偶然性・アイロニー・連帯: リベラル・ユートピアの可能性

  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (456ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000004497

作品紹介・あらすじ

人間の連帯は、真理の哲学的な探求によっては不可能である。他者が被る残酷さに対する私たちの感性を拡張することによって、連帯は達成されるのだ。20世紀後半を代表する哲学者が、ありうべき社会はいかに構想されるかという課題を、永遠に自由を実現してゆく終わりなき過程である「リベラル・ユートピア」として描き直す。世界中に大きなセンセーションを巻き起こした「哲学と自然の鏡」の政治哲学的帰結-衝撃の問題作。

感想・レビュー・書評

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  • 前作『哲学と自然の鏡』において普遍性を目指す営みとしての哲学を批判的に解体したローティはその批判を突き詰め、表題にもなっている「偶然性」、「アイロニー」、「連帯」をキーにリベラルユートピアの実践の可能性を探索する。

    リベラルユートピアに必要なことは
    アイロニーによる私的な領域と
    残酷さへの意識という公共的な領域とを並存させることだとローティは説く。

    本書では、私的領域を開発していくアイロニストの例としてプルーストやデリダが、
    残酷さを描き出すことによって連帯に寄与した例としてナボコフやオーウェルが検討されていく。

    わたし個人、特に興味を惹かれたのはアイロニストとしてのプルーストについての言及だ。ローティが使用するアイロニストの意味はやや特殊である。
    ローティの言う「アイロニスト」とは普遍性、永遠性、固定的な真理性とは対照的に「偶然性」をもって臨んでいる者のことである。変化することのない絶対的な真理や存在を求めない、いや、そもそもそんな問題にかかずりあわない。自分が関係を持つことになった対象、-それは必然的に偶然性以外のなにものでもないのだがーを歓待する。そんなスタンスを有した者のことだ。

    アイロニストは偶然性を受け入れる。偶然性を受け入れるということは要するに、変化を受けれいることであり、それはまた時間性への意識でもある。
    プルーストがアイロニストの代表として取り上げられているのはまさにこの点においてなのだ。
    『失われた時を求めて』の最終巻のタイトルは「見出された時」だが、主人公は、貴族の没落、成り上がりの者の繁栄、美しき婦人の老衰、政治思潮の激変、憧憬を抱いたものへの失望などなどを目の当たりにし、それら圧倒的な変化としての「時」を再発見する。
    このように主人公が時を見出したことによって『失われた時を求めて』の執筆を決意し物語の幕が閉じられるのだ。

    整理すると『失われた時を求めて』を執筆したプルーストは、ローティの言う「アイロニスト」になるまでの過程を、アイロニストとしての眼差しで描き直したということになる。
    このあえてつくられた位相のずれはプルーストが本来の意味でも「アイロニスト」たることを証立てていると言えるだろう。

  • 大学図書館

  • NHK100分で名著で放送している本である。非常に読みにくく内容が頭にすっとは入ってこない。本で読むよりも放送で聞いた方がよくわかる。原文が難しすぎるのか、あるいは翻訳との相性が悪いのかよくわからない。
     学生にもどうやってすすめていいかよくわからない。

  • やべ〜、『資本論』ぶりに全然頭に入ってこないし何言ってるかわかんない←哲学に造詣深くないので最初は苦戦したけど読み通していくうちに言いたいことはなんとなくわかってきた

    第三部に入ってから読みやすくなった…ような気がする。文芸批評的趣きが強いからかな。ナボコフやオーウェル批評としても興味深いのでこの機に『一九八四年』読み返したり『ロリータ』『青白い炎』読みたくなった
    『一九八四年』の拷問についての解説読んでると韓国の小説『生姜』思い出す

