出立点
    第二章 意識現象が唯一の実在である
    第三章 実在の真景
    第四章 真実在は常に同一の形式を有っている
    第五章 真実在の根本的方式
    第六章 唯一実在
    第七章 実在の分化発展
    第八章 自然
    第九章 精神
    第十章 実在としての神
    第三編 善
    第一章 行為(上)
    第二章 行為(下)
    第三章 意志の自由
    第四章 価値的研究
    第五章 倫理学の諸説 その一
    第六章 倫理学の諸説 その二
    第七章 倫理学の諸説 その三
    第八章 倫理学の諸説 その四
    第九章 善(活動説)
    第十章 人格的善
    第十一章 善行為の動機(善の形式)
    第十二章 善行為の目的(善の内容)
    第十三章 完全なる善行
    第四編 宗教
    第一章 宗教的要求
    第二章 宗教の本質
    第三章 神
    第四章 神と世界
    第五章 知と愛
    解題  下村寅太郎

    ☆関連図書(既読)
    「西田幾多郎『善の研究』」若松英輔著、NHK出版、2019.10.01
    (「BOOK」データベースより)amazon
    真の実在とは何か、善とは何か、いかに生きるべきか、真の宗教心とは―。主観と客観が分かたれる前の「純粋経験」を手がかりに、人間存在に関する根本の問いを考え抜いた西田幾多郎(1870‐1945)。東洋の伝統を踏まえ、西洋的思考の枠組そのものを問題にした本書は、百年後の今日まで日本の哲学の座標軸であり続ける。

  • 西田幾多郎『善の研究』(1911年)を20年ぶりに読みかえした。

    この本のポイントは、たぶん、「われ思うゆえにわれあり」の「われ」ってどこからでてきたんだ?それって妄想なんじゃねーのというところだろう。で、「われ」じゃなくちゃーなんだとなるが、もちろん、ほかの誰かさんとか、梵天さんの夢とか、そんなもんでもない。

     大ざっぱにいうと、「われ」というのは、一種の「まとまりかた」(統一)としかいいようのないもんだということになる。物もそのような「まとまり」で、空間とか時間とか因果とかは「まとまり」である「自己」が「物」を整頓をする形式なんである。で、この「まとまり」をだんだん大きくしていって、「自然」やら「神」やらが説明されていく。こういうのは活動する全体集合といったようなもんである。「西田は高等数学がわからんと理解できない」などといわれるけど、高等数学というのは、集合論とか射影みたいなもんじゃないかと思う。

     『善の研究』はメガネの外し方としては面白いし、ひざをうつところも多い。しかし、あんまり便利な言葉や、すべてを説明しようとする理論なんてのを考えるのは、それこそ「哲理を考えるべく罰せられた」(ヘーゲル)ところの呪われた行為なのかもしれんなーと思う。「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」というのも、なんだか禅が以心伝心を宗としたのを思いだしてしまう。悟りをふりまわす人も多いからじゃないかと思う。方以智にいわせれば、「機鋒を争う者が群起する」といったところかなー。

     神=自然とやるのは、まあいいとしても、人=神の部分集合とやると、その通りではあるけれど、悪用する部分集合がでてきて、「小さい自己を脱して大きな自己に生きろ」とほかの部分集合に言いはなち、くだらん戦争で突撃をするための飾りになってしまう。ほんらいなら、戦争なんかやめて家にかえって、部分集合としての自分をありがたく生きれば、それでいいんじゃないかと思う。西田さんもそう思っていたんじゃないかと思う。

     西田さんはきちんと座禅をした人なんだが、明末あたりの中国思想じゃ、禅は異端だったり、過激思想で「アカ」扱いだったりする。王陽明も若いころ禅にころんだらしいが、結局、「現実の起伏に即した」(荒木見悟)把握をめざすことになる。儒家にいわせると、禅師なんてのは、世の中の経営の苦労をバカにして、思わせぶりで、悟りを鼻にかけて、まったく気にくわない人たちじゃなかったのかなと思う。禅宗の内部でもインスピレーションだけじゃだめだよということで、祖師をきちんと学ぼうという動きがあって、『宗鏡録』をよめといってみたり、戦乱下の民衆の救済を考える社会派の禅僧(覚浪道盛)なんて人もでてくる。

