ルポ 京都朝鮮学校襲撃事件――〈ヘイトクライム〉に抗して

著者 :
  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (238ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000259644

作品紹介・あらすじ

「北朝鮮のスパイ養成機関!」「密入国の子孫!」「不法占拠!」-二〇〇九年一二月四日、昼休み中の京都朝鮮第一初級学校は、校門前に押しかけた「在特会」メンバーらの怒号で騒然となった。何人もの子どもが泣きじゃくるなか、一時間もの街宣が強行され、その後も二度のデモが繰り返された。保護者や教師たちはリスク覚悟で法的措置に踏み切る。先人から受け継いだ学校と、何よりも「子どもの尊厳」を守るために-過激化するヘイトデモ/ヘイトスピーチの一つの原点ともいえるこの衝撃的事件は、日本社会に何を問いかけるのか。保護者や教師、生徒、さらには弁護士や支援者らの証言を通し、四年間に亘る闘いの軌跡を再構築。彼、彼女らの「覚悟と決断」が拓いた地平を描く渾身のルポ。

感想・レビュー・書評

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  • 強い怒りを感じると同時に、胸元に匕首を突き付けられた
    気分になった。

    平日の昼間。子供たちが学ぶ学校の前で拡声器を通じて
    ありとあらゆる罵詈雑言をがなる。在特会を始めとした、
    ヘイトスピーチをまるでリクレーションやエンターテイ
    メントのように楽しむ人々。

    標的にされたのは京都第一初級朝鮮人学校だった。レイシスト
    たちが口にする言葉は、まるで関東大震災後の朝鮮人虐殺の
    頃に時代が戻ったようだ。

    そう、何も違っちゃいない。実際に朝鮮人や沖縄の人が殺害
    された関東大震災後の虐殺と、子供たちや保護者、教師、卒業
    生の心に深い傷を植え付けたヘイトスピーチはアイデンティティ
    の虐殺ではないか。

    本書は度重なる朝鮮学校への街宣活動から法廷闘争と、その後
    までを描いているのだが、その中で戦後の日本が行って来た
    民族差別の様が紹介されている。

    日本は半島の人々から文化を奪い、言葉を奪い、名前を奪った。
    それは過ぎ去った昔の話ではない。ネット空間には在日著名人
    リスとなるものが書き込まれていたりする。

    自分で選ぶことの出来ない出自が罪なのか。そんなことはない。
    国籍が、肌の色が、宗教が違っても同じ「人間」であることに
    変わりはない。尊重されるべき「人権」があることに変わりは
    ない。

    ないはずなのに、特定の人々に対してのみ向けられる根拠の
    ない憎悪はどこから生まれるのか。それはただの憂さ晴らし
    なんじゃないのか。

    先日亡くなった統一ドイツ初代大統領ワイツデッカー氏は
    ナチス・ドイツの過去と正面から向き合い、過去をありの
    ままに見つめる勇気を持つよう説いた。しかし、そのドイツ
    でも排外主義者が現れている。

    過去と向き合うことをしてこなかった日本は、今こそ自身の
    過去を、そして現在を見つめ直すべきじゃないのか。

    テレビニュースで流れるヘイトスピーチの様子には吐き気さえ
    覚える。だが、私自身はいかれたレイシストたちにきちんと
    対峙出来るのだろうか。レイシストたちが汚い言葉をまき散ら
    している時に、私は何をしていた?

    「朝鮮人って悪いことなん?」。襲撃された学校に通う子ども
    が、保護者に訊ねた言葉だ。こんな言葉を子供が口にしなくて
    もいい社会でなくてはいけないのにね。

