1960年代に草月アートセンターで前衛音楽運動に参加し、1963年〜72年まで、西ドイツ、アメリカを中心に現代音楽のピアニストと作曲家として活動。1970年代は日本で音楽雑誌『トランソニック』を編集。1976年に富山妙子と出会い、1978年にアジア民衆の抵抗歌を歌う「水牛楽団」をつくり、月刊「水牛通信」を発行する。著作に『高橋悠治コレクション1970年代』や『音の静寂、静寂の音』、『きっかけの音楽』などがある。
「2009年 『蛭子と傀儡子 旅芸人の物語』 で使われていた紹介文から引用しています。」