- Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000238793
作品紹介・あらすじ
2008年9月、東金市の住宅街で女児の遺体が発見される。逮捕された青年には、軽度の知的障害があった。取り調べ、起訴、精神鑑定、公判前整理手続、一審から最高裁に至る一連の司法手続きで、いかなる事態が起こり、何が争われたか。無罪主張の撤回と主任弁護士の辞任をもたらした弁護団との「コミュニケーション」の困難。裁かれることにおける被告Kの当事者としての意思決定、その「自由」と「責任」に起因する根本的な矛盾とジレンマ…。いま、刑事司法と障害者福祉が向き合わねばならない新たな難問が浮き彫りにされる。
感想・レビュー・書評
-
2008年、千葉県東金市住宅街の路上で、5歳の女の子の全裸死体が発見され、近所に住む21歳の、知的障がいのある男Kが逮捕される。彼はやがて犯行を自供するが、彼を犯人とするには、指紋の不一致、犯行の物理的な実行可能性、被疑者の特性に関わっての供述の曖昧さ等、いくつも不自然な点があった。
以上のようなことから、弁護人は、Kは事件と無関係と判断し、冤罪を主張する記者会見を開く。長く精神医療や障がい者と関わり、「自閉症裁判」等を著している著者は、弁護人の主張に沿って記事を発表し始める。
ところが、3か月後弁護人は明確な理由を公表せず突如辞任、後任の弁護人は無実を撤回し、訴訟能力や責任能力の欠如を軸に弁護を構成する。この予想外の展開に、著者は「一人、完全にはしごを外された形に」なってしまい、元弁護人に真意を問うが、取材に応じてもらえない。結局Kは、検察の懲役20年の求刑に対し、懲役15年が言い渡される。
本書で著者は、Kが有罪か無罪かを検証しているのではない。本書は、犯人に仕立て上げられた知的障がい者という想定で事件を追っていた最中、事件が思わぬ展開を見せ、そのため戸惑い、苦しみながらも、そこから見えてきた「知的障害者と裁き」の問題についての、著者の考察の記録である。
知的障がい者は、計算能力、言語能力等の発達が平均よりも遅い。これらは測定可能で、数値で表せる能力である。しかし、例えば自尊心のように、容易には数値化できない「心」に関する面はどうだろう。考えてみると、自尊心や恋愛感情が、計算能力等と同じ速度で、つまり「ゆっくり」発達するとは限らない。しかし私たちは、少なくとも私は、こうした感情については深く考えていなかったし、当然発達が平均より遅いだろうと自動的に想定していた。
無実を訴えた最初の弁護人は、事件の社会的意義を考え、Kの障がいについて社会に理解を求める立場で論を構成し、Kが公判で「私は知的障がい者です。難しいことはわかりません」と話す練習までいっしょにしていた。しかしKは結局この言葉は言わなかった。忘れてしまったのかもしれない。或いは、この言葉を述べることを、Kのプライドが許さなかったかもしれない。それはわからないのだ。知的障がいを持つKには、自分の行動の動機を整然と述べることは期待できないからだ。
公判でKはしばしば、「わかりますか」と問われる。例えば「黙秘」については、「わかりません」とはっきり答えている。しかしKは「少しわかります」という答えを多用している。その後のKの証言を読むと、わかっていないことがわかることが多い。「少しわかります」、この答えから私たちは何を考えなければいけないのか。そもそも「わかりますか」と頻繁に問われるとき、Kの心で何が起こっているのか。本書はこうした重要なことについての、問題提起の書である。多くの人に読んでほしい。
「司法が凶器に変わるとき」(三宅勝久)との併読をおすすめする。同じ事件のルポだが、こちらはタイトルからわかるように、Kは事件と無関係とする視点から書かれている。公判でのKの証言がそのまま載っているので、大変参考になる。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
コミュニケーションの障害というのは、途方もないことだ、
それを試行錯誤して闘ってる弁護団の人たち、司法という立場、
福祉かアイデンティティ尊重か、
いろいろうなりました。ううー。
知的障害が重度か軽度か、発達障害が重度か軽度かではないね、
「コミュニケーション能力」があるかないか、できるかできないか、
理解されにくい上に誤解もされやすい、たまらない。
もし、自分に、身近な人に、こういう事件が起きてしまったらと考えると、
もうただただやりきれないというか、
明らかに罪なのだけど、
責任能力、説明能力、訴訟能力、考えてしまうと、やりきれない。
こんな事件が起きないように願うだけ。 -
どうにも事件が事件だからか読み進めることができない。
-
知的障害のある当事者の裁判だけでなく、関わりそのものからどう考えたらよいのかを指摘している点は参考になった。嘘をついたり迎合的な発言は障害そのものによってもたらされたのではなく、いきる上で仕方なく得てきたスキルなのだと。それを理解した上で彼らを理解するよう努めていかないといけない。
-
千葉東金事件のドキュメント。
冤罪か否かということでなく、
このような経緯だったのだと、
その節々での違和感やら何かを心に止めておくこと。 -
いかに当時の報道が表面的かを感じた。もちろんこの著作も一人のライターが書いたとしての前提だが。今後もフォローしたい。
-
例えば、腐れ当局が知的障害者を思うがままに供述させて無罪の弱者を檻の中に入れようとしているのに弁護士はその片棒を担いでいるっていう一方向の力しか働いていない陰謀論なら話は早い。あるいは権力と戦う正義の弁護士が登場して無罪を勝ち取るなんてのもあるかな。
でも現実は…っていう話。被疑者は自分が知的障害のあるということを理解しつつも受け止めきれずに持て余し、その母も息子の障害に、というか自分の子どもそれ自体の扱い方も分からない。そして被疑者が慕っていた父の具合の悪くなって、高校卒業後就職した布団会社の仕事もやめてしまい、その後の事を考える余裕も家族で無くす。ここまではよくある不幸な家族の話だと思う。
その後事件が発生する。
逮捕され、被害者遺族は知的障害というエクスキューズに聞く耳を持たず、当然のように死刑を望む。
司法制度や知的障害へのアプローチそれぞれ限られた中で弁護士などその道のプロが仕事する。そういう所が読みどころかな。そういう意味で大人の読み物。
本題とはそれるけれど。偶然起こった不幸な出来事です、判断保留。ではどうしようもない。だから起こった事件を論理で納得しようとする態度が受け入れられ制度になった。けれどもその道は真実を無限に作り出す。そもそもが蓋然なのだからしょうがないよなあ、なんて当たり前のことを思い出した。