「学ぶ」ということの意味 (子どもと教育)

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著者 : 佐伯胖
  • 岩波書店 (1995年4月4日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (215ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000039321

「学ぶ」ということの意味 (子どもと教育)の感想・レビュー・書評

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  • ここにあるのは
    「自分探しの旅」・・・


    ●自分にとって本当に学びがいのあることを探す、ということは、
    言い換えると、
    本当の自分とは何か?を捜し求める「自分探しの旅」だと言い換えてもいいだろう・・・・・

    とある。

    学びとは勉強じゃなく、
    生きること。。。

    それも、
    自分らしくなるために生きがいのある生き方のこと・・・

    そうなんですね。
    自分らしく、今日よりも明日よりよくなること。

    そして、

    ●「なってよかった、本当の私」を探すこと自体に、はじめから絶望感を持っているとき、つまり希望というものをすべて失っているとき「やる気」はまったくおきない。

    という。

    ですね、まったくそのとおり。

    やる気は生きがいとともにそこにあるものなのですね。

    そして、
    おわりに・・・では、

    なりたい自分になりたいけれど・・・失敗するかもと
    よりよさを求めることへの恐怖を感じることに対して、
    こんな風に教えてくれている。

    ●・・・・「よくなる」とする実践、そしてその結果が「よりよい」(元へ戻らない)状態の実現だという場合、その「よさ」が、何か絶対的な基準に照らしての「よさ」とは限らない、ということである。
    ・・・・
    「新たな問題」を発生させているかも知れず、それは以前よりもっと深刻な問題かもしれない。・・・・そういう「問題」を発生させたから当初の変容は「よくなかった」としたり、それへ向けての実践は「文化的ではなかった」というわけではない。

    とある。

    つまり、よくなろうと実践することそのものが「いきがい」であり、それは以前より「よい」ということをより理解し、感謝し、味わうことが出来ているということ。

    そうなんだ・・・とわかる実践とともに、「学ぶ」=【生きる】をわかりやすく伝えてくれる一冊。

  • 「学ぶ」とは何か、筆者独自の理論が展開されているが、堅苦しくなくて読みやすい。
    その主張は20年経った今でも全然古めかしいとは思えず、ますます危機感さえおぼえてしまうほど。
    新書にして教育と関係ない一般の方にも広く読んでもらいたい。

  •  p.66 学びのドーナッツ論というが面白い。
     
     自我=Iが、第二の自我を育てる二人称的他者と交流する世界がYOU世界である。THEY世界というのは、匿名性をもつ三人称的他者の世界であり、現実の社会・文化的実践の場である。
     
     以前、私の友人「くらしも」が考えていた、「内と外」の考え方に似ているかも。

     p.75では、この学びのドーナッツ論が、さらに「学校での学びを育てる接面構造」という話になる。ここでは、教師、子ども、教材の関係が話題となる。教師が、子どもにとってどのような存在であればいいのか、分かりやすい主張が展開されている。

     p.140では、
     
     したがって、ドーナッツ論から言えば、先の集団主義と個人主義というのは、同じコインの表と裏のような関係にあり、同じ「YOU的世界の欠落状況」の異なる側面だといってよいだろう。
     
     という主張になり、集団主義と個人主義が表裏一体であることが主張されていく。これだけの引用では分かりにくいと思うが、私としては目から鱗の話であった。

     最後に、ぜひ一読をお薦めしたいのが、p.200「問題解決学習と系統学習」の話。

     全体として、大学の先生が展開する難しい話かと思って読み始めましたが、教師とは何か、授業とはどうあるべきか、いろいろ考えさせられるよい本に出会うことができました。

  • 「人はつねに、他者とともに学ぶ存在である」。うーんそうだろうか。。
    認知心理学者の視点で教育を語る本。

    学び手の周囲をYOU世界とTHEY世界が囲むとする「学びのドーナッツ理論」。
    秘密を打ち明けられる、「なってみる」ことのできるYOU的存在を通して、自分が「なってみたい、もう一人の自分」に変わるような学びができる。そうした学びと変化を通して、見知らぬ他者であったTHEY的存在とのつながりができる。
    そうして自分を広げ、文化に参加していくことが学びなのだと。

  • 平易なのだが、提示される概念は新規で応用可能性が高い。どうしたらこのような論が書けるのだろうか。問題意識にこだわることの重要さをかいま見る。

    ・「動機付け」「やる気」「学ぶ意欲」などをどうやって起こさせるかという話はぜんぶまとめてウソ。どういうことに意欲を持つかは本来、学び手側にあることだから。
    ・ワロンの言う第二の自我は、現実世界の一般的な他者に対して通訳の役割を果たす。
    ・YOU的他者の二つの側面(親密さと社会性、文化性か)
    ・善元教諭の残留孤児の子どもたちとの教育活動。擬人化(相手のみになってみる)
    ・文化の継承とは知識の受け渡しではなく、生活することにある。
    ・「モノになってみる」ことによる理解は、「知識」が得られるというよりも、結局は「自分が変わる」ということである。新しい自分として、世界を新しく、今までと違う別の(より本当の)自分との関わりで見直し、また、新しく関わり合う、ということなのだ。
    ・「ことば」というのは、道具の一種に過ぎない。ドーナッツ論に拡張すると、「身体化した道具」が他者との接面形成に重要な役割をもつと同時に、道具の身体化に、他者なる存在が重要な役割を持つ。道具と他者の相互浸透性こそが学びを形作っている。
    ・文化というのは、「つくる人」だけで構成されているのではなく、「つくる人」と「使う人」、そして「わかる人」との協同で営まれている。「わかる」がなければ、文化ではない、食うか食われるかの関係。
    ・ドーナッツ論から言えば、集団主義と個人主義というのは、同じコインの表と裏のような関係にあり、同じ「YOU的世界の欠落状況」の異なる側面である。
    ・成長、変化し、個人差が現れるのは、参加の仕方の違いであって、参加しているか否かの違いではない。
    ・関係づくりが集団の外側に向かうとき、集団の構成員間は、先輩・後輩の違いはあっても、基本的には「ともに学ぶ者」同士となる。
    ・教科が不得意になる原因として、その教科の教師が嫌いだというケースが多いにもかかわらず、情動と認知を別々のものとして扱う理論では説明がつかない。
    ・教師は第二接面である「真正の文化へのアクセス」を媒介することに本来の役割がある。
    ・底辺校での実践。成功だけなく、非成功もとりあげた。
    ・個人の「力」ではなく、関係に着目する。保育園でのケイの事例。
    ・フレネ教育の目指すものは、学びの原点を自分探しとし、さらにそれを共同体の相互理解とコミュニケーションの活動に高めていくことにある。
    ・勉強は氾濫するが、学びが失われ、希望が失われる。

  • 子どもの学びを考える

  • 2008/12/10

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