政治と複数性: 民主的な公共性にむけて

著者 :
  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (324ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000236782

作品紹介・あらすじ

民主的な公共性にむけた、同質性の政治から複数性の政治への転換はいかにして可能なのか。複数性を消去してしまう「表象の政治」に対し、表象には還元されない、具体的な「誰か」として、これまで現われることを封じられてきた自己を政治的に提示する「現われの政治」を擁護し、社会的連帯再生の可能性を考える。

感想・レビュー・書評

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  • 他者の応答を失った境遇にある人々の出現を防ぐ.格差はもとより種々の社会の分断,分極化が進み社会的統合という言葉が嘘くさく感じる現代において改めて確認しておきたい論文の数々.収録論文ベースでいえば20年以上前のものだけど今なお学ぶべきことが多いはず.難解な哲学者を要約する手腕が相変わらずずば抜けている.文庫も手元にあるがこのふわふわの紙とフォントが気に入っているのでハードカバー版も手放せない.

  • 鍵は他者の声を聴きとる「感性」に
    http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011071703627.html

  •  内容的には「公共性」とかぶるが、論文らしく、こちらはかなり詳しく書かれている。
     時間と気力のある人はこっちを読んだほうがいいかもしれない。

  • 意見と意見の交換には、人びとが自らは経験しえぬ他者の異質な「世界の現れ」に触れるという契機が含まれており、それが政治的生活の内在的価値を構成する。したがってそれは、意見の複数性を何らかの仕方で―単一の真理であれ、歴史のテロスであれ―排気するようなあらゆる試みに抵抗する。(p.10)

    社会統合の源泉は、歴史的に形成されてきたアイデンティティの共有ではなく、同様に歴史的に形成されてきた理由の共有に求められるべきであり、市民の間に連帯感や相互の信頼を滋養するのは国民共同体への共属の感情ではなく、相互の規範的主張に対する応答の反復であり、また、政治社会の基本的な規範や制度への忠誠や愛着は、それらによって自らが公正に扱われる経験の積み重ねから生じるものであり、疑似自然的なアイデンティティの共有によってもたらされるものではない、ということである。ナショナル・アイデンティティの再構築を求めるリベラル・ナショナリズムの議論は、社会統合に走る亀裂をその内側から修復するのではなく、その外側から埋めようとする試みだと言えるだろう。(p.63)

    聴くという行為は、おそらく見ること以上に、自らをヴァネラブルにする行為である。というのも、聴くという行為は、他者の声や言葉を、他者にとっての世界の受けとめ方を自らのうちへ引き入れる行為であり、他者と自己の間にある差異や抗争のみならず、自己と自己との間の抗争をも露わにする行為だからである。(p.96)

    公共性の領域とは他者が現前する空間であり、私的領域とは他者が奪われた空間である。人びとのアイデンティティは、自らの現われを受けとめ、それに応答を返してくれる他者の存在に依存している。(p.120)

    他者は私にとって、私の配慮や支援なしには生を保ちがたい、傷つきやすく不安に充ちた存在者であると同時に、私のものではありえない経験やパースペクティブをもち、世界の別の面について語る政治的な存在者でもある。(p.124)

    「生のリスク(risk)」「生の偶然性(contingency)」「生の脆さ(vulnerability)」「生の複数性」。社会的連帯の第四の理由は、適切な生活保障は人びとがより自由に自らの生を生きることを可能とし、多様な生き方を導くというものである。生活保障を欠く場合、あるいはそれが十分でない場合、人びととの関心やエネルギーは生き延びていくこと、明日の生計を立てていくことに集中せざるをえない。一日の大半を水を汲み、生きる糧を得るために費やさざるをえない子どもたちは読み書きや計算の力を身につけることはできず、そのことは彼女たちの実質的自由(生き方の幅)を著しく制約するだろう。また、ケアが私事化されている条件のもとで、介護や育児のために余力を奪われる人びとも、やはり自ら自身の生を生きる機械を大幅に失わざるをえないだろう。(p.186)

    政治文化の継承という集合的責任に関して。
    ドイツ人の生の精神的な条件のうちにこのような体制を生ずべき可能性が備わっていたということに対して、私たちはみな共同責任(Mitschuld)を負っている。だからといって、「ドイツの思想世界」「過去のドイツ的な考え方」がとりも直さずナチズムの悪行の源泉だなどということを承認せねばならないということにはけっしてならない。けれども、それは、私たちの民族としての伝統のうちに、私たちの倫理的破滅(sittliches Verderben)となるような、すさまじくかつ危険な何かが潜んでいることを意味する。(K.ヤスパース『戦争の罪を問う』)
    後から生まれた者であっても、あのことが可能となった生活形式のうちで生い育っているという単純な事実は依然として存在している。アウシュヴィッツを惹き起こした生のあり方と私たち自身の生が結びついているのは、偶然ゆえではない。この結びつきは内的なものである。私たちの生活形式は、私たちの両親や祖父母のそれとつながっている。家庭や地域での伝統、政治的な、さらには知的な伝統が解きほぐしがたく複雑に絡み合った網の目によってつながっている。要するに、歴史的環境によってつながっており、それによってこそ私たちは、自分たちが今日あるところの存在となっているのである。……こうした責任(ヤスパースのいう意味での共同責任)のなにがしかは、次の、そしてさらにその次の世代にも受け継がれていくものなのではないだろうか(J.ハーバーマス『過ぎ去ろうとしない過去―ナチズムとドイツ歴史家論争』)。(p.226-227)