  • [出典]
    「「逆張り」の研究」 綿野恵太

  • おもろい

  • 人間の普遍的な本性、真理を求める形而上学的思考をいかに避け、その単一化を避けるのみならず、自己を正当化し相手を否定する二項対立も和解させる。これはカント的アンチノミーの調停とも言えるし、デリダ的ポストモダンの脱構築とも言える。分析哲学とポストモダン哲学、私的領域(実存主義・美と崇高)と公的領域(政治哲学・道徳)を和解させる。哲学内の分野のみならず文芸批評も行うという、横断の幅が大変広く、高密度の議論が繰り広げられる名著だ。何より重要なのは、今ある自己・言語・共同体の歴史的偶然性の概念と、それを受け入れつつも常に疑い距離を取るアイロニーである。その2つによって、政治的な公的領域と、道徳や美による自律的な自己創造・私的完成の私的領域をはっきりと分けることができる。そのことが、動物を含む物理的苦痛・人間特有の精神的屈辱双方の他者への残酷さを避ける憐れみのリベラリズム的連帯と、私的な信念欲求を他者へ強要しないアイロニズムを共存させることができる。
    私的完成について。歴史的偶然的に決定され、その外のメタ言語を持たない、自分を形作る自分の語彙である「終極の語彙」を、新しいメタファーの獲得という詩人的な手続きによって、自己の過去と、偶然的な自己原因としての「盲目の刻印」を描き直す(再記述)ことで、私的完成、自己創造である自律性を得ることができる。
    伝統的哲学は、普遍的真理・本性を求める発見の作業だったが、ヘーゲル弁証法以降、文芸批評という文学の一種となり、新旧語彙の比較の言語ゲームとなった。それ以降は、哲学をメタファー獲得の私的完成に使用するものだとする点で、哲学の限界を指し示している。ローティが限界を示すという手法を取る点ではカント的である。この、「哲学は一種の文学として、私的な完成にとどめる」という示唆は、哲学理論を政治的に適用することでは何の成果も得られず、危険性がのみが残る現状を言い当てている。しかし、小説こそが偶然性による他人の苦しみに気づくことにつながる、とするような社会的知識獲得に文学を最上段に置くところは多少強引ではある。読書を友人と設定することで、文芸批評的態度が盲信を避けるという意味では、ある程度説得力があるし、実践的であるかもしれないが、いわゆる文系的にすぎるという点は否めない。文学の評論は、どんなに理論的に裏づけされようと、社会的知識としては薄弱で、やはり私的な感想の域を出ない。
    本書は、ハイデガーの『存在と時間』で示唆した現存在のあり方の具体化、発展とも取れる。つまり、独断的に突き進むハイデガーやニーチェのような私的言語を話す詩人を、どうやってリベラルな社会で生きられるように活躍できるようにするか、という私的完成の公共圏における安全の擁護に寄っている。私的領域の自由を道徳的義務から守るということがまずもって念頭にある。そのことによって、あとから公共性がネガティヴに「苦痛を避ける」と規定される。正しさの単一性で捉えるのではなく、「今のところ間違っていないが可能性はある」と複数性に寛容になる態度ということだ。こんなふつうに考えて当たり前のことを、社会どころか個人も実現できてないというディレンマを、改めて、極めて明快に提示した貴重な著作である。
    また、ニーチェの解釈についても、ハイデガー『ニーチェ』によるところが多く、ハイデガーに対する評価が現れていると同時に、不都合な点を修正している洗練された議論だ。その不都合な点とは、自己言及性と形而上学への逆行である。私的な完成としてのアイロニスト哲学は、文学として自己の終極の語彙を完成させる。しかし、理論体系を閉じるために自著をどう終わらせるか、理論を自分に適用できるかという、柄谷行人でいう自己言及性に突き当たる。そして、真理や本性の形而上学を糾弾した反動で、ニーチェ「ヨーロッパ」、ヘーゲル「歴史精神」、ハイデガー「存在」など、その根拠を新たな形而上学に近づけてしまう。
    全体を通してカント、ヘーゲル、ニーチェ、ハイデガーへの言及が多い。特に第5章ニーチェに関しての前知識(著作の一つというより著作群を貫く哲学的な狙い)がないとピンと来にくくものもある。また、第8章オーウェル『1984年』もかなり踏み込んだ解釈をしている。
    第1章では、デイヴィドソンの言語哲学を軸に言語の偶然性を示唆する。
    第2章では、ニーチェアイロニズムとカント形而上学をフロイトで調停し、自己の偶然性による特異性を擁護する。
    第3章では、自己を公的権力から守るアイロニストのフーコー、主体の代わりにコミュニケーション的理性を配置するリベラルのハーバマスを和解させ、公的な残酷さを避け、私的な自己創造を実現するリベラルアイロニストを提示する。
    第4章では、形而上学者とアイロニストの差異を示し、形而上学の危険性を示唆する。
    第5章では、ニーチェ、ヘーゲル、ハイデガーのアイロニスト理論と再形而上学化、自己言及性、私的完成の公的領域への流入の問題を、プルーストのアイロニスト小説が、偶然性を私事化させることで解決を見ることに焦点を当てる。
    第6章では、デリダ『絵葉書』「送る言葉」を解釈する。東浩紀『存在論的、郵便的』とは違った文芸批評的な視点から、ハイデガーの失敗を乗り越える物語として、作品そのものに一貫性を持たせる。
    第7章ではナボコフ『ロリータ』『青白い炎』
    第8章で、オーウェル『1984年』の踏み込んだ解釈。ナボコフは私的追求が生む他者への残酷さを、オーウェルは公的単一性が生む残酷さを現し、連帯の条件を両側から示唆する。
    第9章で連帯の条件を消去法的に論じる。
    ・序論
    公正と利益のプラトン、自己実現と他者への奉仕のキリスト教の公私統合は、人間の共通本性があることを前提する。ニーチェはそれを懐疑したが、それもまた別の本性を前提する。ヘーゲル以来の歴史主義は、人間本性を否定して歴史環境の影響を強調することで、形而上学的な真理から自由へ目標を移した。しかし自己にとらわれる歴史主義者ハイデガーやフーコーは依然としてニーチェ的であり、共同体にとらわれる歴史主義者デューイやハーバマスは私的な完成を非合理・審美とみなす。本書は彼らに同等の重要性を置き、目的を別に見出す。ただし、これらを包含する単一のヴィジョンは存在しない。せいぜい考えうるのは、公正で自由な社会が他者の利害を毀損しない範囲で私事本位であるということ。私的完成つまり自己創造的で自律的な人間の生にかかる語彙は私的で共有されないが、正義の概念は公共的で共有されるので、統合する方策はない。しかし、それぞれ別の道具として利用するすることで、社会は唯一の徳性ではないと気づき自己再創造することと、現在の制度慣行が公共性を実現していないことを理解できる。本書は、自己創造と連帯は共約不可能であるが同時に満足できる、リベラルアイロニストを提示する。シュクラー、残酷さこそ最悪と考える人々がリベラル。信念、欲求は偶然与えられたものにすぎないとする歴史主義的唯名論的な人がアイロニスト。残酷さ、不正や自己創造に対する時期、最適な拷問の人数、家族共同体の内外の優先など、道徳的な問いは神学形而上学の問いであり、リベラルアイロニストにその回答はない。しかし、デモクラシーや連隊に敵対するわけではなく、リベラルユートピアの可能性。達成されるべき目標であって、想像力によって見知らぬ人を苦しみ悩む仲間とみなす。連帯は創造される。この過程、道徳上の変化と進歩を伝えるものは、説教や論文から小説、映画、テレビ番組へと移ってきている。理論に対抗し、物語を支持するというこのことは、単一の語彙による記述を放棄する。そのようなメタ言語は存在しない。重要なのは、真理の記述ではなく、自由を永遠に際限なく実現してゆくこと。
    ・1
    フランス革命により、ユートピア的真理は作られるものということになった。ロマン主義によって芸術が自己創造となった。この二つは知識人の文化的ヘゲモニーとなった。このことは、真理は発見されるものとする、旧来の啓蒙や科学の理性主義との亀裂を生み出した。科学的事実に対し、主観とメタファーを対峙させる。ドイツ観念論は科学に──カント的に現象界あるいはヘーゲル的に精神の一つとして──創造された真理の記述を割り当てるが、哲学において人間本性を知ることができると信じている点で不十分であった。必要なのは何かに本性があるという考えを捨て去ること。世界があると主張することはたんに事物を結果とみなすだけだが、真理があると主張することは、世界を人間の心で記述可能だとすることなので、人間なしに真理があるということはありえない。世界と真理を混同すれば、真理が一人歩きする。このことは、言語外の事態を、ある分野の文単位で当てはめて真理とみなすことで起こるが、分野ごとすなわち言語ゲーム単位で比較する時、どの記述方法が真であるかは決定できない。言語ゲームの変換は、意志決定の選択ではなくたんに習慣による。決定の尺度を内面や世界に求めるべきではない。尺度の誘惑は、一つの言語を特権化する、本有的特性、本質への誘惑による。むしろ実在は、語彙の使用によって創造される。真理は言語の属性。ヘーゲル歴史精神はヨーロッパの言語慣習の変化を表すもの。ロマン主義的な人間の想像力は、言語の変化が文化を変えるということ。政治的ユートピア主義思想は、言語の変化が異なる種類の人間を作り出すということ。つまり、ドイツ観念論、フランス革命家、ロマン主義詩人が共有したことは、世界の真理の記述をやめることで、新しい人間になるということ。
