神なき時代の神: キルケゴールとレヴィナス

著者 :
  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (193ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000028486

作品紹介・あらすじ

哲学とは何か、それは「善く生きる」ことの意味を見いだそうとする営みではなかったのか?高度に発達した知識の体系と日常的に蔓延する不正や悲惨とに取り囲まれたわれわれは、この基本的な姿勢を失っているのではないか?本書は、ユダヤ人哲学者レヴィナスを手がかりに、哲学の意味を倫理と信仰へと問いつめ、神の不在と逆説とが切迫した問いとなった現代における信仰の意味を探る。明快な叙述のうちにレヴィナスの独特で難解な議論が読みぬかれ、倫理的責任の引き受けに結晶する究極の神信仰が取りだされる。

感想・レビュー・書評

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  • 素晴らしかった、まさしくいまを開かれたという読後感。このあたりを掘り進んでいくところに、現状を打破する何かがあるように思う
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    語るということは、語る者が己を表すことであり、そこに意味の根源があり、情報の交換としての言語の機能の意味がある

    顔は何を語るのか。顔は自分が死にさらされている、と語るのである。

    語ることは、他者へ向かって自己から出ること、見知らぬ者へ訴えかけること

    出遭いとは、私を呼ぶ顔の他性への直面であり、あらゆる言語的表現に先立って、私の可視性において、私の弱さの底から立ち上がる声

    顔は、神の言葉の場所であり、神の言葉は他者の顔のうちにある。顔の本質は、この自己矛盾的性格のうちにある

    マザーテレサは社会変革をしたのではなく、ひとりひとりのかけがえのなさに関わっていたのだ

    死はむこうからおそいかかる企てのない出来事、われわれが自分のものとして自分自身の中に取り込めない出来事である。それは不可能性の可能性ではなく、可能性の不可能性なのである

    死は謎であり、神秘である。
    神秘は、問いかけてくる未知なるもの、答えるべき術のない問いを意味している。このような死にさらされた者としての他者を気づかうことのうちに、人間の人間性が現れるのである。

    他者とのまじわりは、私の飽くなき存在欲求を疑問のうちにおくということ。

    他者とは、無限に超越であり、無限に異邦人なのである。しかし、この絶対的な差異から「ことば」がでてくる。

    対話においては、私が一瞬相手をとらえたと思うその他者の姿と、その姿から直ちに身を切り離す対話者としての他者との間には、距離があり、この距離が、私がたわにしゃに与える意味を直ちに打ち消す、倫理的な不可侵性

    他者の顔、無限の痕跡、神の言葉。「意味」とは、人間が他の人間に関わっているという原初の事実。

    倫理は超越の次元にあり、その高さが存在に意味を導入するのである。意味は、非歴史的な単純さの中で、歴史や文化に先立って絶対に性質化できない、なにかに還元できない。顔の裸のうちで、己を表す超越として、あるいは無限として、痕跡として成立している

    意味とは、顔の裸に出遭うこと。そこからやってくる「かなた」は、まさに「世界のかなた」、あらゆる「開示」の「かなた」、あらゆる認識を超えた「かなた」として不在そのもの

    ★レヴィナスのいう意味は、まったくの負債。この不在が意味するのは、顔が完全に過ぎ去ってしまった何者かの痕跡であること。それはまた訪れであり、到来でもある。世界の地平の中に定着することなしに。それは到着する以前に過ぎ去ってしまっている。内在をかき乱す。顔がそこから到来する絶対的な不在と顔との関係は、この不在を指示もしなければ、啓示もしない。しかしこの不在は顔の中で意味するのである。


    なぜ神は語るのか。人間が自己に同化できないもの、その意味で自己のエゴイズムの力を超越する他者に出遭うから。神は、顔の奥にほのめいて通り過ぎる超越の痕跡として現れる。

    意味するとは、われわれが通常理解している事物の意味とか、そういうものではなく、自己を開くということそのこと、その開きにより超越を表せさせることそのことを指示している

