村山富市回顧録

制作 : 薬師寺 克行 
  • 岩波書店
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感想 : 7
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  • Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000022279

作品紹介・あらすじ

成田三原則、構造改革論争、社会主義協会派騒動、新党問題…。その誕生から常に抗争を内部に孕んでいた社会党。その最後の瞬間に委員長として立ち会った元首相は何をみたのか。なぜ山をも動かした社会党が低迷してしまったのか、当時を赤裸々に語る。

感想・レビュー・書評

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  • 【要約】


    【ノート】

  •  村山富市元総理が自らの政治人生をインタビュー形式で振り返る。

     村山富市の人生は戦後の社会党や55年体制を振り返る歴史でもある。かなり貴重な資料になっている。
     社会党で初の総理となった村山さんだが、その時の社会党は新党づくりでの分裂寸前で与党として何かをする余裕がなかったというのは面白い。そんな中で社会党の総理として何かを残そうとしてつくられた村山談話。村山さんの話し合い妥協もしながら現実的に政治を進めていく姿勢がこの本の随所に覗われる。
     あと、これも随所に現れるのだが村山さんの「○○なんじゃ」という喋りがすごくいい。

     今だからこそ読むべき政治の教科書。

  • 総理大臣を経験した政治家と自分を比べるのは大変僭越だが、村山氏と私は、思考のスタイルは近いと感じた。

    思想的な理想に現実を近づけようとするのではなく、今、目の前にある現実の課題を僅かでも解決することを優先する。観念的な論争に時間を費やすことを本音では嫌っているけれども、お付き合いする必要がある時はほどほどにお付き合いする。しかし、そのようなものにとらわれることはない。そんなことよりは課題を解決するための利害調整を優先したいと考える。

    現実主義と呼んでいいのかどうかわからないが、このような思想性のなさが、後に村山氏が、55年体制世代の自民党議員たちと組むことができた理由なのだと思う(現在の観念的になってしまった自民党議員の多くとは組むことができないだろう)。

    本書を読み進めていくとすぐにわかるのだが、社会主義というイデオロギーに村山氏は囚われていない。労働者(大衆)の味方であることに対してのこだわりはあるが、若い頃から一貫して思想としての社会主義を相対化して見てきている。有り体に言ってしまうと、ご本人も述べておられることだが、突っ込んで社会主義を学んだこと自体がない。また、学ぶことにそれほど意味があると感じていなかったようにも思えた。

    95年から96年にかけて社会党を新党へと脱皮させようと試みた際に社民リベラルという概念を用いたのは、特別なこだわりがあったわけではなく、その頃、リベラルという言葉が何となくよく使われていたので、社会党のウィングをもう少し右に広げるには都合がいいと考え使っていたという趣旨のことを本書の中で語っている。真面目な方は怒るだろうが、案外、政治の現場での言葉の使われ方はこの程度のいい加減なものである場合もあり、その癖、言葉がひとり歩きして意外な影響力を持つことがあることが面白い。

    ある安倍首相のブレーンとされる論客が、村山氏とは考え方は全く違うが、嘘をつかない政治家として自分は評価している(友人だと思っている)と述べたのを聞き驚いたことがあるが、上述のような発言を読むと確かにそうなのかもしれないと感じる。ただし、村山氏は嘘をつかないのかもしれないが、全てを語るわけではない、明らかに語るべきことと語らないことは取捨選択しており、その意味では政治家としての自覚を持った人物であると思う(近年は、何でも口に出してしまえばいいという勢いだけの政治家が多くうんざりする)。

    村山氏は、社会党や労組の中にある(あった)教条的な集団に対して忌避感を常に感じながら政治活動をおこなってきたと述べている。日教組や社会主義協会に対して厳しい目を向けていた。ただし、村山氏は、彼らと積極的に戦って党や労組の体質を変えようとする努力はほとんどしなかった。まるで自分がそういう器ではないと早めに自らに見切りをつけていたかのように。党内の派閥抗争からは一貫して距離を置き(積極的には関与せず)、市議から県議、そして国会議員へと政治的キャリアを進めた。

    少し話はそれるが、村山氏は労組の価値についても本書の中で何度か言及している。労組は、もっと自らが持つ社会的な価値を自覚し活動すべきというのだが、今日的には支持を得ることは難しい主張だと思う。労組の存在意義自体が理解されず、組織率も落ち、労組の存在自体が怨嗟の対象となる時代状況において、労組に社会的な活動に今以上に積極的に乗り出せというのはなかなか厳しいことだと思う。村山氏も自覚されていることだが、このような状態を招いたことには、村山氏の世代にこそ責任があり、若いものとしては奮起せよとだけ言われても虚しい気持ちになるだけだろう。