    しかしそう語ること自体が本性を前提することになる。かといって脱構築的に自らの語彙を拒絶したところで論点を回避することになる。そうではなく、新たな言語外行動の形式を求める探究を促すような、言語の行動パターンを創造するまで、再記述していくプラグマティックな方法である。旧いやり方をやめて、違うやり方を探す。デイヴィドソン言語哲学を、本性を棄て偶然性に直面することの表明としてみる。言語の偶然性が、良心の偶然性にいたり、メタファーが便利になる歴史として、知識と道徳の進歩を描く。言語哲学は、人間が言語によって真理をつくり出すことを示す。そのことに徹底したのがデイヴィドソン。言語は、世界や自己に適合するものでもなければ、実在を対応させた自己の信念や欲求を表現再現する媒体でもない。伝統的哲学からの転回として、中心が自己から言語に移ったが、言語を媒体として描く限り、効果はない。世界の実在、言語、意識や心としての自己。観念論と実在論、ロマン主義と道徳主義、いずれも意識と言語の転移にすぎない。
    デイヴィドソンは分析哲学的な還元主義や、ハイデガーのような拡張主義を避ける点でウィトゲンシュタインに似ており、語彙を道具として扱う。語彙を統一する超語彙を想定する問いは悪名を付すだけだ。ジグソーパズル的に取り替えたり一つの体系が見出されると思い込む。語彙が抑制し合わないかという、道具が役に立つかどうかを問うべき。芸術科学思想の革命的偉業は、2つ以上の対立語彙に取って代わる新しい語彙を発明することにある。アリストテレスが力学の妨げになり、イエスがギリシアの妨げになり、ガリレオ、ヘーゲルの語彙を生んだ。これは適合の発見ではなく、新しい道具の発明である。滑車によって梃子と止め木を捨てるようなものだ。語彙と道具をアナロジーで結びつけるウィトゲンシュタイン的なやり方の欠点は、普通の道具が目的が先なのと異なり、新しい語彙によって初めて目的が明確になること。しかしこの欠点は当分無視する。ジグソーパズルと道具の対照は、真理への意志と自己克服への意志との対照。すなわち実在の表現再現と自己創造の対照。
    デイヴィドソンの伝統的言語観、すなわち事実と意味の図式-内容モデルに対する懐疑。
    「碑文の巧みなる撹乱」、互いの話を理解したいのならば必要なものは、互いの期待を一致させるつかのまの理論を収束させる能力。これは媒体としての言語という描写を不要にする。一個の言語というものは存在しない。
    ギルバートライル、ダニエルデネット、有機体は心を述べるとき、志向姿勢に従って有効な語彙を使用しているにすぎない。
    どちらも非還元論的行動主義。心や言語を、媒体としてではなく、ある有機体に対処するときの望ましい語彙の合図として考える。心をある目的に対する信念や欲求と考え、言語をマークや音声を自分たちのものと照合することは、行動予測に役立つ。ウィトゲンシュタイン的態度。事物と自己の間の表現としてではなく、有機体と有機体の間の因果に、言語を置く。言語の歴史を芸術と科学、道徳感覚の歴史をメタファーの歴史とみなすことは、心や言語を神や自然に適合するという描き方をやめること。言語文化をダーウィンと同じ仕方で考える。新しいメタファーに代わられる。言語は、たんなる偶然性の所産として形成されたものにすぎない。
    科学であっても事物の本性ではなくメタファーによる再記述にほかならない。DNAやビッグバン、世俗化、後期資本主義など、言説はすべてランダムな因果的な力によるものだ。ニーチェデイヴィドソン的な非目的論的描写と、人間と宇宙の機械論的記述が両立可能なのは、革新性が偶然的に生じるからである。ニーチェ、真理はメタファーの動的な一群。
    字義通りなものとメタファーの区別、馴染みのある旧来の使用と馴染みのない新しい使用。メタファーは、別の意味に置き換えるのではなく、目的をうまく達成する方法。定着すればメタファーであることをやめる。
    メタファーに関して、プラトン主義実証主義は還元主義的に置き換え可能とみるが、ロマン主義は拡張主義的に想像力とみる。どちらも言語を実在の表現と考えている。ニーチェデイヴィドソンは、言語を盲目的進化、目的に対するよりよい道具の更新とみる。自分自身の目的のために、語り方を変えること、すなわち望むこと、自分の在り様と考えていることを変えること。人間の歴史をメタファーの歴史とみれば、詩人は人間という種の前衛。
    代置するメタファー間の選択に関する尺度を、世界が私たちに提供することなどない。言語やメタファーを事実と比較するのではなく、相互に比較しあうにすぎない。このグッドマン、パトナム、デイヴィドソンの主張を、科学哲学者クーン、ヘッセによって補う。彼らはアリストテレスよりガリレオ、自然は数学で書かれているなどと説明はできないことを示している。
    歴史家ハンスブルーメンベルク、世界や自己の本性があるという考えは、世界は神の創造物だとする考えの残滓。言語を道具としてより再現とみている。こうした考えを棄て去り、ウィトゲンシュタイン的態度をとれば、脱神聖化できる。そうしてはじめて、「真理は文の属性で、文は語彙に負い、語彙は人間存在によってつくられているので、真理もまた人間存在による」という議論を受け入れることができる。
    真理はそこに在る、事実、客観性への敬意などは、聖職者のいう神に対する不遜を述べているに等しい。事物の在り様に関する深層の意味などない。死んだメタファーを敬うこと、デリダのいうハイデガー的ノスタルジア。17世紀に科学は擬似神性化し、愛が神から真理へ、18世紀終わりに真理から自己へ、すなわち深層の精神的詩的本性崇拝へ。ブルーメンベルク、ニーチェ、フロイト、デイヴィドソンは何ものをも崇拝しない。言語、良心、共同体すべて偶然の産物。私たちが到達すべき地点。
    ・2
    エピクロス、私が存在するとき、死は存在しない。そして死が存在するとき、私は存在しない。死の恐れは私の喪失だが、フィリップラーキンの詩は、私=心を積荷のリストのように書き起こすことで、他人から区別するものとしての私の喪失を恐れていることを暗示している。言語に、他者との区別としての自己を刻むことはできない。ハロルドブルーム、影響を受けることの詩人の不安、コピーやレプリカにすぎないと気づくことの恐れ。しかし、ラーキンにとって、天才的な個人だとしても何の慰めにもならない。死にゆく者にしか意味がない。むろん、ヘーゲル的に自己意識による自己創造とみなしはじめて以来、特異性は無意味ではないのだが、私という特殊な偶然性は本当は重要ではないということをラーキンは仄めかす。すべての人、時代に共有される連続性を見出すことによってのみ人は安らぎを得られる。偶然性を受け入れた自己創造、偶然性の超越としての普遍性の緊張関係。プラトンと袂を分かつヘーゲル、ニーチェ以来の、自由を偶然性の承認とみる態度。ヘーゲルの歴史性の汎神論的観念論から切り離す哲学者たち。人類のヒーローは、科学者ではなく、詩人つまり創造者というニーチェの主張を受け入れた人たち。静的な観想ではなく、個人の偶然性。ウィトゲンシュタインやハイデガーは、個体的偶然的こそ普遍的必然的と示そうとした。哲学が詩に降伏する試みに到達している。全ての人間に意味ある「盲目の刻印」は、人間の普遍的条件、偉大なる連続性、不変で非歴史的生のコンテクスト。聖職者、ギリシア哲学者、経験科学者、ドイツ観念論者が同じ主張をしたが、その根拠は力の在処、実在本性、経験可能性の条件という盲目・偶然性ではない必然的本質的目的論だった。詩人のいう偶然性は動物的なものだった。真理を知ることを棄てたのはニーチェ。自らの用語で記述し自己創造する、死にゆく動物の固有種として慰めを求める。しかし、私たちの原因、盲目の刻印を棄て去らなかった。自己認識を自己創造とみなし、自己を知る、自己の偶然性を直視する、自己の原因を辿る過程は、新しい言語すなわちメタファーという過程と同じ。旧来の言語ゲームで、自己の特異性個性を記述することはできない。人間としてうまくいかないことは、誰かによる自己の記述を受け入れること、用意されたプログラムを演じること。自己の原因を辿る唯一の方法は、自己の原因についての物語を新しい言語で語ること。原因は発見されるものではなく、発明される。字義通りとメタファーを、世界に合致するとしないではなく、旧来の言語と新しい言語と捉えることで、パラドクスは解消する。詩人と凡人、人間と動物、強さと弱さ、その境界は、自作の言語による物語によって盲目の刻印を具体化する。時間性を超えた不滅の真理の世界との境界ではなく、新しきものと旧きものの境界線が、真理への意志と自己克服への意志との違い。自己より巨大な永続的なものにつながるのではなく、ニーチェの救済とは、「あった」を「私はそう欲した」に再創造すること。