    語ることは、あらゆる客観化に先立って、他者へ己をひらくことであり、記号を発することではない

    語ることにおける主体は、己をさらしながら、隣人に近づく。己をあらゆる場所の外に追放しながら、もはや住居もなく、踏むべき土地もなしに。自己にはそこに立ち戻って安らうべき実体がない。語るというのは、いわばその実体の解体のプロセス。

    語るという行為は、いわば実体の解体のプロセスなのだ

    語ることは受動性を意味する。語ることにおいて、この受動性は意味となる。

    ★★一者の受動性は意識においてはじまるのではない。それは意識の手前において(意識以前のおいて)、善が根源以前においてかれを捉えることのうちに存するのである。その捉えはいかなる始まりよりも古く、一者が自己に再結合して実体となり、自己同一化することを妨げる。断絶的時間の働きとして現れるのである。

    この世の幸福をことごとく奪いとり、いわれなき苦しみを与え続けたが、それはやがてこの苦しみに耐えた報酬として幸福を与えるためではなく、、、不幸と災難そのものにおいて、存在のかなたに連れ去るためであった

    私はここにいますという語りは、主題化しない。それは、認識や討論の対象として明確に概念化しない、できない、ということである。その真理は表象の真理ではなく、明証性ももっていない。

    ★無限はそれについて証言する者にあらわれないのである

    証言の言葉によって、はじめて無限の栄光は己を輝かすのであって、無限というものがあらかじめどこかにあって、それについて誰かが証言する、ということではないのである。

    証言の誠実さのうちで、内性となる。無限は、表象としてあるいは、私がその前に立つ対話者として、私に関わろうと到来するのではない。それは私の語ることの中で、私の口を通して、私に命令しながら、己の栄光を輝かすのである

    人は神を見ることはできず、その栄光が通り過ぎた後で、その後ろ姿を見うるだけだ。

    絶対者は、不在としてしか命令を発しない。不在の命令なのだから、この声なき命令は私自身の語りとしてしか出現しないのである

    命令がどこから来るのか知らない

    痕跡=私の知らぬ間に、盗人のように私のうちに滑り込み、私ん影響をあたえる

    善は自己満足の放棄からはじまる

    災いの背後には意図がある。悪による魂の眼ざめ。私を世界から引き抜くために、私に災いを下すのである

    孤独が悲劇的なのは、自己が自己同一性のとらわれの中に閉じ込められているからであり、それは自己が質量であるから。

    主体の同一性は外からくる

    主体の唯一性は、他者によってかれが指定されたところからくる。だから外性もしくは他性が、かれの主体性を構成している。

    私における自己の同一性は、自己に反して外からくる

    主体性は、すでに他へとひらかれた同である。その他とは、同が把握することも了解することも、包摂することも予期することもできないもの

    ★断絶的時間
    自己と、自己のうちにある他なるものとの間のズレ。自己は自己に合致しな。主体はそれ自身がディアクロニーそのもの。それはつねに、それのうちにあって、それらをかき乱す。それが憧れる他なるものよりも遅れている。このように主体が自己のうちに、他なるものを含むこと、この他なるものとの関わりからしか自己は規定されえない。その関わりとは、決してその他なるものに追いつけない。決してその他なるものを同化できない。決してその他なるものに合体できない

    われわれの意識によって照らし出された対象は、われわれが出遭うなにものかではあるが、それが照らし出されたという事実そのものによって、それがあたかもわれわれから出てきたかの如くに、われわれはそれに出遭う。そこには異質性がない。包摂される。

    苦しみへの固着そのものである苦しみは長引くが、しかしそれは、未知なるものに至るまでである。その未知なるものを光の言葉に翻訳することはできない。

    ★死が未知なるものであるのは、死がそこからは誰も帰ってきたことのない領域であるからではない。死の未知は、死との関係自体が光の中では起こりえないこと、主体が自己自身からは到来しないものとの関係にあることを意味している。

