複雑さを生きる: やわらかな制御 (フォーラム共通知をひらく)

著者 :
  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000263504

作品紹介・あらすじ

人間関係、ハラスメント、組織の運営からテロリズム、環境破壊まで、現代の諸問題を複雑系科学の立場から読み解き、しなやかに生きる術を明らかにする。

感想・レビュー・書評

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  • 福島原発事故後に「東大話法」で有名になった安冨さんが、それより前の2006年に刊行した作品。安冨さんの本は『満洲暴走』などいくつか読んできたが、これが一番難しかった(あとがきによると、最初はもっと難しかったらしい)。

    というわけで、あんまり理解できていないけれど、一番面白かったのは、「十分な事前調査→入念な計画立案→責任をもった実行→事後評価による改善」といった計画制御のプロセスでは、複雑な世界には原理的に対応できないということ。物事の複雑な相互関係から一部の原因→結果のみを切り取って、ムリに制御しようとすると、かえって大変なことになると、著者は論じている。たとえば、意味のない書類が増えたり、現場を萎縮させたりしてしまうとのこと。うーむ、たしかに、同様の光景があちこちで増えているのでは…。グローバル化に伴う社会の激変(複雑さの増大)に対して、日本では企業も学校も計画制御の強化によって対応しようとしているが、安冨さんの議論によると、これは根本的に誤った対応ということになる。

    これに対して著者が提唱するのは、「共生的価値創出」という概念で、参加者を指令する側・される側に切り分けるのではなく、相互に依存・影響し合うことによって、新たなものを創造する行為とのこと。これも理解するのが難しいが、ごく一部の国際援助や霞ヶ浦の環境再生などで実現しているらしいので、これらの事例をさらに調べてみるのがよさそう。

  • 著作多数の安冨先生の三冊目!のご本だそうです。宮沢賢治の詩の引用に始まり、脳が、人が、世界が、青く明滅する美しいイメージが広がってゆく。しかしこれ、何の本だ…。「生きるため」シリーズの源流だろう、めちゃくちゃ面白いんですけど、「やわらかな制御」についての説明、でいいのか? 孫子を読みたくなる「間接的アプローチ」では第一次大戦の話をなさっている。何の本なんだ。巨大な安冨思想のプロトタイプ。「以下にこれこれを述べる」論文形式なのが安冨本としては逆に初々しく感じられる(2019-10-11)

  • コロナ禍になって私が一番影響受けた本で、自分の最近の愛読書でもある。
    内容は難しくて、最初は理解出来なかったが、だんだんわかるようになってきました。
    内容は世の中の複雑は問題を複雑系科学など用いて説明しています。
    この本の良さは改めて考えると確かにと考えさせられる。
    冒頭の文章だけでも納得するのではないんでしょうか。
    さらにコミニュケーションについてもこの本を読むとものすごい技術なんだと実感するしハラスメントについても日常的によくやるコミュニケーションではないかと感じます。
    さらに皆さまにとって批判したくなるのは計画制御と計算量爆発についてだと思います。
    何か計画して、実行、原因と結果なんてゆうのも無意味なのかわかる。
    うまくいく事自体が奇跡なんだと実感できる。
    (だから言って無計画がいいとは言ってません)
    だから、自己責任論唱えてる人と努力自慢してる人はいかに無意味がわかる。
    そして、そこから生じる責任の意味も考えなきゃいけない。
    全然意味が変わってきます。
    興味ある方、ぜひ読んでみてください。
    考え方変わると思います。
    私も正直、この本は難しくて、まだ自分でも説明できないものもあるので、何回か読み直さないといけないと思います。

