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この作品からのみんなの引用
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カメラが介入する時点で現実は変容する。要するに誰だってカメラの前では演技する。その変容した現実を、今度はフレームという恣意的な視点で切り取る。この段階で既に、本来の事実と大きく加工されている。その加工品の編集という取捨選択を重ね、インサート(カットの挿入)という手法で時系列を偽装し、場合によっては音楽やナレーションでニュアンスを強調する。つまり、現実の断片的な素材を材料に、あくまでも主観的に再構成された世界観の呈示がドキュメンタリーなのだ。事実を材料に紡がれたフィクションと言い換えてもよい。
― 170ページ -
「他者への想像力を保ち続けること。そのためにあくまでも一人称の思考と感性を大切にすること。森達也の立振舞はこれに尽きる。」
姜尚中の解説より。
― 277ページ
みんなの感想・レビュー・書評
(47レビュー)いい目を持っている。映像が持っている強さを、柔らかな言葉に置き換えられる能力と言った類のもの。世界の亀裂はどこかに大きく口を開けているのではなくて、そこかしこにある。けれどそれは言葉にレトリックが張り付いてから、人間の耳はしばしば騙される。けれど眼を同時に使えば、隠されたおかしさにも気づきやすくなる。 事実の多くは、映像の端に写っている。著者の場合、ドキュメンタリー作家としての行動が、どのよ... 続きを読む »
(「BOOK」データベースより)
地下鉄サリン事件から11年、9.11から5年。イラク戦争から3年…。過剰な善意や偏ったヒューマニズムが蔓延する中、いま僕たちはかつてないスケールの麻痺を抱えて生きている。一方テロへの不安から社会は異質の者への憎悪を加速し、管理統制下の道を辿り続ける。この現実を前に僕らは「一人称の主語」で思考しているか。他者へ想像力を馳せているか。いま最も信頼できるドキュメンタリー作家が煩悶しながら問いかける、まっとうな「日常感覚」評論集。
作者のことは結構好きで、難しいことを、独特の表現を使いながらも分かりやすく説明することができる人だと思っているけれども。
まとめて本で読むからいけない。たまに新聞のコラムとかで見るだけで良いんだ、と思わせる本。
一人称で語り続ける稀有なジャーナリスト、森達也のアンソロジー。でも、朝日や週刊金曜日のもつ定型性や暴力性はスルーなの?立ち場を持つ思考停止のかたちと揺れ?
森達也さんの寄稿集。
7年くらい前のハナシなので、しばらく経った今読み返すと、当時と世界はあんまり変わってないことを実感。
まったく異なる視点で、世間を見るにはとても良い。
森達也さん自身の体験や思考などが、
森達也さんの言葉で述べられた本。
としか言いようがない点で、
森達也さんにしか書けなかったスタイル。
森達也さんの視点からみえるものは、
当たり前ですが、私のそれとは違うわけで。
森さんの考え方を自分のそれに上書きしそうになるその状態も、「思考停止」なんだろうか、と思ったり。
それは、「あなたがこれから考えていくべきこと」であるらしい。
少し、勘違いをしていたみたいだ。 わたしは彼のことを、時事問題を新たな視点から 論じてくれる評論家のような人だと思っていた。 しかし、実際の彼は映画監督であり、 それ以上でもそれ以下でもない、という意識で 文章を書いているようだ。 だからこそ、失礼だとは思いながらも言わせてもらえば この本は世の中に出版するものにしては、 テーマに対して考え方や内容が稚拙である感が拭えなかっ... 続きを読む »
「変化や進歩が当たり前とする常識や思い込みに対しての抗いは、明晰すぎるものへの不安感や警戒心にも通底する。条件反射のような断言や自信たっぷりの確信に触れるたびに、頷くことへの躊躇いや曖昧な羞恥をどうしても払拭できない…」
すべてに賛成できるわけではない、当たり前やけど。
でも「一人称を失った主語」の恐ろしさっていうのは、そのとおりやって思いました。広く考えなくたって身近な学校にだって、その恐ろしさは溢れてるよね。
「タマちゃんを食べる会」という短文が掲載されている。
2002年、あざらしのタマちゃんブームの際に書かれたものだ。
曰く、自分のまわりにある数多くの製品が、
夥しい数の他の生命の犠牲の上に成り立っている。