    さて、村山氏は国会議員になってからは、強く希望して社会労働委員会の委員を長く勤めた。ここでは、田辺誠元社会党委員長や橋本龍太郎元総理などと仕事をしたとのことだが、具体的にどんな問題に取り組んだかについては本書ではほとんど触れられていない。ただし、国会の議事録を確認すると村山氏がこの時期、かなり活発に質問をおこなっていたことがわかる。社会労働委員会が自分の終生の仕事場だと考えていたのだということが推察できる。そのまま政治家人生を終えていれば、ほとんどの国民にとっては無名の政治家として歴史の波の中に消えていったのだろうが、村山氏を国会に導いた「めぐり合わせ」が、ついには総理の座まで彼を到達させる。

    後に村山氏は、社会党の委員長や総理大臣になる中で新党構想などを巡り党内抗争の主役になっていくのだが、本人は不本意だったようだ。それでも彼がそうした行動に出たのは、社会党的なものを何とか後世に残したいという思いと、与えられた役割を果たすという信条からきたものだったのだろう。

    村山氏は社会党という存在に強い価値を置いていた。社会党から離党して社会市民連合を立ち上げた江田三郎氏について批判的であることや社会党の主体が失われることに対して何ら配慮せずに新党運動に走った久保亘氏や山花貞夫氏に対して極めて厳しい目を向けていることにそのことが現れている(この点については、久保氏や山花氏の反論を聞きたいが、久保氏の著作は未読、山花氏は早くに亡くなったため、その思いを確認できないのが残念だ)。

    そもそも、村山氏は、どんな事情があっても党を移るということを強く批判していることが印象に残る。良い時も悪い時も党に踏みとどまって活動することが大事で、そうでなければ有権者との信頼は築けないと考えていることが確認できる。

    しかし、90年代半ばのことを思い出して、あらためて考えてみても、外から見ていると両者の考え方にそれほど実質的な差があるようには見えなかったが、村山氏と久保氏たちは、公的な場を除いては、ほとんど直接接触することがなく、会話もしていなかったという事実に驚かされる。本書を読み終えても、なぜそこまでと感じるだけでどうも釈然としないのだが、長年の不信感の蓄積か、派閥抗争の余派なのか、細川連立政権と自社さ政権の運営をめぐっての対立からなのか、支持基盤の違いなのか、おそらくその全てに原因があるのだろうが、それだけでは説明しきれない何かがあるようで、社会党が結党以来抱え、解消することがついにできなかった業のようなものを感じた。

    同じ党の中にいるのだからもっと議員同士がコミュニケーションを密に取るだけで党運営はうまくいくと思うのだが、当事者にとってはそう簡単なことではなかったようだ。役員同士が口を聞かない。委員長が孤立していたなどという話を読むと、社会党支持者であったことは一度もない私(幼い頃シンパシーを感じていた時期はある)でも正直絶望的気持ちになる。外部から見ると、社会党はいつもバラバラだという印象を与え、それが、細川連立政権や自社さ政権の運営でもマイナスに働く要因になったことは当時も多くの人が共有していたと思うのだが、もはや改善するには手遅れだったということなのだろう。

    村山氏は、社会党には政権を担う覚悟がなかったとも述べている。せっかく与党として総理を出しているのだから、その機会を活用して社会党の党勢を拡大することにつなげればいいのに、そうした意欲にもまったく欠けていたという。野党であった時の方が委員回等で活躍する機会がありよかったと言っていた議員たちがいたという話には、重ねて絶望的な気分になった。村山氏も述べているが、せっかく陳情の数などは増えていたのだから、そうしたチャンスを活かしていけばよかったのにと思うのだが、どうも思考停止に陥っていたのか振る舞い方がわからなかったのか、現実的には何もできなかったようだ。

    それでも、村山氏は社会党が参加した内閣でしかできない成果を上げようと腹に決めて、戦後50年決議、村山談話、従軍慰安婦、水俣病、国鉄労組といった課題に積極的に取り組み一定の成果をあげた。また、あまり目立った業績とは当時、捉えられなかったと思うが、中央教育審議会に日教組の委員長を入れたり、消防員に労組を結成できるように取り計らったり(実際は労組的なものが結成された)と興味深い試みもおこなっている。阪神淡路大震災、住専問題、オウム真理教事件などにも対処した。ただ、これらの施策の実行にあたっては、その多くを自民党議員や官僚の力に頼っておこなっており、与党経験がない社会党議員はほとんど力にならなかったとも判断できる(ただし、この点については、他の自社さ政権で入閣した社会党閣僚等の著作などを読むと、そうではないとする見方もある)。

    興味深いのは、村山氏はこれらの政策を実現しても社会党が国民の支持を取り戻すことはできないだろうと考えていたことである。社会党と自民党が組むということは、国民にとってはそれだけとんでもないことであり、どんな理由があっても受け入れられることはないだろうと認識していた。それにもかかわらず政権を取ることを選んだということが興味深い。あの頃、私はまだ子どもだったが、さすがにこれはないなあと感じていたことを覚えている。大方の国民の実感もそのようなものではなかっただろうか。

    さて、上記の政策の中には、今日、再評価がなされている政策も含まれている。また、論争の的になっているものもある。例えば、今日、村山談話については非難も多い。しかし、この談話は、実は精緻に作られており、読みようによっては日本国内の右派も左派も納得できるものであり、アジア諸国の政府に対する影響力も十分にあるものであるだといえる。教条的に批判を浴びせる人々、政治に一切の妥協を許すことができない人々には通用しないが、政治的文章としては良く出来たものだと私は思う。