  • 難しいという前評判だったけど、案外するなり読めました。

    でも、サラッと読んだだけなので理解は深くはないと思います。この本は今は高くて高くてとても手を出す気にはならなかったので、図書館に取寄せてもらった。

    「計画制御」はただの人間の妄想であるみたいな事が色んな事例を交えて書かれてある。

    • マンナさん
      前評判のように難しくはなかった。ただしサラッと読んだだけなので理解が深かったわけではないと思う。

      「計画制御」が如何に人間の持つ妄想である...
      前評判のように難しくはなかった。ただしサラッと読んだだけなので理解が深かったわけではないと思う。

      「計画制御」が如何に人間の持つ妄想であるかが色んな事例を交え書かれてある。

      その場その場で状況は変わるのだから、融通無碍に立ち回ることが良いのでは無いか、みたいな。

      むちゃくちゃ共感出来るし、読んでよかった。
      2023/09/07
  • インゴルドは、人類学について、<人間の存在様態の成立可能性>を目撃する学問であるというような記述をしていたように記憶しているが、僕のやりたい、というか自分が社会に接続したいのは、この点においてなのかもしれないなということをぼんやりと思った。日本社会で生きる人間から見れば、中国やイスラム圏に、こうした市場と共同体が混交した生存の在り方があるなど、希望を見るおもいだろう。しかし、中国やイスラムにとっては「普通」なわけである、しかし、その「他」はまた、多文化にとっては新たな可能性をともしてくれる。

    以下引用

    寛容に基づく思い込みは、外的規範の基礎であるとともに、「ハラスメント」とここで呼ぶような支配・被支配関係を生み出す危険を常にはらんでいる。

    ★社会という外部がもたらす規範は、自己のなかに外部の記述を取り込む必要性を生み、それが本来のダイナミクスの豊かさを抑圧することになる。これがハラスメントの惹起作用がある。

    ★コミュニケーションが成立することで、行為者が事後的に意図をもっていた「ことになる」
    →つまりコミュニケーションの意図は、その展開前の時点では明らかではないということ

    意図というものが、「わたくし」の行為の結果として形成されるというダイナミクス。

    わたくしに事前に意図があり、それがなんらかの行為へと変換されて「あなた」に渡され、それを「あなた」が解釈するというコミュニケーション像は不十分(=記号)

    まず場があり、そこに行為が生成されると同時に、意図と解釈が生まれ、コミュニケーションが成立し、それが場に再生産する。

    わたくしのあなたについての学習の努力を続けつつ、その理論形成を阻害することがハラスメントの戦略。常にこの努力を払わされ続けると、わたくしの精神は疲弊する

    支配下におかれたわたくしは、目の前の不愉快な出来事を逃れようとした場合に、あなたが何を仕出かすかわからないという恐怖心を抱くように現状をなり、受け入れようとする

    どんな人でも他人に対して、精神的な嫌がらせをしてしまうことはある。しかしそういった行為のあとには、「あんなことをしなければよかった」と必ず反省するものである。これに対して、モラル・ハラスメントの加害者は反省しない。彼らは強い内的葛藤をもっているが、それを自分でひきうけることができない。モラルハラスメントの人は、内的葛藤を引き受けることができず、それを外部に向け、他人を搾取し、破壊することでそこから逃れようとする

    自己愛の強いモラルハラスメントの人間は、他人を愛したり、信頼したりすることができない。加害者は被害者の持つ優れた面、容姿、才能、地位、やさしさなどに執着し、それを所有しようとする

    被害者が相手に対して寛大な態度を示すのは、家族や集団に対する忠誠心からくることが多い。それは自己中心的な母親に父が懸命に配慮している姿をみて育ったため、相手に対してそのようんするのが当然だと思い込む。被害者は、それが自分の使命だと感じ、その使命を果たすことに身をささげる

    モラルハラスメントを駆使する人間は、他の人間を思い通りに操作できる。政界、財界、教育界などで、高い地位についていることが多い。他人を破滅させるようなコミュニケーションを駆使すると、普通の人間は精神的に苦しむが、ハラスメントの吸血鬼たちは、そのような葛藤をもたない。他者に対する学習過程を駆動させないので、問題があれば、それは自分のせいではなく、他人が悪いと思いこむことができるという鉄仮面。


    ストックホルム症候群(ストックホルムの銀行強盗事件)
    人間が生き延びるために自分の生死をにぎっている人間を愛するようになるという防御反応。自分を脅かす人間が、自分よりも圧倒的に強いのであれば、相手に憎悪を抱いて抵抗するよりも、相手に尽くした方が生き延びる可能性が高くなる