  • 「ルポ京都朝鮮学校襲撃事件」って本を読んだ。

    図書館で借りてきた本だったので、期日前に読まなければいけなかったのだが、最初の一週間ほどは読むのがつらくて最初の一章だけ読んで、ほとんど放置していた状態だった。けれど、それでは期限が来てしまう。意を決して続きを読んだ。苦しかった。何度も泣きそうになった。いや、実際涙が流れた。けれど不思議と「続きが読みたい」って思わせるような本だったので、残りは2日ほどで読めた。

    http://rontako.blog39.fc2.com/blog-entry-1744.html

  • もう閉校になってしまったが、私が1年生に入学して5年生の終わりまで通った小学校は、もともと隣り合う2つの校区の小学校の児童数が増えたことによってできた"調整校"で、敷地の都合もあったのだろう、運動場と校舎は道路をまたいで住所が違い、道路をみおろす陸橋で行き来するという変わったつくりだった。

    初めて小学校に入った子どもは自分の目の前の経験しか知らないから、学校とはそういうものだと思っていた。今振り返ると、あれはほんとに珍しかった。

    『ルポ 京都朝鮮学校襲撃事件』で在特会の襲撃を受けた京都第一初級学校の様子を読みながら、自分の通った小学校でもしこのようなことがあったとしたら…と想像した。

    学校のある時間に、運動場にしろ、校舎にしろ、ものすごい大音量で罵詈雑言をまきちらす大人のデモ隊が押しかけて、1時間もそれが続いたとしたら…。しかもその悪罵の内容は、学校の存在を否定し、そこに通う子どもまでも攻撃するものなのだ。

    もし自分の通った小学校でこのようなことがあったとしたら…子どもたちはどんなにか身がすくんだことだろう。小学校のすぐ隣の保育園も無傷ではありえない。先生たちはどんな対応をしただろう。親たちや近隣の大人たちは駆けつけただろうか。学校のすぐ近くの駅には交番があったが、あそこから誰かがやってきただろうか。

    大人だって大音量の罵詈雑言を1時間も浴びると壊れかねない。私はネットの動画を十数分見るだけでも、胃がぎゅーっとなってくる。どこで行われようとヘイトデモのひどさは堪らないものだけれど、小学校が襲撃され、その後も二度にわたって学校へのデモが繰り返されたという事実を前に、胸がつまる。差別煽動の衝撃は、その場限りのものではないのだ。

    警察と在特会の見分けがつかなかったのが恐ろしかったと、駆けつけた保護者は語る。自分たちは街宣許可を得ていると強弁する在特会を前に(許可を得ているというのはハッタリだった)、警察はただその言動を傍観していたという。

    京都第一初級学校の前身である朝連七条国民学院は、1946年4月に京都市との交渉で京都市立陶化小学校の校舎4教室と職員室を借用するかたちで始まり、翌年京都朝連第一初等学院と改名された。場所は、京都府内最大の朝鮮人集住地域である東九条。

    だが、ほどなく、建物の使用と教授の方法が明らかに教育基本法違反だと京都軍政部の「注意」を受け、京都府は「朝鮮人学童生徒の教育に関する覚書」を覆し、1949年の10月末に朝鮮学校は陶化小学校を追われる。

    この60年あまり前の事態を、著者はこう記す。
    ▼日本の国策によって民族性を否定されてきた朝鮮人が、交渉の結果として学校校舎を使い、民族性を回復する教育をしていたことをまるで「特権」のごとくに言いつのり、強引きわまる法解釈を駆使して「違法」を連発する。まるで在特会の論法である。(p.33)

    陶化小を追われてから、アパートや朝連の支部事務所、同胞宅などを転々としながら、在日一世たちは民族教育を守り、子どもたちの学びは続いた。そして手にいれたのが、東九条の真南にあった勧進橋の土地である。正式な開校は1960年1月。

    学校は、地域の同胞たちが集まれる場所だった。卒業生らは、地域同胞が集う「マダン(広場)」の役割を語る。学校に縁があろうとなかろうと、近所の同胞が歩いてこれる場所。「「ウリハッキョ」のそのような機能を自覚していたからこそ一世たちは、老若男女が寄り集まれる集住地域に学校があることにこだわった」(p.39)。

    そうして開校した朝鮮初級学校が、在特会の襲撃を受けた。2009年12月4日の午後。

    在特会(在日特権を許さない市民の会)の主張する「在日特権」は、『ネットと愛国―在特会の闇を追いかけて』でも書かれているように「従来の制度を思いっきり拡大解釈したうえで、彼ら独自の見解や根拠の怪しいデータを付け加えた」ものだ。

