釜ケ崎と福音―神は貧しく小さくされた者と共に

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著者 : 本田哲郎
  • 岩波書店 (2006年3月28日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (243ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000224635

釜ケ崎と福音―神は貧しく小さくされた者と共にの感想・レビュー・書評

  • 「神は人が貧しくあることをよしとしているのではありません。貧弱だからこそ、神がご自分の力をその人たちに託し、自分たちが貧しさ小ささから立ちあがって、まわりの人々を解放しつつ、共にゆたかになっていけるように定めているということです」33頁。

    「別にあなたが貧しくなる必要はない、貧しくなる競争などしなくていい。小さくなる競争をしなくていい。ただ、自分ではなくこの人の持つ感性のほうが本物だという、そういう関わりをしてください」37頁。

    「いまのわたしは、釜の労働者から受け入れてもらっていますが、それはわたしが本気で相手の話に耳を傾ける気になったときからです」55頁。

    「本物の洗礼を受けた人には、キリストと同じ力ーー人を励ます力、悲しんでいる人に喜びを喚び覚ます力があるのです」75頁。

    「ほんとうにだれかの支えが欲しいとき、助けてもらいたいとき、ただ明るい人、喜びいっぱいの人というのは何の役にもたちません。痛みを知っている人こそが、力を与えてくれるのです」82頁。

    「洗礼を受けようが受けまいが、天の父が、一人ひとりをこの地上に『おいで』と呼んでくださった。そのすべての人はキリストの体の部分として存在している」85頁。

    「選びとは何か?もちろん、選ばれたその人たちだけを救おうという、そういう選びではありません。その人たちをとおしてすべての人が神のいのちに生かされるようになる、そのための選びなのです」94頁。

    「『心の貧しい人々は幸いである』の『幸い』も、やはり誤訳だと思います。・・・『マカリオイ』というギリシア語は、ヘブライ語の『アシュレー』、つまり『祝福されています』、『そのままつきすすんでいいよ』という保証、元気づけのことばです」101頁。

    「自分のその小さくされているがゆえにとぎすまされた感性、本物と偽善を見分ける洞察のするどさ、それが塩味なんだよ、と」104頁。

  • この本、去年の夏に友だちんちに遊びに行ったときに借りて帰った本なのだけど、ようやく読み終えた。

    随分前から読み始めてたんだけど、半分くらい行ったところで何が書いてあるのかさっぱり分からなくなってしまい、だいぶ放置した後にもう一回丁寧に読んだ。

    わたしは特定の宗教は信じてないけど(というか信じられないというか)、無神論というより不可知論の方が自分に近いといった感じはする(だけど、自分では100%唯物論で生きたいって思ってるけど、そうじゃないから不可知論という感じ)。宗教は今まで生きてきた人の思考が詰まっている感じがするから割と好きだ(なのでどちらかというと哲学みたいな感じで捉えている)。


    キリスト教で「福音」とか「神の国」って言われてても、それが何を意味するのか、今まで何を読んでもよく分からず、結局この世界をキリスト教で支配したいのが神の国なのかとか、そういうことも勝手に思ってたんだけど、少なくとも、この本を書いた神父さんの考えはよく分かった。てか、この本、すごく面白かった。

    中立は中立でない、とか、ただ祈るだけではダメだ、行動を起こさねばとか、一般的にわたしの持つ「日本のクリスチャン像」とは違うもの、日本のクリスチャンって穏やかで争いを嫌って、みたいなイメージがあるけど、「そうじゃダメなんだ、ただ祈るだけではダメなのだ」ということが書いてある(って、なんかこう書くと「違う」んだよなあ)。

    言ってることは概ね分かったんだけど、やっぱり「霊性」とかという言葉を使われると(「霊性のあゆみ」とか「福音による社会活動の霊性を深める」とか)わたし自身はキリスト教信じてないので、すんごい違和感はある言葉だよね。。いや、別にわたしはそういうのどうでもいいんですけど、みたいな。

    あと一つ「自分に死ぬ」という言葉の意味がどうしても分からなかった。自分の信念の内に死ぬってことなのかも知れないとは思ったのだが、何か当てはまらないところもあって。。こういう表現の仕方もキリスト教独特のものなんだろうか。