    ハラスメントの加害者である教員に心酔している

    ★★他者に対して、矛盾した命題を突きつけて混乱させるというメタの操作はしかし、必ずハラスメントになるかというとそうではない。
    追い込まれた学生が、その混乱のなかから思考レベルの跳躍を果たすという共沈到達すれば、それはハラスメントではない。このような成果をあげるには、学生と教師との間に信頼関係が形成されていて、教師の繰り出す矛盾した指導の向こうに、心理への道が開けているにちがいないと学生が信じることが不可欠。信頼関係の維持への努力がなければ、ハラスメントに転化する。

    →これはすごく思い当たる節がある。自分が相手に何か介入するときも、それがハラスメントになりうることはあって、その土台には、信頼も必要だし、なによりその介入や指摘が、「より良き高次」を前提せねばいけないのだと思う。

    人間は、自分の感覚に従って判断し、行為するという、あたりまえの能力を持ってうまれてくる。これが本来のあるがままの人格である。ところが親が、子どものためを思い、野心を持たせ、競争に勝てる、社会に従順な子供を育てたいと思ったとたん、その子供が本来持っていた人格を捨てさせることになる。みせかけの「正常」な行為を産出する装置が組み込まれそれが「人格」を構成するようになる。こうして本来の人格は「自分のなかの他人」となってしまう

    子どもは、自分が本当にうけとめた感覚を否定して、親の求める虚像を演じていれば、親に愛してもらえると理解する。この転換過程が「自分に対する裏切り」
    →これ、「親」を、「市場」や「制度」、ひいては社会という言葉に建て替えてもよい。

    親が恣意的なルールを設定し、子どもがそこから外れたことを見つけると、それを罰し、さらにその理不尽な取扱いによって心を傷つけられて子どもが泣いたり叫んだりして感情を表現することを禁じられるとき、子どもの魂は抑圧される

    最初に、ものごとを実行する基本的枠組みとされる「計画制御」が原理的に実現不可能であることを示す。そのうえで区々たるものをむすび併せ、流れを創り出すことを目標とする方法を「やわらかな制御」と呼ぶ

    このやり方で、社会とかかわる場合、すでにそこにあるさまざまなものごとを相互に接続し、新しい流れを創り出しそこに、価値を生じさせることが目標となる。これを共生的価値創出と呼ぶ
    →従来のマーケティングが市場における「需要」にアクセスすることに対し、共生的価値創出は、共にその間にある「運動」を立ち上げるところに主眼があるわけだから、それは「暗黙知」にアクセスするわけだと思う。だから、そもそもそれは事前に記号化、言語化されているわけではない。あるとすれば「未知を希求している」という人間の根本的な欲求にアクセスしているだけだと思う

    意識に届くものがもっぱら「目的」に従って決定されるとした場合、、、、意識にすくいあげられるものは、自己や外界のマトリクスからではなく、一部だけを切り取った「弧」からのデータに限られてしまう

    世界がなんらかの安定状態にあるということは、事物の複雑な相互関係がそれなりの安定状態を達成するように、「なっている」としか言いようがない。因果だけを取り出して制御しようとすれば、ひどいことになる

    コーチの単純なコマンドは、このような操作可能な部分をとりだすことで可能となっている。システム(ボール+選手)の持つ複雑さとさらにそれに働きかけるコーチの判断、思考回路という複雑さを接合し、そこでさらに高次の操作可能性をつくりだすことで、「指導」という現象が可能となり、それを単純なコマンドで操作している。それはコーチと選手が双方向にコミュニケートする中で、ひとつの複雑なシステムが構築され、そのなかで、コーチングという現象が立ち現れるような力学が構成されることで実現される
    →つまり、そのこで新たな動きを導く行為の中に「コーチング」という「作用」が発生しているのであって、もともとある「コーチング」というメソッドを適用しているわけではない。あくまで「コーチング」というのは、結果発生するものである。

    コーチングの手法が、非線形性と自由度の高い複雑なシステムをやわらかな制御によって実現していることを忘れ、線形システムを操作しているかのように認識してしまったときに、問題が生じる。

    ぎこちなさを生む指導は、複雑な現象に対してさらなる複雑さを生み出すことのできる可能性を、線形システムを操作しているかのように解釈し、適用しようとする

    誤った動作を実現する回路を習得してしまうと、もともとの投球回路を失うことになる。このような指導を受けたにも関わらず、「自らの内なる声に耳を傾ける
    かしこい選手」のみが、元来の回路を発展させることができる