    →偶然性を必然性に変換する処理
    歴史は目標に向かうのではなく、自己克服の過程であり、物語になるのは新たな方法と自己を見出した、そう欲した天才の生である。徹底して考え、探究し、自己再編しようとする衝動は驚きではなく、コピーかもしれないという恐れ。アリストテレスは高貴な世界への驚き。詩人が望むのは、盲目の刻印を自らがなした過去に与えること。このニーチェブルーム的企ては、経験的真理探究を転回したカント道徳主義の内面の神聖化と、自己中心化のロマン主義の闘争に対し、フロイトの道徳の歴史的社会的偶然性の指摘による脱神聖化を置くこと。フロイト主義によって、良心の呵責を性的衝動の偶然の抑圧に基づく罪意識の更新とみなすことができる。良心は自我理想であるという革命性。フロイトの斬新さは、具体的な事象の詳細な説明にある。「潜伏期」「同情のナルシシズム的起源」などの良心的同情的潔癖の性質に関する記述から、憐れみの意識を極めて具体的な人間関係として考えることができる。誠実さと清潔さの結びつけによって高き低き、本質偶有、中心周辺といった伝統的区別を解体する。偶然としての自己。フロイトの道徳に関する語彙、未発達期、サディスティック、強迫的、パラノイア的などによって、より具体的に描写できるようになった。このことは、プラトンカント的な道徳と思慮の区別を崩す。カントは理性と経験的感覚・欲求に引き裂き、後者は盲目的偶然的特異な印象に関わる。フロイトは合理性を偶然に適合させるメカニズムとして論ずることで、科学と詩、天才と精神異常、道徳性と思慮怜悧の区別から適応モード(様式)の選択としてみることを可能にする。カントプラトン的一般的原理ではなく、フロイトは過去の偶然から現在を比較し解放することで、尊重できる自己を創造できるとする。プラトンの企ての放棄、すなわち公私、国家と魂、正義と個人の統一の放棄。意識的な私的目標は特異なもの。フロムやマルクーゼのようにフロイト道徳心理学を社会的目標とすることはできない。普遍から具体へ、必然の真理から過去の偶然(盲目の刻印)へ目を転じさせる力がフロイト唯一の効用。ニーチェブルームの詩人と両立可能。カントは律儀な人物を範型とみなし、彼らのために、実践理性を純粋理性から、理性的宗教を熱狂主義から区別し、叡智界を確保し、宗教の余地として物自体を否定した。しかしフロイトは退屈で成熟したカント的律儀な者でも、畏敬をはらうが未発達期的なニーチェ的詩人でもなく、範型的人間そのものを回避した。真に人間的であるという世界の穴埋めとしてのカント的自己の神聖化を放棄する。本性を放棄する意味でニーチェフロイトが繋がる。ただしニーチェは大多数の人間を動物としたが、フロイトは全ての人の生を自己のメタファーによって詩に変えることができるという意味で有益だ。フィリップリーフ、万人に創造的無意識を付与し天才を民主化した。ライオネルトリリング、心の構造に生得的に詩が備わっている。レオベルサーニ、芸術と人生の区別がなくなった。これは、ロマン主義のような別世界の想像力ではない。共有するメタファーを作り出す能力。このことは、人間の特異性が、具体的に人生で遭遇する人物や事物、言葉などの偶然的なものを、象徴的な目的に利用する能力だということ。この過程は、再記述し、そう欲したと語ることと同じこと。あらゆるものが自己アイデンティティを劇化し結晶化させる。ただ一人にとってのみ意義あるものにもかかわらず絶対的である命法が可能になる。詩や哲学にならない人に伝わらないメタファーをファンタジーと呼ぶが、フロイトはむしろそれを自分が何者であるかについて、全ての行いが生み出す盲目の刻印の形跡を自分流の仕方で辿る方法として示した。逆に他者にとって役に立つ可能性があるメタファーは天才として語られる。天才とファンタジーの差異は、普遍性ではなく、共同体や時代の必要性という歴史的状況の偶然性によって、たまたま理解されることになった出来事の間にある。進歩は、私的強迫観念と公共的必要が、偶然的に一致することから生じる。つまり、特権でも優劣でもない。
    ウィリアムジェイムズ、開墾者にとって自然破壊が勝利と思うこと、研究者にとって研究室に閉じこもることが理想を導くということ、人間におけるある種の盲目性。フロイトは「たんに」あるいは「本当は」と述べるような、実在と現れの区別はせず、別のメタファーを用意するだけだ。世界と自己の脱神聖化。世界と自己の力は我々を打ち砕き絶望や苦痛を与えるが、言語のメタファーによって偶然性を承認し、唯一の力としての詩により自己創造できる。
    メタファーとは旧来の言葉の馴染みのない使用なので、字義通りの馴染みある言葉があることが前提になり、すべてがメタファーである言語に価値はない。詩人もまた読者に依存している。ウィトゲンシュタイン、私的言語は存在しない。メタファーの引き立て役として字義通りのおしゃべりがある。過去への寄生も未来の世代に依存することもない完全なニーチェ的な神聖な詩人はありえない。
    →私的なメタファーも言葉としては、他者を必要とする。
    超人も未来に影響するなら一人ではない。ラーキンの詩の有限性への悲哀は、他の生を生き、詩を書く人々の好意に信頼をおかねばならないということの把握。
    →マルクス命がけの飛躍
    ナボコフ『青白い炎』、人間の生は未完成の深遠な詩の注釈である。フロイト、人間の生はすべて洗練された特異なファンタジーを仕上げることだ。
    ・3
    真理の不在は相対主義と非合理主義、道徳性と思慮怜悧の区別を疑うことは非道徳性と疑われる。しかし、絶対主義と相対主義、合理主義と非合理主義、道徳性と効率性の区別が時代遅れ。これらの語彙は置き換えられる必要があるが、論証ではなく、メタファーが馴染みの言葉として受け入れられる必要があり、反論に対する論駁は再記述にすぎない。反論の語彙を見栄えの悪いものにし、主題そのものを変え、反論者の土俵にのらないこと。これらを回避する道徳的政治的思考がリベラルな社会に役立つ。真理、合理性、道徳的義務が民主的社会の障害になっているので、メタファーや自己創造を中心に据える。これは啓蒙合理主義的な「哲学的な基礎」ではなく、内装を新しくするような、デモクラシーの実践と目標の再記述を可能にする再定式化。リベラリズムの文化は、徹底的に啓蒙され世俗化された文化で、脱神聖化され、真理・精神の充足もない、有限な死すべき偶然的存在としての人間が、その生の意味を他の人間以外から引き出さない。そこにおいては、相対主義、合理主義、道徳的価値であるという疑念は奇異となる。
    →相対主義の方が絶対的で、合理主義の方が非合理的で、道徳的価値の方が非道徳的に映る。
    アイザイアバーリン『二つの自由概念』、人々が信じてきた全ての積極的価値は矛盾しない、という確信を放棄する必要がある。語彙、慣行、価値に対するジグソーパズル的なアプローチを放棄する必要がある。フロイト、自己を自然の計画の終極点ではなく、自然の実験の一つにすぎないとみるべき。JSミル、生における実験。ジェファーソン、デューイ、実験。シュンペーター、自己の確信が相対的であることを表明できることが文明人。バーリン、これ以上を要求するのが人間の癒しがたい形而上学であり、危険な道徳的政治的未成熟。20世紀リベラル社会では、良心の偶然性を認めながらも、それに忠実な人々を大量に生み出している。ニーチェ、ジェイムズ、フロイト、プルースト、ウィトゲンシュタインが示す「偶然性を承認することとしての自由」は、リベラルな社会のメンバーの徳性であり、深い形而上学的要求という病を治癒するのに役立つ。
