- Amazon.co.jp ・本 (215ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000039321
感想・レビュー・書評
-
「学ぶ」とは何か、筆者独自の理論が展開されているが、堅苦しくなくて読みやすい。
その主張は20年経った今でも全然古めかしいとは思えず、ますます危機感さえおぼえてしまうほど。
新書にして教育と関係ない一般の方にも広く読んでもらいたい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
平易なのだが、提示される概念は新規で応用可能性が高い。どうしたらこのような論が書けるのだろうか。問題意識にこだわることの重要さをかいま見る。
・「動機付け」「やる気」「学ぶ意欲」などをどうやって起こさせるかという話はぜんぶまとめてウソ。どういうことに意欲を持つかは本来、学び手側にあることだから。
・ワロンの言う第二の自我は、現実世界の一般的な他者に対して通訳の役割を果たす。
・YOU的他者の二つの側面(親密さと社会性、文化性か)
・善元教諭の残留孤児の子どもたちとの教育活動。擬人化(相手のみになってみる)
・文化の継承とは知識の受け渡しではなく、生活することにある。
・「モノになってみる」ことによる理解は、「知識」が得られるというよりも、結局は「自分が変わる」ということである。新しい自分として、世界を新しく、今までと違う別の(より本当の)自分との関わりで見直し、また、新しく関わり合う、ということなのだ。
・「ことば」というのは、道具の一種に過ぎない。ドーナッツ論に拡張すると、「身体化した道具」が他者との接面形成に重要な役割をもつと同時に、道具の身体化に、他者なる存在が重要な役割を持つ。道具と他者の相互浸透性こそが学びを形作っている。
・文化というのは、「つくる人」だけで構成されているのではなく、「つくる人」と「使う人」、そして「わかる人」との協同で営まれている。「わかる」がなければ、文化ではない、食うか食われるかの関係。
・ドーナッツ論から言えば、集団主義と個人主義というのは、同じコインの表と裏のような関係にあり、同じ「YOU的世界の欠落状況」の異なる側面である。
・成長、変化し、個人差が現れるのは、参加の仕方の違いであって、参加しているか否かの違いではない。
・関係づくりが集団の外側に向かうとき、集団の構成員間は、先輩・後輩の違いはあっても、基本的には「ともに学ぶ者」同士となる。
・教科が不得意になる原因として、その教科の教師が嫌いだというケースが多いにもかかわらず、情動と認知を別々のものとして扱う理論では説明がつかない。
・教師は第二接面である「真正の文化へのアクセス」を媒介することに本来の役割がある。
・底辺校での実践。成功だけなく、非成功もとりあげた。
・個人の「力」ではなく、関係に着目する。保育園でのケイの事例。
・フレネ教育の目指すものは、学びの原点を自分探しとし、さらにそれを共同体の相互理解とコミュニケーションの活動に高めていくことにある。
・勉強は氾濫するが、学びが失われ、希望が失われる。