    戦後世代が集合的責任を担うべき理由は、私たちが、数多くの不正義を刻んだ具体的な歴史的関係性を先行する世代から継承し、私たち自身もそうした関係性をすでに生きてしまっているという事実にあると思う。(p.232)

  • 自分の関心はどこにあるのか、ということを考えながら読み進めた。そして今後読むべき文献のリストアップ、課題はなんなのか、ということを朧げながら掴むことが出来たように思います。わたしなりにちょっとだけだけど勉強して、先生の思想のオリジナリティーとかすこしずつわかってきた、ような。とりあえずアーレントを読まねば。

  • 齋藤純一は親密圏の重要性を再評価するべきと唱える政治哲学者である。

    公共圏や公共性は古くから扱われてきた。政治学の分野ではポピュラーな話題であるが、その影に隠れてしまっていた親密圏や私的領域はフェミニズムが明るみに出した。フェミニズムの標語として有名なのは「個人的なことは、政治的である」というもので、つまりジェンダーが政治的領域でも問題化出来ることを目指すものである。

    齋藤は、そんな流れを汲む学者である。

    私が本書内で注目したい点は、「社会的連帯」の項である。これは、端的にいうと、他者同士を支えるために親密性を強固にしていきましょうということであろう。例えば、具体的な政策としてはベーシックインカムを挙げられる。
    しかし私の注目する論点はそこではない。「社会的連帯」とアレントの「活動」をかけ合わせたときに浮かび上がってくる想念として「記憶」の論点である。それも社会としての「記憶」ではなく、個人ベースの「記憶」の話である。これは高橋哲哉がアレント批判をしたときに乗り越えるべき課題として提出しているものでもある。

    個人ベースの記憶はどのように保存され、かつ、「活動」は現代でどのようになされるようになったらいいのだろうか。その疑問を解く鍵となる本である。

  • 激ムズ。

    とはいえ、多元主義に対して、それが(1)それぞれの意見がばらばらになってしまう危険性、(2)支配的な意見による新たな排除の可能性、(3)誰からも応答を得られない「暗闇」に押し込められた人々を忘却する危険性、を指摘してたうえで再検討すべきと主張しているのは理解できる。

    このような事態に陥らないために―すなわち非対象的な位置にある人びとがお互いにどのような関係を結ぶべきかについて―「経験の単独性(uniqueness)はそれぞれ一人称によって語られるのをまつものであるということ。このことは、他者の立場を想像する、表象するという能動性ではなく、その経験の言葉を聴く、そしてそのことによって惹き起こされる自らの立場の動揺を受け止めるという受容性を、"democratic way of life"として求める」(p270)と述べている。

    「相手の立場に立って考えなさい」ということは、一般的によく言われるが、その言葉が持つ限界について思考をめぐらせていると言えるかもしれない。つまり、私たちは究極的には「相手の立場に立つ」ことは不可能なのだから、最終的には相手の言葉を聞き受容するだけしかない、と言っているのかもしれない。

    また第4章でアーレントをひきあいに出して「公共性の二つの次元」について述べたところが印象に残った。まず最初に生命を維持することは「同一性」(sameness)、自らの言葉や行為において現れることは「複数性」(plurality)と区別する。そして「公共性」の次元は、一般的には「同一性」のレベルで表れるものだが、アーレントにおいては「複数性」のレベルにこそ「公共性」の意義を見い出すという。ここに齊藤は、公共性の理論化の新たな地平を見い出している。

    というのも、「同一性」における公共性のみを取り上げるは、「人びとを生活保障の次元においてのみ処遇すること」(p124)になり、弱者を弱者として眺める傲慢な態度を生み出すからである。公共性としてもうひとつ問題にすべきは、「人びとが複数の生の位相を生きている」ことを承認したうえで、他者との関係を模索することである。その二つの次元について公共性をとらえ、それぞれのレベルで相応しい処遇を考えねばならない、と説いている。

    個人的には「それって結局、どういうこと?」という感じもするが、「公共性」について単なる最大公約数的な意味あいで捉えることの危険性については、認識しておかねばならないと思った。

  • 『公共性』(岩波書店)の後に読んだらいいかも。

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著者プロフィール

早稲田大学教授。1958年生れ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程単位取得退学。専門はアーレント、規範的政治理論。早稲田大学政治経済学術院長。著書に『公共性』『自由』『政治と複数性――民主的な公共性にむけて』(以上、岩波書店)、『不平等を考える――政治理論入門』(ちくま新書)、共著に『公共哲学』(放送大学教育振興会)など。

「2023年 『公共哲学入門』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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