    ★このように未知でありながら、われわれに関係してくるものが、神秘。または謎。苦しみの中で、あらゆる光の外で、死が告げ知らされる。


    神秘としての死

    知る働きにおいては、すべての受動性は実はお脱動的

    ★★一般的に、私が出会う対象は、結局は私によって構成されるのであるが、これに対して死は、主体がそれの主人ではないような出来事、それとの関係においては「主体」がもはや主体ではないような出来事を告げ知らせている

    →あわ居はまさに主体が主体性をはく奪されつつ、世界と関わっている場であるのかな。また、書においてやりたいのはまさにここだなと。

    死は突然、人間に襲い掛かるもの。その意味で、人間が常に未完結に、いわば中途半端な存在として、突然死に襲われて、終結する。その時、人間はなんもすることができない、徹底的に受動的なものとして、未知の死に飲み込まれている

    ★★「死は絶対に認識できないなにものかである


    死との関連において、主体としての私の社威力、私のヒロイズムは成立しない

    死のこの接近は、絶対的に他なるものか、たまたま他という性質をもつのではなく、その存在が他性であるようななにものかとの関係のうちに、われわれがある

    ★未来は、向こうから襲い掛かるもの


    ★★現代の時間論においての、未来の予期、未来の企投、予持は、現在のうちに取り込まれた未来に過ぎない。それは本当の未来ではない。未来とは、把握されないもの、われわれの上に予期を超えて落ちかかるもの、われわれを襲うもの。

    未来とは他なるものである。未来との関係は、他なるものとの関係である。

    純粋に個人的な持続として時間を語ることは、意味をなさない

    ★死は神秘

    死は予期されえないから、把握されえない。把握されえない出来事がどうして私に到来するのか。他なるものと存在者との関係はどのようなものであるか。或る出来事が或る主体に到来するが、その主体はその出来事を包摂できないという状況。それについてなにも出来ないという状況、しかしその主体はある仕方でそれに直面しているという状況、それは実は顔と顔を突き合わせた対面

    ★死の到来と、他者との出遭いの構造的な同一性。他者もまた私が把握できない者、同化できない者、未知なるものとしての絶対に他なるものである。それは私がつくりだしたものではなく、向こうからやってくるものとして、本来的に未来の者。絶対に他なるものとしての死は、私が直面する他者と言う回路を通って、私に関わってくる。
     

    ★★死は意味ではなく、位置づけることができず、対象化することができない。それは考えることもできず、かすかに想像することさえできない次元から到来するなにものか。


    死の未知、死の無意味、死の無意味への畏敬、ここに私の唯一性に必要なものがある。死はその無意味によってわれわれに関わる。死とは純粋な疑問符である。それは答えのいかなる可能性ももたらさないものへの開け

    多くの場合、未来は現在の期待であり、過去とは現在における記憶にすぎない

    本当の過去とは、現在の記憶とかさない記憶を絶した過去。本当の未来も、まったく未知なるもの、われわれの予期を超えてわれわれに襲い掛かるもの、向こうからやってくるもの

    本当の未来も、まったく未知なるもの、われわれの予期を超えてわれわれに襲い掛かるもの、向こうからやってくるもの
    →あわ居でいうと、人間の「顔」においての未知なるものとの接触や、未来との遭遇がある一方、こうした現在の記憶に回収されていなう、「他なるもの」としての過去の記憶の到来という未知との遭遇もあるということだな(回収されていない、過去の痕跡が浮上するという意味での他なるものとの遭遇もありうるということ。まぁただ他なるものと言う断絶的時間との遭遇という意味では一致している。言語化を拒否する意味との遭遇。)

    時間は、未知なるものとの関わりそのものである(レヴィナス)。未来の方向においても、過去の方向においても、

    自己意識が自己のうちに吸収して現在の一様相と化し、現前の知の中に取り込んでしまわない限りにおいて、未来も過去もそれそのものとして成立する。

    未知なるものは、他者である。

    時間とは、超越の人間へのかかわりとしての受動性

    ★★断絶的時間とは、自己同一性の解体を意味している。自己が自己に再結合しない。自己意識の統一としての現在、すなわち同時性としての現在とは、切れている。それがレヴィナスのいう断絶的時間
    →この意味では、うちはこれだな。その時点での自己同一性に同化できない、時間そのものの体験