    親に愛されていないと感じたこどもは、親の求める虚像を演じる。本来の精神の動きを喪失し、ぎこちない外見だけの「正常さ」を産出するかたくなな心を創り出す。

    ★★共生的価値創出を実現するのは、ある場面において利用可能な資源を並列に検討することから始めるべきであり、目的を定めるところから始めてはならない。働きかける側と、受ける側にある資源を、並列の関係で考えることが必要になる。つまりその双方の側にあるものを、どのように接続して、新しい動きを創り出すかが問題となる。それが「ブリコラージュ」。

    ★★教える側と教えられる側に切り分けて、前者が後者になんらかのメソッドを強要するなら、後者の動きはぎこちなくなってしまうだけ。そうではなく、教える側と教えられる側がすでに持っているものをつなぎ合わせて、そこにひとつのコミュニケーションの運動を創り出し、そこから新しい動きを生み出していくのである


    すでにある現実を積極的にとらえ、そこにかかわるさまざまな要素を相互に接続することでなんらかの価値の創出をめざす上で、重要性を帯びるのは、参加する人々の相互関係の構築。

    →安富さんのいう共生的価値創出は、相互の関り合いのなかで立ち上がる運動により、結果的に発生するもの。バザール的なところでの価値の発生は、こうしたものを視野にいれている。コーチングや指導は形式のことではなく、そうした共生的価値が生まれた過程に存在したコミュニケーションの形態のことだったと思う。しかしそれがメソッド化してしまった。
    また、こうした共生的価値は互いが「無形」でないと発生しない。相互に「変形」し、手持ちのりそーるをコミュニケーションの中で組み合わせ、共に運動を立ち上げる中で、「価値」を発生させることが重要になる

    活動に参加する主体は、理念を共有し、活動をすすめていくには、主体的参加者を確保していき、個々のそれぞれの接続可能な場所で独自の立場から貢献していかねばならない。

    理念を共有する限られた人物とネットワークに集中的に接続し、資源を、、、

    参加型開発を標榜するプロジェクトのなかに、複数の種類が混在している。すなわり「参加型開発」と、「参加型ツールを使っている」だけで、「外部者による目的設定、時間設定」が維持されているタイプ(後者は、本来、参加型と呼ぶべきではない)


    ★★主導権が、住民側にあるかどうかは基準にならない。それだけでうまくいくわけではない


    参加型手法を使わない参加型の成功例。より重要なのは、外部者が計画や時間設定を押し付けず、適切な手法を用いて、住民が本来もっていたニーズやインセンティブを行動につなげる引き金が引かれ、「住民の自主性がうなく発現されたという点

    ★★主導権が引き金をひいた外部者にあるのか、住民側にあるのかという議論は意味がない。問題は、住民側の隠れたニーズやインセンティブと外部者の持つ手法などのさまざまなリソースが、「適切」に接合され、駆動しはじめたことにある。このような事態が出現したときに、「共生的価値創出」が実現されている
    →これ、でもおもしろいのは、顧客がいないと、価値も発生しないというところだと思う。


    計画制御アプローチは、責任を負う人を決めておこうとする
    →そもそもその構成員が、ネット―ワーク化されていないこと、また共に場をつくっていないからだろうな。その場の中で問題が起きれば、それはネットワークの中で対処していくべきであって、誰かの責任といった議論になるはずまどない。分裂した、計画的に制御しようという発想が、「責任」を個人に帰属させようとする妄信を生む

    責任を引き受けるとは、他の人に痛みや苦しみを与えていると認め、その痛みを感じ、自己を変革すること。そのためには、何よりもまず自分がかかわることにより、他人が感じている痛みや苦しみを感じることができなければならない