    サンデル、バーリンは危険なほどに相対主義、自己の確信が相対的にのみ妥当だとすれば、自由を特権化している。このときサンデルは啓蒙合理主義を前提している。絶対的に妥当な言明などないのだから、対立するような「相対的にのみ妥当」という用語を避けた方がいい。絶対的妥当性は日常的決まり文句や数学的真理に限られる。絶対的信念は、「立派な人々」の考えだ。リベラルの論点において、このように理性と情念を分断すべきではない。重要なのは、信念や真理ではなく、語彙や真理値候補が変更されること。信念を支える理由づけと原因を区別することで、避けられる。旧来の言語こそ理性道徳性と考える人は、ラディカル、若者、アヴァンギャルドの新しいメタファーの言語ゲームを非合理としかみなさない。逆から見れば旧来の人こそ非合理的だとみなすだろう。現在使用している言語の外に裁定基準がないとみなすことは、信念の理由と言語使用の理由は存在しないとみなすこと。合理的という語彙の合理性を棄て去ること。合理的非合理的という区別は役に立たない。新しいものの進歩性を示す上で、合理的、尺度、論拠、基礎づけ、絶対という語彙は不適切。デイヴィドソン、合理性を内的整合性という意味に限定しないなら、ほとんどが非合理的になる。自己批判や自己改良の変化の理由は、外在的な価値に由来しており、基準が絶対的でない以上、内的整合性からいえば非合理。絶対的基準を前提するサンデルの批判は間違い。ナチスや宗教戦争の価値観と自由を並置して道徳上特権的か検討することは、前提として不可能。観測地点を現在の偶然性の外に置くことは不可能。デイヴィドソン、特定の言語なしに思考は不可能、そして枠組みを放棄できない。ハイデガー、言語が人を通して語る。できることは、せいぜい次の時代のために内部に緊張関係を生み出すこと。サンデルは絶対的真理を求める時代遅れのモデル。知ることへの問いと、語り方への問いとの間の行き詰まりを打開する哲学はない。人間の範型、倫理、人類学、心理学など多元的な打開方法はある。言語ゲームにタブーを置くことによって行き詰まりになる。論理が支配しレトリックが禁止される、リベラルが避けようとしている社会。リベラルな社会はなんでもありで、論争がどんな結果でも真であると呼べる。基礎を持つべきだという考えは啓蒙、科学主義、宗教的要求の残滓。論理的、方法論的、客観的、真理という政治的レトリックは今日では役に立たない。なぜなら科学は、もはや有望な文化領域ではなく、真理の人という科学者のイメージが実際に科学が達成したものと無関係で、科学的方法なるものだけ取り出しても無意味だから。科学は多種多様な言語を獲得できず文化生活の背景に退いたが、これは芸術とユートピアの政治で対処可能だ。向かうべきは文学と政治の領域だ。文化を丸ごと詩化する。特異なファンタジーの実現チャンスが平等に与えられる強い詩人が文化的ヒーローとなるリベラルな政体。啓蒙的な語彙や基礎は棄て去られ、他の政体とは歴史的比較にすぎなくなる。語彙は作品を作る道具である。道徳上の特権といった論拠や論駁を放棄すべき。相対主義だという非難ははぐらかすべき。この場合バーリンの側に下働きしており中立的ではない。政治的リベラリズムは中立性という特権化をしない。新しい語彙は、道具作成が目的を先に据えるのと異なり、創出の後から使用目的が定着する。ここにヘーゲル的歴史を見ることができる。ヘーゲル『法哲学』序文、哲学の灰色の形式は、生の形式は若返るのではなく、認識できるのみ。キリスト教における残酷さ軽減、ニュートンにおける近代テクノロジー、ロマン主義における政治的リベラリズムの倫理など、目的は後からつけられる。その道具が作るのは私たちにほかならない。良心、文化、生の形式。
    ホルクハイマーアドルノ『啓蒙の弁証法』、啓蒙の力によって、啓蒙の土台が崩された。啓蒙の腐敗する理性が、合理性、人間本性の基盤を抉り取り、道徳的破産に陥った。しかし、彼らは用語が解体されると発展しないとしたが事実に反している。新形式は旧形式からの借り物。啓蒙がもつプラグマティックな進歩は、精神や真理という旧来の啓蒙概念を、アニミズム的呪術にした。
    デューイ、オークショット、ロールズは、哲学的基礎の超歴史的で絶対的に妥当な概念という考えを掘り崩すことで、リベラルな制度を強化することを志向した。他の文化と比較し、自分自身の基準を参照することで、正当化する。彼らこそ自己廃棄しつつ実現する啓蒙の勝利だ。プラグマティズムは啓蒙の合理主義によって可能になる。
    デューイ、時代間の闘争において哲学は旧来の価値を明らかにする。ヘーゲル的。
    ロールズ「デューイ講義」、正義が正当化されるのは、私たち自身と目標の理解が一致するからで、歴史と伝統の条件において理にかなった教義になるから。バーリン、デューイ的。
    オークショット、道徳は土着言語の一つであり、判断や解決の道具ではなく、思考・選択・行為・発言の拠り所である慣行。普遍的な道徳性と思慮怜悧の区別はもはや役に立たない。反カント主義、道徳原理は制度慣行政治的考慮と一体のときのみ有意義。ヘーゲル、アネットベイアー、スタンリーフィッシュ、ジェフリースタウト、チャールズテイラー、バーナードウィリアムズにおいて共有されている論点。オークショット、道徳性は、神の声ではなく、共同体のメンバーの声と考えるとき有効。道徳性と思慮怜悧の区別は、絶対と条件づけられたものの差異ではなく、共同体と私的な利害の差異。道徳的な本来的な人類という共同体は存在しない。オークショットの概念、共通目標の仲間の統一体ではなく、互いに保護する目的で協調し同調を避ける社交体。セラーズ、道徳哲学はルールへの問いのではなく、われわれとは何か、いかにしてなり、何になれるのかという問いに対する解答。われわれ-意図。非道徳的なのは、われわれならやらない類のこと。道徳性と思慮怜悧の区別は個人にのみ意味がある。道徳性が、言語すなわち歴史的偶然の産物による要求なら、自己の確信も偶然性。
    理想的リベラル社会は、革命家と改良家の区別は必要ない。説得によって改良がなされる。自由以外に目的をもたない、結果はいとわない。自分の言語良心道徳性がかつて偶然につくられたメタファーが字義通りになったものにすぎないとみなすことが、理想的な市民。詩人、特異なファンタジーのためメタファーを見出す、メタファー意識的にする、かもしれないしそうでないかもしれない。道徳上の言語良心共同体が偶然性を帯びているという感覚のリベラルアイロニスト。
    二つの正反対な方向、リベラルを拒否するアイロニスト、ミシェルフーコーと、アイロニストを拒否するリベラル、ユルゲンハーバマス。両者ともにプラトンカント主義を批判し、ニーチェを重視する。ニーチェがフーコーに教えたことは、無時間的起源を避け、偶然的系譜学的物語で満足することと、民主的社会の新しい自由の背後にある新しい抑圧の形態。
    ハーバマスはニーチェの主観中心的理性の批判、内的道徳における義務責任の起源を探る哲学の破綻に同意している。しかし、前近代社会の結束力の喪失に折り合いをつけるモデルネに対する批判については、ニーチェがモデルネの解放的内実を放棄しているとしている。ニーチェ、ハイデガー、アドルノ、デリダ、フーコーをリベラルな解放の希望に相反するとしている。モデルネの否定から矛盾を導き出すことで、モデルネを真とする帰謬法で、自己のアイロニーに飲み込まれていると考えている。カントニーチェの主観性を間主観性のコミュニケーション的理性と置き換える。セラーズと同じ。カント的基礎づけの更新、社会的規範の内面化としての理性。
    フーコー、社会は自己創造を許さない。ミード、自己が社会の創造物である。フーコーの著作の大部分が述べるのは、リベラル社会は、旧い社会が夢想だにしなかった抑圧を押しつける。ニーチェ奴隷道徳のルサンチマンが苦痛とは無関係なのと同様、抑圧に苦痛の減少は関係ない。しかし、フーコーは自由と表現可能性が切り拓かれている点を拒否する。社会は改良制度を内包しており、苦痛の減少は抑圧を償っている。フーコーは、マルクスニーチェ同様、激変を望み、リベラルに加わらない。フーコーは、伝統的な「われわれ」に訴えないが、自己の原理や価値を主張するためには「われわれ」の一員である必要があるか、未来の「われわれ」を形成する必要がないかが問題としている。フーコーは、人間の深層は文化変容に歪められたという視点に固執する。被抑圧者の言語の存在を信じ、その側に立つ。これは、バーナードヤック、全体革命、自律を制度に具体化することの希求。私的な生にとどめるべき。ニーチェ、デリダ、フーコーら自己創造のアイロニストの自律は社会制度に具体化できない。自律とは、全ての人間が内部にもっていて、社会が抑圧をやめれば解放できる「何か」ではない。自律は、わずかな者が自己創造によって手に入れられるもので、残酷さと苦痛を避けるというリベラルの欲求とは関係ない。アイロニストは、プルーストがそうしたように、自律を私的にとどめる。ニーチェ、サルトル、フーコーのオーセンティシティ本物、純粋志向は、残酷さを避ける以上に、社会的政治的目標を求める。私事化せよ。
