- Amazon.co.jp ・本 (161ページ)
- / ISBN・EAN: 9784267018404
感想・レビュー・書評
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鶴見俊輔をウィキペディアで引くと、大正11年6月25日生まれ、日本の哲学者・評論家・政治運動家・大衆文化研究者とある。アメリカのプラグマティズムの日本への紹介者のひとりで、都留重人、丸山眞男らとともに戦後の進歩的文化人を代表する1人とも。別の著者の著作の中で、鶴見俊輔を知り、いつかは触れてみたいと思った。ちなみに、写真を検索するとクリクリの目。愛らしい人だ。祖父は後藤新平。
しかし、この本にはもう一つ、素敵なオマケがあった。それは対談相手の重松清だ。彼の小説は何冊か読んだ事があるが、その小説を対談ごとに鶴見俊介が褒める。重松は謙遜する姿勢を崩さぬが、それもまた良い。彼の小説が読みたくなったというのが本著の副次効果だ。
二人が教育について話す。特に印象的なのは以下の内容。日本の教育は、偏差値重視、テストの点数を競い合うようになり自壊し、その中からエリートは生まれないと。その境目は1905年だと鶴見俊介は言う。1853年ペリーの黒船の時に幕府が全国の大名にどうしたらいいかを尋ねた。その時のみんなの返答はよろしいようになさってくださいだと。そこからわずか10年の間混乱の中から指導者が抜きんでてきた。これが本来の意味のエリートである。つまり大衆の中から抜きん出る人。坂本龍馬は郷士、高杉晋作は無禄、横井小楠は軽輩。西郷隆盛も大久保利通も下級藩士。
1905年までの教育の形と言うのはゲマインシャフトによる人と人との付き合いの中で発生したもの。しかしそれ以降は学校教育は成績を求めるものに変わったのだと。論理的に考えて、それが正しいかは分からない。しかし、感覚的に言いたい事は分かる。人間社会は必ずしも合理性で説明ができるものではなく、地縁や家族、務める会社など、集団に愛着形成して生きていく。ゲマインシャフト性がもつ、非合理な領域にこそ、その領域の期待する目的に合った救世主のようなエリートが発生しやすいのかも知れない。一問一答の教育の型通りに上位を目指しても、辿り着く世界は大衆の変革には役立たぬ、量産型だ。分かるような気がする。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
図書館で背表紙を見て借りてきた本。重松清さんにとってみれば憧れの存在である鶴見俊輔さんとの対談は「至福の体験」だったそうで、文章のあちこちから重松さんの感嘆と喜びが伝わってくる。大きな文字で読みやすいけれど今の時代にこそ大切な教えが満載。教育関係者に限らず、多くの人に届いてほしい。
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哲学者と小説家による日本人をめぐる5つの対話。月刊「潮」紙上に掲載された両氏のシリーズ対談を、単行本の為に再構成したもの。2005年に始まった九条の会のメンバーたちの最後のときが近づいている。それはそれなりに、彼らは若者たちに語るべき言葉を語ろうとしているのかもしれない。たとえば、この本がそうだと思う。(2010.3読了)
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現在の教育についての根本的な問題が日露戦争の終わりから始まっていたとは…そりゃちょっとやそっとじゃ解決できそうにもないわな。
博覧強記とはこの人のためにある、という鶴見俊輔先生の前で重松清がまるで10代の学生のように初々しく問いを投げかける姿が新鮮。
ゲマインシャフトを失ったこと、それが日本の混沌の一因か。 -
鶴見俊輔さんと重松清さんの対談集。
重松さんはこれは対談ではなくて講義だといっているが、その通り、重松さんを相手に鶴見さんが語るという体裁のもの。
重松さんも第二章くらいから随分積極的な聞き手になってきて、子供の話にたいしてはいくつか面白いエピソードを紹介して、鶴見さんの更なる話を引き出してくれている。
鶴見さんの話は何度も聞き覚えのある話でも、そのエピソードがでるコンテクストによって様々な意味合いをもたらしてくれるから不思議だ。
今回初めて読んだもので面白かったのは、
自殺してもいいの?という鶴見さんの息子さんが発した問いに対する鶴見俊輔風の答え。
「もし強姦をして、証拠隠滅のために女を殺そうと思ったのなら、そのときは自分を殺しなさい。」
とても軽い本で2時間くらいで読めるけれど、鶴見さん入門としては少し物足りない。鶴見ファンの鶴見思想コンプリヘンションのための本と言った方が的確。
今編集者の人たちは、彼の言葉を少しでも残しておこうと必死なのだろうと思う。 -
まずタイトルが素晴らしい。自分についての覚悟がちゃんとあったうえでの言葉。自分はまだまだこんな言葉は言えない。
日露戦争以降、日本人の中で勘違いが起きて日本の教育が変わったという考え方にもすごく共感できる。 -
重松清さんの小説を数冊読んでファンになったので。
重松さんが鶴見俊輔氏の生い立ちを聞くことで
「君はどのよううに生きるのか」と問う。
日本の本当の教育は日露戦争で終わった と言われると
我々にはどうしようもない。全体的に「昔は良かった」感が
濃厚にあって少し読後感が悪かった。
これは対談として読むべきものでビジネス書や
ハウツー本として何かを求めて読むからそうなるのであって
本の内容が悪いわけではないのだ。