    ★自分の感覚をそのまま信じることは、それほど容易なことではない。自分が親に愛されていないと感じながら、その事実を認められず、愛されていないという不快感を自分のせいだと考えた子供は、罪悪感を抱くと共に、自分の感覚を信頼することができなくなる。その感覚を全否定して「自分の中の他人」としてしまった人は、他人の痛みを認めることができなくなる。同情や細やかな神経を投げ捨て、世間に順応することだけを考え、自分の役を上手に演じ、人から褒められようとする人は、自分の苦痛も他人の苦痛も感じなくなる。痛みを感じない人が責任をとることはありえない
    →本来、人に悪いことをしたら、身体は何かしら感じるのだけれど、「感覚する機能」が、抑圧されているために、その身体の感じていることをなかったことにするということだろうな。また、同様に他者が感じていることに対しても、自分が自分の身体に「感じていること」をなかったことにしているから、同じ原理を他者にも適用し、「他者の身体は何も感じないでいる」という風にナラティブを捏造してしまう。

    ★罪を認めるためには、自分の行為は間違っていたとしても、人格が否定されるわけではないという確信を持てなければならない。たとえ責任を引き受けたとしても、自分が人間として無価値になるのではない、とおもえて初めて人間は自分の行為の過ちを認めることができる。

    他人の痛みを感じ、自分の罪を認め、そのうえで自己を変革して初めて、責任を引き受けることができる。自己を変革することもまた容易ではない。多くの人は罪を認めたとしても、自己を変革せず、自己憐憫に浸ることで、自分が他人にした仕打ちから目をそらせる。

    真の意味での責任は、つまるところコミュニケーションにおける学習過程を作動させるということと等価である。この学習過程を停止させている限り、自己の変革はありえず、責任を引き受けることもない。人々が、自分の価値を信じ、感受性を開き、学習過程を活発に作動させているとき、そこに責任ある気範囲のっとったまっとうな社会が出現する

    計画制御と結び付けられ、あるいは固定化した規範との距離として認識される意味での「責任」は、自分に対する裏切りを助長し、ハラスメントを作動させる口実を与えるだけの無責任な概念

    孫子の中心概念は無形。目的や計画が固定化された状態を「形」と称して、これを批判し、動的な運動のなかで柔軟に対応する「無形」に理想を求めた

    形がないというのは、どういうことか。形とは意図の表出である。ゆえに自軍の形と意図とが直結せず、自軍の意図が敵に不明であれば、それは自軍が無形であるのと同じ

    敵の形に応じて、いつでも即応してこちらの形を決められる状態が無形。言い換えれば、目的や行動計画をできる限り固定せず、学習回路をより高次まで開いておき、常に状況に即応して柔軟に動くことが無形。

    どなりつけられたときに、「そうやってコントロールしようとしているわけだと指摘する」、ないしは、そのような心の動きが見にくいものであると認識し、それを軽蔑する態度を身に着ける

    他人にこちらの希望することをしてほしいのであれば、その相手の懇願し、説得し、命令する、さまざまな圧力をかけて強制するというのは効果が薄い。相手が自分でやりたくなるようにはたらきかける

    大衆がつくりだすダイナミクスに不安を感じれば、それを制御してみせるという人々を支持することになる。(少数の専門家による社会全体の制御)

    少数の理性を持つものが、社会を制御しうるという論理は間違っている。

    ★★道具も資材も自由には手に入らない状況の中で、何かしようとした場合には、手持ちの道具や素材をじっと見つめて、あれはこれに使えるのではないか、と頭を働かせる。自転車のスポークは肉を串焼きにするための串になり、タイヤは牛に車をつなぐためのバンドになる。手持ちの材料で実現できることが目指されるのであり、実現すべきもののために手持ちの材料を増すという方向はとられない

    見たところ、なんの変哲もないブリコラージュという概念はしかし、生命の知恵というものの基本的な形を表現している無限の差異を持つ世界に直面したときに、有限の生命にできることは有限の要素を組み合わせてなんとか折り合いをつけることだけだから。

    ブリコラージュによる思考の特徴は、目的を固定しなこと。すでに与えられたものから出発し、その組み合わせによってうまくできることを目的とする。目的を固定しないいので、状況の変化には対応しやすい。なぜならできなくなった目標は視界方消え去り、常に手元にある資源を利用して新しい組み合わせの可能性を探り、目標を動かしつづけることになるから。目的と手段は一つの円環を描く

    計画制御というアプローチは、まず目的を固定することから始まる。目的はいくつかの部分に分割されて、それぞれの部分目的を達成しるのに必要な手段・資源が順々に解析される。