    この人は生まれたときからクリスチャンの家で生まれ育って、割とエリートで神父さんになったそうだが、それでも説教を聞いて解放されたことはなく、ホームレスに毛布を配ってるときに言われた「にいちゃん、すまんな、おおきに」という言葉ですごく解放された、という、それが自分に対して「神が働いてくれた」という、そこのところの話がとても印象的だった。

    わたしは一般的にキリスト教がどのような教えをしているかは、部外者なんでよく分からないし、そこから見るとこの本で言ってることはどうなのか、既存の信者(って言葉あるの?)からどう捉えられてしまうのかということがよく分からないのだけど、でも、これはキリスト教というよりも、もちろん聖書は元にしている話なのだけど、十分一般的に通じる話だと思う。

    でも「正義」という言葉は「正義」という言葉を使って表さなきゃダメなのかね。この人は正義は必ずカッコ付きで(抑圧からの解放)と書いてるのだが、正義を使わなくてただ「抑圧からの解放」じゃダメだったのかね。わたしは「正義」という言葉はとても危険だと思っている。「自分の正義」として使うのならまだいいのだけど、「全体の正義」ということはとても危険だと思う。なので、正義という言葉を聞くと、とても警戒心を持ってしまうのだけど。で、この人もカッコ書きで「正義(抑圧からの解放)」って何度も書いてるから、正義の危なさは分かってると思うんだけど、なんででも「正義」って言葉を使って表現したのかな。そういうところ、ちょっと聞いてみたい感じがする。

    この本、キリスト教信じてない人でも結構お勧めです。

  • 布教は宗教の命だというが、著者は神父でありながら布教のために命をかけるような様子がかけらもない。
    帰依したいというひとにやめた方がいいということすらあるのだという。

    この人は間違いなく、宗教は人間の幸福のためにという、目的と手段を心得た良心のある宗教者なのだろうと思う。

    著者は神学も語学もプロフェッショナルであるが、読み手の事を配慮しているので私のような素人にもわかりやすくとても読みやすい。

    おそらく読者は著者の熱い魂を感じ、二択を迫られる。
    我々の住む日本では釜ヶ崎にいる人たちをはじめとした「貧しく小さくされた」人たちを大量に生産し続けている。明日は我が身と思い、この人たちと寄り添えるのかどうか、それとも冷たい権力の側にいるのか、その選択を迫られることになる。

  • 5年ほど前に知人から勧められ購入したまま、なんとなく読む気が起きず放置していました。タイトルから「ありがちな話」と勝手に想像していたからです。そんな本を読もうと思ったのは、単に積読解消したかったという理由でした。

    読み始めてみたら予想に反する内容で興味深く、あっという間に読み切ってしまいました。目からうろこ…というのはこういうことなんだと思いました。

    感銘を受けた言葉はたくさんありましたが、福祉と言うことを考えた時に強く印象に残った言葉は、「小さくされている者が小さくされないように連帯していくこと」「あなたが細腕でもなんでもいいから、やれるところで動き出したらその腕に力を注いであげるよ、というのが神の手の出し方です」です。

    著者が釜ヶ崎で一人の男性と出会ったことが転機であったように、私が積読解消目的でこの本を読んだことが何かの始まりであればいいな~と願います。

  • 大阪でホームレス状態の人を支援している神父による、「神は貧しく小さくされた者と共におられる」というメッセージ。

  • 著者はカトリックの神父。現在は釜ヶ崎で活動を続けている。そう書くと、いかにも善意の宗教家がホームレスのたむろする地に赴き、熱心に布教活動を行う図が目に浮かぶが、よくある宗教者像を想い描くとまちがう。

    巻頭に一枚の絵が置かれている。炊き出しの列に並ぶイエスを描いたものだ。ふつう貧民救済活動は、恵まれた側がそうでない者に神を通じて与えられた喜びを分かち与えるという趣旨に基づいて行われている。もし、そうなら、神は与える側にいるはず。ところが、この絵では与えられる側にいる。施しを受けなければならぬほど、貧しく小さくされた者と共に、神はいられるのではないか、それが画家の直観であり、著者の思いでもある。