    第一初級学校を襲撃した者たちの主張は、学校が長年勧進橋公園を運動場として使用してきたことが「50年あまりの不法占拠」だというのだった。

    だが、公園使用は、1963年に運動場のない学校が京都市と地元自治体の三者合意を取り付けて続けてきたことだった。京都市では、当時グラウンドのない学校が近くの公園を運動場として使うのは珍しいことではなく、2009年の段階でも、京都市立の中学校4校と小学校1校が公園を運動場として使っていた。

    地域と共生する学校を、保護者たちも目指してきた。
    ▼地域社会とは他者同士が寄り集まって暮らす場所に他ならない。小さなトラブルがあるのは当然で、その都度話し合い、互いへの理解を深めていくのが「共生」であり、人間関係、社会の「発展」ではないか? しかし、こと朝鮮学校については小さなトラブルが学校存在への反感に膨張していくのはなぜなのか? 「人として当たり前のことをやって、お互いを受け入れることを積み重ねる。普通の日常を積み重ねて、もっと地域に理解を広げ、地域の風景に溶け込み、地域と共生する学校を目指そう」。オモニたちの確認事項だった。(pp.52-53)

    学校と保護者は、このヘイト・デモに対し告訴を考え、しかし躊躇した。「刑事告訴とは、相手が有罪となるか、さもなくば行為は「合法」だと刑事司法の場で認定されてしまうという二者択一に自分たちを追い込むことをも意味していた」(p.85)からだ。

    法学者であり子どもを第一初級に通わせる保護者でアボジ会の副会長でもある金尚均さんはものすごく悩んだ。刑事告訴しても不起訴にされる可能性が怖かった。仮に襲撃者たちが逮捕されて起訴されても、無罪になる恐れもあった。「法的応戦をすることで逆に、彼らの行動を是としてしまうかもしれない危険性」(p.85)を考えると、刑事告訴はためらわれた。

    それだけではない。名誉毀損をかちとるためにもやらなあかんと保護者会で他の親たちを説得しながらも、金尚均さんの胸の中には「いい子チャン」のぼくと「困ったチャン」のぼくが同居していて、「今までずっと黙ってきたんやから、今回も黙ってても死なんやろ」という考えがすーっとよぎるのだった。

    「どんな裁判をやっても最後は権力に負ける」(p.106)という経験がそれだけしみついている。最近であれば、在日朝鮮人の障害者、高齢者の無年金訴訟。「裁判所は我々に対する『差別』にお墨付きを与えてしまう」(p.106)ということがあまりにも繰り返されてきて、司法への不信感はぬぐいがたいものがあった。

    裁判では、支援者から「いいマイノリティ」になろうとすることへの懸念も指摘された。

    朝鮮学校での教育も論点となった裁判で、被告側(=在特会側)は、"日本人拉致事件を起こした北朝鮮との関係"を理由とした政府の敵視政策に自分たちの主張を重ねあわせ、朝鮮学校ではカルト宗教の洗脳のごとき教育がおこなわれているとアピールしようとした。

    それに対して、原告側(=朝鮮学校側)が、教科書の内容がいかに日本の学校に近いかを裁判所に説明したり、証人尋問で弁護人が「反日教育などしてませんよね?」と質問したことについて、傍聴していた若い支援者が違和感を述べた。

    ▼「『いいマイノリティ』を強調し過ぎるのは、レイシズムの論理に絡め取られる危険性を胚胎していないか? では『反日教育』なら権利はないのか? 昔のままの政治色の強い教育なら、その価値観は毀損されるのか?」と。受け入れられるマイノリティとそうでないマイノリティを線引きする差別の論理につながっていかないかとの指摘だった。(pp.199-200)

    こうした線引きはふとしたときに出てくる。雇い止めの問題で、「あんなイイ人が、こんな不当な目にあうなんて…」と言う人がいたとき、私は「イイ人じゃなくても、権利はある」と思い、でも、イイ人でないと権利は認められにくいんやなあと実感した。「いいマイノリティ」の強調は裁判を進めるうえでの戦略だったのかもしれないけれど、そのことに違和感を抱いた人の気持ちに共感する。