    →フーコーは私的領域を公的領域に、ハーバマスは公的領域を私的領域に転化させたい。ローティは各人の偶然性に基づいて統一の夢を持たずアイロニカルに切り分けて共存させる。
    ハーバマスは詩化、メタファー、概念の革新、自己創造の語りの審美化を、「言語の世界開示的機能」とみなし、彼の世界内的実践における問題解決機能と対置させ、ハイデガーフーコーらネオニーチェ主義者と同視している。ハーバマスは、妥当性に固執している。デューイ、慣習の外皮の息苦しい効果。
    →言語ゲームの制限、固定することによる公共性。そんなものはない。
    ロマン主義的な世界開示を、ヒトラー毛沢東に見ている。彼は、自律よりも生権力を望む。「支配から自由なコミュニケーション」で解決を試みるが、残酷さを避ける教育出版政治参加の伝統的なリベラルの主張を言い換えたもので、著者と政治的不一致はないが、普遍合理啓蒙を不可欠とする哲学上の不一致がある。普遍合理はむしろ解体し、他のものを据えるべき。主観からコミュニケーションへの転換は、調和や認識論的形而上学的問題を棄て去る意義があるのに、誤解を生む。すなわち、コミュニケーションが収斂させる合理性に固執している。普遍的妥当性は、偶然性により疑われる。多元性を引き受ける。アイロニストの私的なアイデンティティと、リベラルな公共性の希望との調停であって、綜合ではない。
    →公的領域と私的領域の調停、そのままの多元性を引き受ける。
    詩化された文化は、自己の有限性の私的利用と他者への義務の結合を放棄する。理性の[外部としての]他者すなわち情念、権力への意志、存在は、理性が和解と統一の力と思うから対立するのであって、人間の連帯が偶然にすぎないと考えれば、コミュニケーション的理性を中心に据える必要もない。
    超歴史的な基礎、歴史の終わりという宗教的哲学的物語より、残酷さを減じ同意とコミュニケーションによるリベラルな制度と慣習の物語への転換。
    デューイ、想像力は主要な道具であり、道徳性は現状維持を神聖化することから、詩人の語る人間性をはじめ、芸術は道徳性以上に道徳である。
    ・4
    自己の人生を正当化し物語る言葉を、終極の語彙と呼ぶ。この価値は循環論法に陥るが、手放せば無力な受動性や暴力しか残らない。終極の語彙は、分厚く柔軟性に欠ける地域特有の用語で占められる。
    →根拠のない使用頻度の高い言語
    アイロニストは、これらを絶えず疑い、現在の語彙では解消できないことを理解し、自己の語彙が実在に近いとは考えない。普遍的中立的メタ語彙ではなく、新旧語彙を競わせる。尺度の定式化を放棄するメタ安定的な位置。
    アイロニーの対極は常識コモンセンス。馴れ親しんだ終極の語彙を当然視するソフィスト的アリストテレス倫理学的思考。習慣的言語ゲーム内で答えられない問いに応答する時、ソクラテス的形而上学になる。本性、永遠の実在を疑わない。
    これに対しアイロニストは、唯名論、歴史主義。本性や特定の言語ゲームを信じず、世界観、視点、弁証法、概念枠組み、歴史的時代、言語ゲーム、再記述、語彙、アイロニーといった用語を絶えず使い、自分が根をもたないことに気づく。
    形而上学者は、これを相対主義と呼び、何が真であるかに重要性を求める。人間が世界の実在の本質を発見することを義務とする。
    アイロニストは言説による思考が「知ること」にあるととらない。尺度とは、終極の語彙をコンテクストに応じて定義する決まり文句。偶然性と歴史性に条件づけられた言語の外に出ることはできない。
    形而上学は学問分野を厳密に区別した図書館を望む。アイロニストは伝統区分にすぎないと考え、新たな再記述の素材ととらえる。哲学は特定の時間-空間の言説を特徴づける標識にすぎない。
    形而上学は、キルケゴール的に内なる真理の尺度によって、互いの終極の語彙を正しい語彙に収斂できると信じる。アイロニストはこのローカルにすぎないものを収斂させる気はない。よりよい終極の語彙を探すときは、発見ではなく制作、収斂ではなく多様化・革新というメタファーになる。探究者ではなく詩人。
    形而上学は洗練化明確化に熱心で、薄っぺらで柔軟性に富んだ真、よい、人格、対象などの用語を好み、決まり文句に使われることを目論む。哲学探究を語彙の比較ではなく命題間の推論に求める。典型的には、二つの命題の矛盾をつき、それを解消する区別を提案すること。
    アイロニストは旧い語彙を新しい語彙で徐々に置き換える。形而上学の論議論証を解説装置としてみるが推論ではなく、ジャーゴン含めた新しい語彙による再記述。形而上学がレトリックにすぎないとする弁証法を論理として使う。弁証法は、推論ではなく、語彙を競わせ、推論を部分的に再記述に置き換える。ヘーゲル『精神現象学』は、プラトンカント的伝統の終わりの始まりであり、再記述のパラダイム。ヘーゲル弁証法は、論証や主客綜合ではなく、文学的技量で、ある術語から別の術語へ滑らかにかつ急激に移行することで、驚くべきゲシュタルト転換を産出する技量にほかならない。ヘーゲルは旧い決まり文句の語彙をひっきりなしに変えていった。区別や理論擁護ではなく、絶えず語彙を転換し主題を変え論証を回避した。先行者への批判は命題の誤りより、言語が古臭いということにあった。プラトンカントと袂を分ち、ニーチェ、ハイデガー、デリダへ続くアイロニスト哲学。弁証法とは文芸批評。演劇、詩、小説はすでにあるものを生き生きとさせ、文学は認識の付属品、美は真理の付属品。ヘーゲルは哲学が宗教と芸術を時代遅れにすると考え、脱認識論化と脱形而上学化を行ったが、その結果哲学が文学の一ジャンルになった。語彙と名前は切り離せない。スウィフトと激しい怒り、ヘーゲルと精神、ニーチェとツァラトゥストラ、プルーストとマルセル、トリリングと自由な想像力。重要なのは、これらの人々の生ではなく、こうしたイメージを採り入れ自己再創造するかどうか。これらの語彙を使って自己、状況、過去を再記述し、他の人物形象による再記述と比較することで最善の自己をつくる。人物形象を比較、競わせることが文芸批評。アーノルド、ペイター、リーヴィス、エリオット、エドマンドウィルソン、ライオネルトリリング、フランクカーモード、ハロルドブルーム。書物の真の意味、文学上の貢献吟味などではなく、別のコンテクストに別の人物形象を置き換え、新旧に関する見解を改訂し、終極の語彙、道徳的アイデンティティを改訂する。比較する上では人物も文化も語彙。性格や文化への疑念を晴らすには付き合いの範囲を広げる以外にない。その最も簡便な方法は読書である。アイロニストは現実の人々より書物を配置する。文芸批評家の書物を読むことで、道徳の助言者として受け取る。道徳哲学者の直観と原理の均衡ではなく、アンチテーゼに見えるようなものを含む様々な文学の正典をひとまとめにして拡大する。文芸批評は神学、哲学、社会理論、修正主義的政治プログラム、革命綱領まで拡大適用された。文芸批評家が読了していることが期待される書物も拡大した。
    TJクラーク、トロツキーエリオット的文芸批評家。エリオット『荒地』マルロー『人間の希望』ドライサー『アメリカの悲劇』トロツキー『裏切られた革命』フロイト『夢判断』。
    オーウェルブルーム的文芸批評家。ナボコフ『ロリータ』クンデラ『笑いと忘却の書』ソルジェニーツィン『収容所群島』ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』フーコー『言葉と物』。
    批評家に期待されていることは道徳の省察を促進すること。
    文芸批評が文化的役割を担うと、知識人は形而上学からアイロニストへ移行したが、公衆は形而上学の公共レトリックの中にあるので、ギャップが広がった。道徳と美は関係ない、など。アイロニストを無責任とした。宗教原理主義、科学者、道徳哲学者。傾聴に値するのはハーバマス。私的な自己イメージを作るには貴重なコンテクスト主義とパースペクティヴィズムを無責任な主観主義だという。哲学の意義を政治的含意にみる。しかし、これは避けた方が良い。信念や欲求に対する自然な正当化秩序など存在しないから。哲学は、たんに文学。政治的自由に人間についての普遍的合意など必要ない。政治的自由の望ましささえ合意があればいい。新聞司法選挙大学が自由で教育が行き渡っていて社会流動的で平和と富に基づき他者の声を聞く余暇があるという自由における、討議の結果がいかなるものでも真、よいと呼ばれるということがリベラルの政治に重要なこと。リベラル社会をまとめ上げる接着剤としては、平和、富、自由すなわちブルジョアリベラル社会制度の保護がなければ、私的救済、自己創造、偶然性による信念欲求の編み直しはできない。平和、富、自由のバランスと、自己創造の機会平等の二点が討議の対象になるだろう。