    生まれた時からのクリスチャンで、よいことをして人にほめられるのがうれしくて努力を続けてきた。著者はそういう自分を「よい子症候群にかかっていた」と語る。しかし、神父になり、信者と接するようになると、こんな外づらばかりよい自分でいいのかという疑問を抱くようになった。いくら祈っても変わらない自分を変えてくれたのは、釜ヶ先での出会いだった。

    路上生活者に毛布を配る活動をしていた時、こわごわ配った毛布に「にいちゃん、すまんな、おおきに」と言ってくれた人がいた。東京に帰ってしばらくすると、自分の中で何かが変わっていることに気づく。こだわりがとれ、軽くなっているのだ。ためしに今度は山谷に行ってみた。そこでも同じような経験をする。神は、与える側ではなく、貧しく小さくされた人々の中にいて、そこから私たちを解放してくれるのではないか。そう考えるようになったのだ。

    これは今まで聖書を通じて教えられてきたこととは逆転している。しかし自分の体験は、これが真実であることを語っている。著者はヘブライ語やギリシァ語の辞書と首っ引きで聖書の原典にあたってみた。すると、イスラエルの民も、イエスも、その家族や仲間たちも皆、寄留者や罪びととされるような最下層の人々であった。

    マリアは夫ヨセフのではない子を孕んだため共同体に受け入れられず家畜小屋でイエスを生まねばならなかった。その時祝ってくれたのは、卑しい職業とされていた羊飼いや、不毛と貧困のシンボルであった「東」から来た異教の占い師たちだけであった。ヘブライ語やギリシァ後の語義にこだわり、当時の状況というコンテキストを重視した聖書読解は、大胆な聖書の読み替えを迫るもので、生々しいイエス像の創出は、スリリングでさえある。

    しかし、著者が世の一般の宗教者と一線を画すのは、ここからである。貧しく小さな者たちの中にこそ神がいるという考えは、宗教者にありがちな「弱者賛美」という倒錯に陥る危険がある。「貧しく小さくされた者」という著者の言葉には、何者かがそうしたのだという主張がこめられている。著者は、その原因を知り、そうしたものに対して怒りを持ち、闘えと説くのである。

    「怒り」や「闘い」そのものが悪いのではない。虐げられている者に共感し、はらわたが突き動かされるような怒りを感じたとき、それをそらしてはならない、と著者は言う。ここには、時の権力者やそれにこびる者たち、或いは不正を知りながら他人事として見過ごす者たちへの「怒り」が溢れている。

    イエスの生きた時代ばかりではない。現代にあっても富や権力の偏在が「貧しく小さくされた」人々を生み出す構造は変わらない。あなたは「貧しく小さくされた者」と連帯できるか、という厳しい問いかけが、読者に突きつけられている。安直な癒しなどを求めて手に取ると火傷をするかもしれない、熱い本である。

  • メタノイア。
    下から読めばアイノタメ(愛のため)。
    悔い改めと訳されるこの言葉、
    ギリシア語で、視点を変える、
    低くみに立って見直すという意味です。