そのことに無自覚に、思考停止に陥って、目の前のタマちゃんだけを
可愛がるような不感症にはなりたくない、と。
だから、タマちゃんを食べる、と。
森達也が一貫して言い続けている「一人称単数」「思考停止」「想像力」が
随所に現れた名著。
マスコミ報道に関して物申すと言いながら、じゃないかもしれないとやる、読んでるほうは混乱するし読みづらい。言いきらないスタイルなのだと思うけれどあまり関心出来ない。
「そうそう!そうなんだって!」 もあれば、 「はー・・・まったく、その通りです。恥ずかしい。。。」 まで、色々ありました。 凄い底辺のところから見て、並べて、考えて。 だから短絡的に安易に流されない。 「ちょっと待って、なんか、おかしくないですか?」 それを見つけてくれています。 意見代弁者とかでもなく、批判・批評家でもないみたいなんです。 なんやかんや、優しいんだと思い... 続きを読む »
マスコミとは違う角度から事象を観察して見せてくれる。また、マスコミが報じない「マスコミ自身」についても。<br />世の中の事象は多面的で、報道はその一部の面に光を当てているにすぎない。もちろん、この本によって報道内容がすべて補完されているわけではないが、大衆が事象を画一的に見る怖さを少なくとも認識することができる良書と思う。
内容全てに納得できたわけではありません。踏み込みが甘いとも思えるコラムもあります。 しかし、新しい視点(物事の考え方)を得られたと思います。 被害者は一方的な被害者か。加害者は一方的な加害者か。 マスコミ(断罪者ではなく、あくまで報道者としての)のあり方とは。 フィクションとドキュメントに境目はあるのか。 表現することは、情報を単にパッケージすることではない。 「私」が見たもの、聞いた... 続きを読む »
・リアルな映像なんてのは存在しない。重要なのは、伝える側の「テーマ」と、受けて側のイマジネーションだ。
・世界ではあらゆる被害者が生まれている。例えば日本国内だけで、交通事故による志望者は1日20人。もしも遺族の心情を理由にするのなら、テレビドラマで交通事故なんてこれからは扱えなくなるはずだ。
・僕も明日引きこもるかもしれない。
・僕は常に自覚的でありたい。 過剰な善意や一方向だけへのヒューマニズムが。他社の生命や営みへの想像力を停止され、思考の麻痺へと発展するのなら、今のアメリカと変わらない。
フェイスの本棚から拝借 「世界の思考を停め、僕らの身を現在も脅かし、そして僕らが本当に対峙すべき相手は、 邪気や悪意などでは断じてなく、一人称の主語を失った善意や優しさなのだ。」 森達也の文章はすーっと入ってくる簡単な言葉で語りかけてくる。 私の思考を待ってくれる。 森さんが文中で、(偶然最近読んだ)1984年を多々引用している。 1984年の中ではニュースピークと... 続きを読む »
だらだらだらだら読み続けてやっと読み終わった。「タマちゃんを食べる会」は森達也の記事だったのを知らなかった。確か、どこかの小論文の入試問題になったとかならないとかで、どう思うかと聞かれたらなんと答えようかと考えてみたものだ。おそらく、「食べる」というのは挑発で、他の動物は平気で食べているのに、外国人には戸籍を与えないのに、タマちゃんだけに極度に甘く感覚が麻痺している人々を批判しているのだろう。しごくまっとうな意見である。その他、メディアの自主規制や、ぬるい倫理意識や問題認識についても考えさせられた。一方で、自体を正確に伝えようとする人がいることも知れてよかった。あと、掲載できなかった原稿も収録されていたので、こういう意見が没になるのだなあということもわかり、ためになった。
大体、森さんの著書を読むのも一段落してきた感はある。いろいろと考えた。いろんな考え方に気付かされた。あー、何でこんなことも気付かなかったんだろうっていうくらいに、ごくごく当たり前のようなことを結構僕は見落としたり、ぽろっと落としてそのまま行ってしまったりしているんだなぁ、と感じながら、もう一度それを拾い集めてみようかなぁって気になった。(08/4/12)
「ずっと感じているんだけどなんだか上手く言葉にできない」というのどに刺さった小骨みたいなものを、著者自身も探り探り、でもしっかりと言葉にして筆を進めている。決してストレートに伝わることがないのを分かっ...
![第3回 ブクログ大賞[2012]](/ad/1201/award_booklog200_65.gif)