     だけど、儒家がやっている君臣だの、親子の関係のあるべき姿だのが、禅にくらべて、せせこましくみえるのは否定できない。だけど、こういうせせこましいところに、みんなが通る道があって、現実に即して考えることもいっぱいあって、あんがい奥深いんだぜというところが理解してもらえなかったりする。そこがつらいところなのかもね。

     『善の研究』をほんとうに生かせば、こういう儒家の立場もはいってくると思うし、ほんとうに面白い本である。「我々の神とは天地これに由りて位し万物これに由りて育する宇宙の内面的統一力でなければならぬ」(第四編第二章)なんてのは、これ『易』の「太極」だよなーと思う。『易』はいちおう儒家がおもんずる古典なんである(道家も『易』は好きだけど)。方以智は『易』が中国最初の以心伝心であるといっている。

     西田さんも『善の研究』で終わったわけじゃないから、つづきをよまないといかんなーと思う。ということで、つぎは『西田幾多郎哲学論集Ⅰ』なのである。「場所」は一回読んだけど、もちろん忘れている。なんともこまったもんである。

  • 西洋人の形成力は、理論一つにしても、まるでそれぞれのものに実体があるかのような精巧さがある一方、多面性に欠ける。一面的な効用を主張するあまり、本質の性質に欠落が生じる。やがて見落としてきたものたちが問題となって噴出する。

    我々は意思に従うよりも原理・法則に則る方がより大きな自由を得られる。

    この世にはある一つの統一意志が働いており、万物はその意志の発現による産物である。そして、事象の発現に伴い、必ず二つのものが生まれる。例えば無から有が発現する場合、何もなかったはずのところに有の発現と同時に無という概念も発現する。これはすなわち、有と無は独立した別の働きがあるのではなく、有を生むという統一意志が働いた結果、同時に相反する無も露わになる。

    一つの統合に向けた作用は分化発展を繰り返す。西洋はこの発展の一面、言わば「有」ばかりを見て主張する。この見方では個の事象が隔離され孤立させられる。これはすなわち個の事象を限定するという事。だから一見発展しているようでも実態は同じ次元を延々とめぐる事になる。

    今の風潮はあたかも自然は独立した客観的存在、まるで機械のようなものであり、人間の技術が主観的なものであるという考え方をしているが、自然と精神は同一のものであり、万物とは程度の差による違いが発露したものたちにすぎない。

    我々がモノを知るという事は、自己とモノが同一となる事。

    優れた創造物にはモノの本性が矛盾なく表出されている。

    我々が意志だと思っているものは、実は身の回りの環境、自然の作用である。

    精神とは自他を区別し、自己を自覚する意志活動の事であり、人間はそうした自然の意志・精神を自らに取り込む事で自己を形成する。我々がいわゆる人格と呼ぶものも、自己と自然との遭遇、純粋経験の積み重ねによって作られる。

    道徳観の共通点は、義務で自己の要求や活動を制限してしまう事。だが、このような自己の抑圧をしない事こそが真の「善」である。

    自己が世界と不可分な状態にある時、自己は世界の秩序に取り込まれ、そこに自立した意志が働く必要はなくなる。我々が我々である為には、常に自己と外界との衝突がつきもの。各人が完璧に整った環境に生まれ発展しても何の個性もない。各々ユニークな環境下において、絶えず自己の分化発展を続ける事。

    個人は自主独立している。有を離れた無は真なる無ではないように、一切を離れた一もまた真なる一ではない。個人が個人によった働きをするからこそ世界は豊富深遠となる。

    万物は神の発現であるならば、宗教による個人の目的は神との合一にある。ただ個人の欲求のままにあるのではなく、世界との合一をはかる事。自己の統一と発展が不可分なく行われる事が、真に生きた宗教である。現代の宗教は自己の安心や小欲無憂が最上であると誤認されている。

    本来、世の全ては善である。仮に悪が存在しようが悪には悪の役割があり、因果がある。

    キリスト教の信条は「愛」。相手との共有や同化を求める情動。仏教の信条は「知覚」。知とは主観を限りなく客観へ向ける為、無我が求められる。この二つは、自己を限りなく外に向ける点では、まったく同じ性質を秘めている。

    日常の全てが自己の統一活動の場。

    我々は、宇宙こそが唯一の実在だと考えているが、自己とは宇宙精神の実験のように思える。

  • 金沢に越してきたので読んでみた。純粋経験の概念は興味深い。門外漢としては非常に新鮮だった。最終章の愛と知についての話もわりと好きだった。

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