    釜ヶ崎という場所と
    良き知らせ(福音)は
    一見ミスマッチな気がします。

    しかしながら
    「そこに神はおられる、
    貧しく小さくされた姿で」と
    神父は語るのです。

  • 大阪釜ケ岬、俗称あいりん地区でホームレス支援を行う本田哲郎神父の著作。本書には2ちゃんねるを通じて出会った。教会と教会が求める什一献金について考え続けていた折、あるスレのカキコで本書が推薦されていた。「本当の福音」とは何だろう。ただちに小生はアマゾンで本書を注文した。
    配達された本書を開き、一読するに釘付けになった。今までの自分の考えていた信仰とはまったく違った信仰がそこに書かれていた。本田神父の体験、そして今も続く活動は、神父の信仰が基本にある。それは、「神はもっとも小さくされた、もっとも貧しくされた人たちを通して働かれる」という神父の実体験に基づく信仰である。
    やむなく路上生活を強いられている人たちは好きでそういうことをしているのではない。そのことは私達だれもがわかっている。しかし、彼らがそうした境遇におかれているが故に持っている独自の能力、精神性については知っていない。小さくされた人たちは、小さくされたが故の独自の強さを身につけている。
    聖書は、神が社会的に恵まれた人たちを選びの民として救ってきたわけではないことを証言している。むしろ、もっとも貧しい人々、その中でももっとも虐げられた人々を選んできた。
    その中でも究極はイエスだろう。イエスは、婚前に妊娠が発覚して一族郎党からつまはじきにされていたマリアの子供として生まれ、その誕生の祝いにかけつけたのは当時蔑視されていた「博士」こと占い師や羊飼い達であった。イエスは、出産時になっても宿屋からつまはじきにされ、やむを得ず家畜小屋で生まれたのである。
    成長してもしっかりした職にもつけず、当時罪びとが就労していた石切りの仕事をして生計を立てていた。塵肺にかかることも多かったとされるその仕事は、まさに社会の底辺にある職業だった。そして、イエスはその後も定収もなく、「食べ物に意地汚い酒飲み」としてさげすまされ、最後はみすぼらしく処刑されてゆく。
    福音とは何か?救いとは何か?信仰を持つ人も持たない人も、またクリスチャンである人もそうでない人も本書を読んで欲しい。特に、教会の形成や維持にばかりとらわれ、自分達のことしか考えていない現代のクリスチャン、とりわけ教職者は本書を読むべきである。

  • 著名で、権威のあるカトリックの神父さんだったが、「キリストの生き方を実践」とばかりに、ドヤ街釜ヶ崎に移住。現在に至るまで、現場で福音を述べ伝える。
    小さい者は小さく「された」者であり、そこに神の姿を見出しているのだが、評者の浅薄な宗教理解では多くを語れない。。
    「身内」意識については、心に刺さる。宗教への関心の有無にかかわらず、是非ご一読を。

  • 大阪・釜ヶ崎で活動している、カトリックの司祭である小林哲郎氏の活動記録でもあり、信仰告白でもある。

    聖書からの引用に小林氏の解釈なども加えられていて、少々説教くさいところもあるが、フランシスコ会の聖職者であるから、まぁ仕方ない。
    聖書のメッセージをどのように受け止め、野に下ったか・・・それも最も底辺の「社会の吹き溜まり」であるドヤ街での奉仕に何を見出したのか。

    本書が伝えることは、信仰者のほとんど全ての人が一度ならず悩み、困惑し、立ち止まるのか飛び込むのか他の道を探すのか・・・その選択を迫られる「隣人愛」という命題である。

    「隣人」とは、誰であるのか。
    「隣人になる」とは、どういうことか。

    それを理解することは、そう難しくないかも知れない。
    だが、それを実践することは極めて難しい・・・と、ふつうは思うだろう。
    だから二の足を踏む・・・そして自分にも出来ることをすればいいのだと、別のアプローチを探したりする。
    信仰者という人間の中には、とんでもないヤツも居て、何も出来ないけれど、毎日祈ろう・・・などと逃げの一手を決め込んだりする。
    「見なかったことにしよう」「出会わなかったことにしよう」そして、何者からも「呼びかけられなかったことにしよう」と言うワケだ。
    「本当に何も出来ない」人間なんて、そうそう居ない。
    小林氏は飛び込んで、飛び込まなければ解からないことに出会って自分の方が救いを得たと言う。
    底辺でただ生きているだけの男たちと、彼らを救おうと飛び込んだ小林神父・・・そのどちらが救われたのか、それは実はどうでもいいことである。
    「隣人になる」ということは、どちらが救われるかなどということよりも、もっと深い結びつきなんだろうと思う。

    本書は、信仰書ではない。
    キリスト教に興味が無くとも、たやすく読むことが出来る。
    しかし、読み進むことができる者と、読み進めない者とがいるだろうと思う。

  • 釜ケ崎での出会いから「福音」の問い直しをする。
    まずしい者たちの感性に学び、その願いに連帯し、共にはたらく道を探った歳月を語る。

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