    接着剤の二つの異論は、接着剤には形而上学的レトリックが必要、リベラルアイロニストは心理学的に不可能。
    第一に対する反論は、18,19世紀に無神論者が増えたが、神の代わりに社会が報い、楽園の代わりに子孫への希望となり、リベラルな社会は強化された。宗教にとって変わった科学や哲学が社会の希望を減じてはいなかった。社会をまとめ上げているのは、哲学上の信念ではなく、共通の語彙と希望である。世俗的社会は宗教ではなく政治に依存している。唯名論も歴史主義もハイカルチャーで大衆は終極の語彙に無頓着と考えがちだが、昔は無神論も知識人の排他的財産だった。非信仰者になったのと同じように非形而上学者になるだろう。公共のレトリックが歴史主義唯名論的であることは望ましくとも、公共のレトリックがアイロニストのものである必要はない。アイロニーは私的な事柄である。疑念の対象に対する反作用としてある。
    第二の異論は、形而上学者にとっては、アイロニズムが否定する、何らかの人間の普遍的共通点がないと、残酷さを避けることへの配慮の理由がないことになるからなされる。自由な個人と言語を重視するアイロニズムと、文学の審美主義はエリート主義とみなされる。
    マルクス主義、キリスト教、功利主義でさえ人間の自由に資した時代があったが、アイロニズムにあったかは不明。アイロニストが疎外感を公言できるのは、リベラルな社会においてであるがゆえに反リベラルだとされ、脱構築は道徳的責任の欠落を表す印となっている。したがって道徳的な知識人は率直で気取りなく混じり気ない散文を書く。アイロニストなら決して書きたがらない散文。
    アイロニストは再記述の力を自覚するところから生じるが、たいていの人々が欲するのは、言うがままに、あるがまま、話すがまま、真面目に受け止められること。アイロニストは彼らの言語は仲間によっても手に入れることができるという。この主張は、一人の子供の大事な持ち物を、屑であると再記述され棄てられたり、他の裕福な子どもの持ち物のそばにおいて馬鹿げたものにみせたりするようなもの。原始的な文化が征服されたときと同じ。『1984年』特異性を破壊され、権力者の言葉で書き直される。アイロニストは、人々の終極の語彙を無益で古臭く無力だと仄めかし、屈辱を与える。
    ただし、再記述は形而上学者含めた知識人のもの。形而上学者は真理は人々の中にあったものとし、本性を引き出す力、自由への力としての再記述を教育によって付与する。アイロニストは、自由は偶然性に依存する。非難されるのは屈辱を与えることよりも、力を付与できない点。
    リベラルなアイロニストとリベラルな形而上学者の違い、再記述がリベラリズムに何をなしうるか、公共的希望と私的アイロニーのつながり。第一は、アイロニストは屈辱をもたらすのは再記述だけと考えるのに対し、形而上学者はなぜそれを避けるべきかを問う。リベラルアイロニストは優しい者であるチャンス、屈辱を与えるのを避けるチャンスが再記述によって拡大されることを願うのみ。誰もが辱めを受けやすいことの認知が、必要とされる唯一の社会的な紐帯。道徳的に重要な点は、形而上学者は合理性、神、真理、歴史、アイロニストは人格、すなわち辱めを受けうる何者か。人間の連帯意識は、共有財産や力などではなく、共通の危険についての感覚。
    再記述は、私的公的を区別する必要がある。私的再記述で他人の苦しみを再記述するかもしれない。公共に関わる部分は、私的行為による他人の屈辱への影響全てを自覚しなければならない。自己のために、可能な限り多くの想像力を介した交際・知識を必要とするが、他者への影響を理解するためにもそれは必要となる。
    形而上学者は公私単一の記述を欲する。公共のレトリックを中心にしなければならないという信念。アイロニストは中心の義務と周辺の特異な選択の区別を拒否する。人々を一つにするのは言語ではなく、苦痛と、動物と異なる屈辱を受けやすいということだけ。連帯は共通真理や目標ではなく、共通の利己的希望、自分の世界が破壊されないことを共有すること。
    →ルソー一般意志
    小さきものをめぐって重なり合う言葉、優しさ、慎ましさ、尊厳などは人間本性ではなく、苦しみの可能性の認識以外は何も生まない。気遣う理由や理性ではない。重要なのは苦しみが生ずるときに気づくこと。本性発見はローカルな能力と欲求にすぎなく、道徳の動機づけではなく、想像を介して同一化する。
    形而上学者はハイカルチャーとは理論中心、アイロニストは文芸(旧い狭義の演劇詩小説)中心。形而上学者はリベラリズムを支えるのは知識人の真の命題、アイロニストは個人や共同体のファンタジーや生活の場における承認と記述。たんに一つの語彙である公共のレトリックを中心とすることは、神への愛や『1984年』のビッグブラザーへの愛と変わらない。アイロニストの哲学は自由や平等に貢献しない。苦痛は非言語的動物的であるので、被抑圧者の声、犠牲者の言語は存在しない。彼らの状況を他の者が表現する必要がある。小説家、詩人、ジャーナリスト。アイロニズムはリベラリズムを助けなかったが、それは形而上学が共通の普遍性により単一化を試みるから。
    →アイロニストの哲学は、リベラリズムを単一化しないことでリベラリズムを守る。
    形而上学では理論を社会的希望、文学を私的完成とするが、アイロニズムは逆。アイロニストの文化では、苦痛に対する感性を高める。小さき断片を手がかりに構築される。哲学は、社会的役割よりも、私的な完成に重要。文学は私的完成よりも、残酷さが気づかれにくく自己のうちにあることを示す意味で、社会的に有用。
    ・5★
    アイロニストの私的完成のパラダイム、若きヘーゲル、ニーチェ、ハイデガー、デリダ。理論家セオリスト。プラトン的知が存在しないとしていた彼らは、知を愛する人としての哲学者フィロソファーではない。テオリアは遠くから見渡す。ハイデガーはプラトンカント形而上学の正典カノンから離れ概観した。正典は一切を手堅く、丸ごと全体を見抜く古典的試み。アイロニストはそうした垂直的視点を疑い、水平的に過去を振り返る歴史主義。その歴史は事物ではなく、特殊な著者を対象とする。アイロニストの目標は、形而上学の理論化の衝動から、完全に自由になること。つまり自律。自分自身の偶然性、終極の語彙を作り出し、過去を「私はそう欲した」と言えるように再記述する。
    コールリッジ、詩人自身が、裁かれる尺度となるテイスト趣味判断を創造すること。アイロニストの課題。自分自身の用語で生涯を要約できること。完成した生とは、終極の語彙が完全に自分のものと確信できる生。アイロニストを際立たせるのは、プラトンカント的正典とそれへの注釈。正典の力、呪文を解くこと。重要なのは、どの具体的アイテムがアイロニカルに意義ある過去を作り上げるか。過去とは、普遍的な語彙を示唆した書物。アイロニストの理論家は、それに対する文芸批評家。
    完成に到達した者、プルーストとニーチェ。伝承された偶然性を、自ら創造した偶然性に置き換えただけでなく、自身をその実践者として記述した。
    アレクサンダーネハーマス、プルーストは作品を自由に作ることはできず発見するものとしているが、これは作品創造のさなかにしかなされえない。発見と創造の両義性はニーチェの「現にそうである者になりうる」という考えに同じ。現にそうである者とは、自己を裁定する最終的な段階であるが、死まで再記述が続く以上、原則は到達できない地点。サルトルなら完成の追求を無益な情念というだろうが、これまでの時間、機会、自己再記述を凌ぐ強力なものがない以上、無益ではない。時間と偶然を利用することに自覚的で、解決、完成、自律は死と発狂がいつかの関数である。正しい記述はない以上、即自存在になれないことは無益ではない。
    プルーストに政治性がないのに対し、ニーチェ、ハイデガーは反リベラルに映る。
    プルーストの現実の人々か、ニーチェ書物の人々かで異なるが、他律の記述の源泉を再記述することで自律を望んだ。
    ニーチェ『偶像の黄昏』「真の世界の寓話化」は、語彙が弁証法的に繋がれ、内的に連関し、大きな生を描く。ニーチェのヨーロッパ、ヘーゲル『精神現象学』の精神、ハイデガー『ヒューマニズム書簡』の存在は自己を超える英雄。自己の観点を定義する。プルーストの偶然であった人々とは異なり、彼らを理論家にする。形而上学ではなく、様々な些細なものを編む唯名論者でもない。プルーストの偶然の人々は他の可能性もあったが、アイロニストの理論においては、プラトンには聖パウロ、カントにはヘーゲル、ヘーゲルにはマルクスと断じるので、先行者は形而上学と非難される。ニーチェヘーゲルハイデガーは壮大な事柄を作り出し、自律