    有限は、無限を認識することも同化することもできない。しかしその超越のうちにありつつも、無限はわれわれに影響をあたえる

    無限はかき乱されること。さよなら、別れ、立ち去り、行方も定かならぬ旅立ち、自己帰還なき出発としての時間。

    ★★時間は、過去の方向においても、未来の方向においても、自己意識の統一としての現在、すなわち同時性としての現在とは、切れている。(=断絶的時間)
    →時間の体験それ自体が、主体をかき乱す、「超越」だということかな。

    ★われわれの意識が自己の中に回収したものは、未来でもなければ過去でもなく、ただひたすらに現在であり、内在であり、自己であるにすぎない
    →ここに「時間」はないということ。まことの、あの川辺の時間を想い出すなぁ。あれは「時間」を創出していたんだなと。

    ★未知なるものとの関わりは、どこにあるのか。それは、自己を破るものとしての他者との関わりのうちにあるのである。その他なるものは、決してわれわれのうちに回収できない
    (時間=未知との遭遇であるということ)

    認識するとは、対象化することであり、対象化するとは、自我の中に取り込むことである以上、他者は原理的に認識できない。認識されたもの、再構成されたものは、その認識、再構成という働き自体が他者の他者性を破壊している。

    他者は超越であり、無限だが、それは存在のかなたを指している

    現在において把握される過去や未来は、現在の中に包摂されてしまっている

    断絶的時間(ディアクロニー)
    =記憶を絶した過去/純粋な未来
    →これはいわば認識できないものについて語られた時間のこと

    認識できないもの=他者

    まる裸にされ、ただ死にさらされた、この弱さのなかから、、

    私に現前したことがなかった、記憶に到来したことがなかった、そのようなことに対する責任の中に、私はアナルシー(無始源)の責任がある


    記憶を絶した過去とは、決して現在になったことのない過去

    純粋な未来。これも現在の意識に回収されない未来を語る者。予期には還元されない。切断された未来。意識の外部にある未来。死に定められた、私の死を超えて意味づける命令。

    死に定められた、この有限な私に、私の死を超えて意味づける命令が指示されている

    他者に対する責任とは、その極限において、他者のために死ねること


    意味は、私の死を超えて、私の解体を超えて、かなたへと続くもの。神が人間の言葉に到来する

    不在=かなた

    顔は、私の自己同一の取返し用のない錯乱であるが、この錯乱は、絶対的に過ぎ去った過去から到来する

    ★★通常、意味は記号に対応する。しかし、痕跡はまったくさしすめすことのできないなにかを、つまり存在の秩序においては不在としか言いようのないものを指している。痕跡とは、このような不在との関係である。

    痕跡は指すもののない不当な関係。痕跡は、存在のかなたを指し示す。

    かれは、決して直接にはあらわれない。かなたに、絶対的に切り離された過去として、われわれに関わっている。

    過去も未来も含めて、私の生を構成しているすべてのものは、現在のうちに収集されてる、しかし顔が輝くのは、他なるものの痕跡において。

    ★神は、痕跡によってしか姿をあらわさない。

    絶対的に他なるものは、意識の内容に反映されない

    自己を疑問に付すとは、まさに絶対的に他なるものを、受容すること

    善に捉えられること、選ばれること、選択の可能性そのものから排除されること

    交換されえないものとして任命されること

    善の奴隷となること、高潔さ

    死=さよなら。善からの命令。

    他者自身の顕現は、絶対的な現前。顔の訪れ。生きた現前→徹さんの言葉は、この「他なるもの」の造形だったのかな。その記憶をそのままに差し出された経験だったんだろう。

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