    教育の場で、朝鮮学校への差別は続いている。安倍政権が高校無償化対象から朝鮮学校を除外することに踏み切ったとき、神奈川新聞の社説はこう批判している。

    ▼「アメリカンスクールで原爆投下はどう教えられ、中華学校の教科書に南京大虐殺はどう記されているか。それらが問われないのは、価値観や歴史観が異なるからといって、教育内容に政治的干渉をすべきでないとの大前提があるからだ。朝鮮学校に対してのみ扱いが異なる現状のいびつさは、どれだけ自覚されているだろう」(『神奈川新聞』2013年2月2日社説「明白な朝鮮学校差別だ」、p.149に引用)

    著者は、「朝鮮人が朝鮮人として生きる「異化」の権利を主張してきた場が朝鮮学校だ。その存在は、常に朝鮮人が「同化」を強いられてきたことの裏返しでもある」(p.25)と書く。

    その学校を支えてきた教師たち、保護者たちが、ヘイト・デモとそれらへの対応、子どもらの安全を守るための努力に時間も気持ちもとられ、どれほど消耗し、へとへとになっていったかがこの本には書かれている。ヘイト「スピーチ」と言うけれど、それは表現の自由とかそんなものじゃないのだと思う。

    「死ね、殺せ」と向けられることの怖さ、そうした主張が何の規制もされずにおおっぴらにおこなわれ、あるいはネット上でばらまかれ、相当数の「賛同」が寄せられていることの怖さ。そういう相手に、"いいマイノリティ"として向き合うことのキツさ。

    どうやったら、「死ね、殺せ」と主張する人たちに、ことばが届くのだろうと思う。この本は、そういう人たちにはほとんど読まれないだろうから、なおさら。

    (5/9了)

    この本で私が初めて知ったのは、「京都を代表する伝統産業である西陣織の少なからぬ部分を在日が担っていた事実…西陣織は、腕さえあれば差別があっても食べていける「在日産業」としての側面があった」(p.29)ということ。いわゆる"伝統"と在日朝鮮人との関係をもうすこし知りたい。それと、弁護士の遠藤比呂通さんのことももうすこし知りたい。

  • 著者の気持ちもわからないではないですが、ジャーナリストとしては少し冷静さに欠ける文体かと・・・・。
    第二次安倍内閣発足でヘイトデモが活気づいたと言い切っていますが、ちょっと言いすぎかもしれませんね。
    「公的なヘイトクライム」という言い方をあとがきにも書いてますが、クライムは犯罪ですし、公的な犯罪というのは「近い」にしても「的確な」表現ではないと思います。
    ただ、民事訴訟は勝ったけれど、それはヘイトスピーチそのものが処罰の対象にされたのではないという見解は正しい。

  • 何も問題がなければ、ヘイトクライムの対象にもならないのだろうから、やられるには何かしらの理由がある。日本人だって、何もしていない人に攻撃するほど野蛮ではない。そもそも朝鮮人は半島に戻ればよい。日本に住む必要ないのではないか。日本に住んで、こういうときだけ犠牲者面するのはやめてもらいたい。
    だいたい市民の公園を勝手に運動場として使って体育の授業とかやる朝鮮人学校の方が問題ではないか。

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著者プロフィール

中村 一成(なかむら いるそん)
ジャーナリスト。1969年生まれ。毎日新聞記者を経てフリーに。在日朝鮮人や移住労働者、難民を取り巻く問題や、死刑が主なテーマ。映画評も執筆している。
著書に、『声を刻む 在日無年金訴訟をめぐる人々』(インパクト出版会、2005年)、『ルポ 京都朝鮮学校襲撃事件―〈ヘイトクライム〉に抗して』(岩波書店、2014年)、『ルポ 思想としての朝鮮籍』(岩波書店、2017年)など。

「2019年 『「共生」を求めて』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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