    この談話を受け入れる幅が、日本社会から失われつつあることが残念だが、そのことはともかく、村山氏らしさがよく現れた談話であり自社さ政権の象徴でもあると考える。村山氏は、この談話を発表することで、その後の日本の外交政策に一定の方向性を持たせた。そしてその影響は今日も続いている。これは、明らかに強い意図をもっておこなわれたことであり、是非は別として村山氏の政治家として非凡な一面を表している。

    自社さ政権の評価は、大きく分かれる。当然のことだが、当事者として政権に参加した人々は、さまざまな成果を上げることができたと高い評価をする。一方、批判的な立場を取る人たちは、自民党政権の復活、延命に手を貸しただけだと厳しい批難をあびせる。どちらも妥当性がある主張だが、私は同時代には後者の立場をとっていたと思う。当時、自民党は、もうしばらく野党としての経験を積み生まれ変わるべきだと考えていた。今はどうだろうか、昔に比べると少しだけ成果を評価する立場に変わったかもしれない。少なくともこの期間、連立政権が安定的に運営されるという日本政治史上、珍しい状況が生じたことは事実だった。この経験を後に活かすことができれば、民主党政権の迷走を少しは防げたのではないかと考えることがある。しかし、現実には経験が継承されることはなかった。

    村山氏は、新党結成が間に合うように綿密にスケジュールを考えた上で総理を辞任した。だが、この判断は間違っていたと思う。優先すべきことが社会党の生き残りであれば、村山氏は誰が何と言おうと総理の座から降りてはいけなかった。官房長官だった野坂浩賢氏は強行に反対したそうだが、私が同じ立場でも反対しただろう。解散権と閣僚の任命・罷免をおこなう権限がある総理大臣はいうまでもなく絶大な権力者であり、この力を持っているからこそ求心力がある。そのカードを全面的に使って、村山総理の元で予算を上げてから、自社さ政権の成果を強調する形で解散総選挙をおこなうべきだった。後知恵ですが、その後におこる薬害エイズ問題の解決への取り組みを政権の実績にすることも可能だったかもしれない。また、村山氏が総理であれば、社会党内だけでなく自民党にも公認調整などで配慮を求めるなど力を及ぼすことができた。

    今となってはただの妄想だが、党内の状況を把握出来ておらず、自分が党に戻れば、社会党とさきがけとの完全な合併をおこない社会党の主体性を保ったままでの新党の設立が可能だと考えてしまった村山氏の読み間違いが、社会党の命脈に止めを刺してしまった。政権にコミットするなら石に齧り付いてでも政権の座に固執すべきだったのではないか。

    村山氏の自身の考えとは相容れない発想だろうが、ひょっとしたら政権にコミットし続けた先に、村山氏が何ども述べている労組だけに立脚するのではなく、大衆に根ざした社会党への道が開けていたのかもしれない。日本に社会民主主義政党が生き残る僅かな道を村山富市という政治家は閉ざしてしまったのではないか。いや、やはりもっと以前に社会党の命脈は尽きていた。最後の残り火が、自社さ政権という形で現れただけで、村山氏にその責を全て負わせるのは酷なのか。そんな考えが頭をよぎり消えていった。

  • p.212
    過去の戦争に対する反省、謝罪を明確にするような決議を上げてくれということだ。

    p.214
    (ASEAN諸国は)腹の底ではやはり歴史問題について不満も持っているわけじゃ。

    pp.218-9
    「遠くない過去の一時期[...]がどこからどこまでの範囲かというのはそれぞれの人が解釈すればいいことだ。」
    p.219
    「国民全体がこういうことがこういう時期にあったと、だからやっぱりこれは間違いだった、こんなことを繰り返しちゃいけないというふうに受け止めてくれればいいことであって、それ以上突き詰めていつからいつまでなんていうことを規定するような種類のものではないんだ。」
    p.220
    「自分たちがよその国よりも優れていると思い上がって他国に迷惑をかけてしまうような独善的なナショナリズムは絶対にだめだ。」
    p.222
    「戦争を美化するような解釈は、やっぱり間違いであり独善的ナショナリズムに依拠していると言わざるを得ない。」
    p.224
    「政治家としての立場からいえば、新しい憲法が象徴としての天皇の存在を認めているわけだから護憲論者としては素直に天皇を肯定する。それ以上のことをとやかく言う必要はない。」

  • 新着図書コーナー展示は、2週間です。
    通常の配架場所は、3階開架 請求記号:312.1//Mu62

  • 【新刊情報】村山富市回顧録 312.1/ム http://tinyurl.com/cew8r2v 成田三原則、構造改革論争、社会主義協会派騒動、新党問題…。その誕生から常に抗争を内部に孕んでいた社会党。党の最後の瞬間に委員長として立ち会った村山富市が、当時を赤裸々に語る #安城

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