  • wired・近代と社会・7位

    mmsn01-

    【要約】


    【ノート】
    「リベラル・アイロニスト」という立ち位置から、新たなリベラリズムの地平を目指したアメリカの哲学者は、本書で現代において人間の連帯がいかに可能かを指し示す。

  • [ 内容 ]
    人間の連帯は、真理の哲学的な探求によっては不可能である。
    他者が被る残酷さに対する私たちの感性を拡張することによって、連帯は達成されるのだ。
    20世紀後半を代表する哲学者が、ありうべき社会はいかに構想されるかという課題を、永遠に自由を実現してゆく終わりなき過程である「リベラル・ユートピア」として描き直す。
    世界中に大きなセンセーションを巻き起こした「哲学と自然の鏡」の政治哲学的帰結―衝撃の問題作。

    [ 目次 ]
    第1部 偶然性(言語の偶然性;自己の偶然性;リベラルな共同体の偶然性)
    第2部 アイロニズムと理論(私的なアイロニーとリベラルな希望;自己創造と自己を超えたものへのつながり―プルースト、ニーチェ、ハイデガー;アイロニストの理論から私的な引喩へ―デリダ)
    第3部 残酷さと連帯(カスビームの床屋―残酷さを論じるナボコフ;ヨーロッパ最後の知識人―残酷さを論じるオーウェル;連帯)

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

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著者プロフィール

リチャード・ローティ (Richard Rorty)1931年生まれ。元スタンフォード大学教授。2007年没。

「2018年 『ローティ論集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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