[ 内容 ]
ドン・デリーロの名声を支えているのは、一連のスケールの大きな長編小説である。
その中で自ら証明したとおり、アメリカという国家の精神を分析させればデリーロの右に出る者はいない。
だが本作『The Body Artist』では、「広がり」を犠牲にして「奥行き」を追求し、ひとつの生、ひとつの死に的を絞っている。
主人公はローレン・ハートキ。
彼女は冒頭シーンで夫のレイと朝食を取っているのだが、この18ページに及ぶプロローグが心憎いばかりに見事なのだ(といっても、前作『Underworld』の冒頭で読者に浴びせた一斉射撃ほど派手ではない)。
シリアルを器に盛り、窓の外に目を凝らし、夫と雑談を交わすローレンの意識の描写が、複雑に入り組んでなおかつ滑稽で、いかにもデリーロらしい。
一方のレイは、食事を終えるなり先妻の家へ直行したかと思うと、だしぬけに自分の頭を銃で撃ち抜いてしまうという、何とも哀れな役回りである。
ここから先は、ヘンリー・ジェイムズの『The Turn of the Screw』(邦題『ねじの回転』)ばりの途方もなく奇怪な幽霊話に転じていく。
少なくとも7つは曖昧な点があるのだが、その謎解きを読者任せにするところも『The Turn of the Screw』に似ている。レイの葬儀のあと別荘に戻ったローレンは(夫妻は夏用の別荘を借りていた)、知らぬ間に空き部屋に住み着いた正体不明の若い男を発見する。
まともに口の利けない、知恵遅れと思しき男。ひょっとすると何週間も前からこの部屋に潜んでいたのかもしれない。
彼の存在そのものが、ローレンにはうまく理解できない。
「何だか捉えどころのない男だ。一瞬ごとに影が薄くなっていく」
ところがこの謎の人物は、ほどなくレイの声で、そしてほかならぬローレンの声で語りだし、レイの自殺前の数日間に2人が交わした会話の一部始終を再現するのだ。
レイの魂が乗り移ったのか?
それとも特殊な能力を持つ精神薄弱者が、隠れて盗み聞きした夫妻のやり取りを再演しているだけなのか?
デリーロは何ひとつ明確な答えを示そうとしない。
それどころか、悲嘆に暮れますます困惑する主人公をよそに、過去と現在の、生と死の交差らしきこのできごとについて、自らの声で思索をめぐらすのだ。
時にレトリックの抑えが利かなくなるのは、いつも素晴らしくコントロールの利いたこの作家にしては何とも奇妙である。
「あれだけの過剰な無防備さが、いったいどうやって世の中を一人歩きできてしまうのか?」――まるで具合の悪い子犬でも哀れむような口ぶりではないか。
それにローレンのパフォーマンスも(彼女は本書のタイトルになっているボディ・アーティストだ)、あたかも残酷演劇のアルトーがエアロビ教室向けに適当にでっち上げたような最低の代物に思えてしまう。
それでも、抽象的思索を抑えてしっかり力を出しているところでは、さすがはデリーロ、読んでいて思わず息をのむ。
愛する者の死が、人を徹底的に打ちのめさないわけがない。
愛する者たちが不意に姿を消したあと、初めて人は愛するすべを知る。
そしてようやく、彼らの苦しみがすぐそばにあったことに気づくのだ。
彼らに対してむやみに自分を抑え、気を許すことなど稀で、ギブ・アンド・テイクの網を細かく操っていたことに思いいたるのだ。
作家人生のこの時期に紙数の少ない作品を上梓するのは、デリーロにしてみれば冒険だろう。
あえて感情表出を多用し、アメリカのトラウマでなく個人のトラウマに読者をどっぷりと浸らせる試みもしかり。
となれば、難点があろうとも『The Body Artist』は紛れもない力作、野心作だ。
「大きい方が優れている」というのは常に真ではない。デリーロほどの壮大な想像力の持ち主にとってもそれは同じだということを、本作品が教えてくれる。
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