    ブリコラージュは、計画制御に対立する動的な戦略を実現するための概念であり、「無形」の表現

    現代社会の在り方に、「無形」の思想を取り入れる方策を考える上で、、現状のマーケットを「無形」なものに置き換えることが必要

    マルクス:時がたつにつれて、労働生産物の一部分は、はじめから交換を目的として生産されなければいけなくなる

    マルクスは共同体と商品交換を対立するものとみなし、商品交換の構造化された市場と、人的紐帯の構造化された共同体とを明確な二項対立の関係においている

    ★前近代社会が共同体を基盤としており、市場がそれを破壊することで近代化が実現したという見方は事実に反すしている

    発達した市場システムをもっており、個人と土地を封鎖する小宇宙としての共同体などは観察されない

    共同体と市場が混交した状況

    中国には日本の郷村のような共同体が身らえない。近代以前から中国の村の封鎖性は弱い、どの村に誰が属しているのか、どの土地がどの村のものなのかを示す明確な区切りがない、日本のように有力な家があって祭りを仕切るということはない

    村が共同体でないとしたら、一体どこに共同体があるのか

    共同体といっても、近世日本の郷村のような強固な結合と排他性をもっているわけではなく、はるかにゆるい漠然としたものである、

    多くは、交換のための交渉や現金の支払いという利己的行為は、人間関係を不安定化させるものだというが、しかしスキナーは、市場町という交換が主として行われる場所から中心として共同体が形成されると主張する

    バザールにおいては、敵対的であるはじの交換をめぐる交渉のなかで、共同性を生み出すような人間関係がうまれ、それが全体としてある種の秩序を創り出す

    人々が相互に取り結ぶ関係の入り組んだ構造物の上で、情報と物資のやりとりが行われる

    物質的な流れと社会的関係は相互促進的に接合されている。ある特定の社会関係は、材の所与の運動を強制するが、ある特定のやり取りは、同じように、ある適当な社会的関係を示唆する。仲良しが贈与につながり、贈与が仲良しを生む

    もし贈与が人と人との関係をつくりだし、それが共同体を形成する基礎となるなら、、、

    市場で展開される高官は、人間関係から自由なその場限りのやりとりであるはずだが、そうではない。市場交換は非人格性を促進するような力を持つ。

    無償労働給与は、労働の贈与であり、有償労働給与は、労働を現金の交換。この村勢は両者が矛盾せず、並存する。

    ある人が家を建てるとき、同じ村のなかのBは無償で労働を提供し、Cは賃金をもらって労働するということが起きる。場合によると、労働を提供した20日のうち、10日は無償で、10日は有償というような場合も

    ある人が、どこかの家族の家屋を建築する場合、有償で労働を提供したとすると、その人がもらった賃金んなどは克明に噂される。一方、密接なやり取りの中で行われた場合は、そこでの金銭のやり取りの内容は噂の対象にならない。

    靴を村の中ではいて歩いていると、頻繁に値段を聞かれるが、それに値段を返事せず、「密接な関係だから」というと、それ以上詮索されることはない

    労働提供者は、双方の関係の濃淡を考慮して、どのような労働の提供様式がふさわしいか、無償か有償化それらとの中間を判断する、そして具体的に労働が提供されると、その結果が両者の関係の濃淡に書き込まれる

    噂は、関係の濃淡と労働提供方式をつなぐ変換係数を乗じ調節しておくための役割となる。

    一方から一方への無償労働給与が、それが関係への書き込みという機能を果たした段階で作業を終えるということ。つまり、受け取った側が「負い目」とすることはない。しかし、仮に関係は悪くなった場合、「その時は負い目が発生し」、相応の市場的な債務関係(負債の返還)が生じる


    贈与をうけた側が、負い目を感じ、それを払しょくするために返礼するわけではない

    無償労働と、有償を戦略的に切り替えて行動し、また共同体的行動と市場的行動を相互作用させている

    共同性と市場性の連続性

    ★サービスへの受容と供給の差が価格を変動させ、価格が需要と供給を変動させるという市場の概念は、交換の過程からコミュニケーションを排除する。コミュニケーションは共同体にあり、市場にはそういうものとは無関係に存在すると観念する

    ★★物資と情報、人間関係が入り乱れて飛び交うバザールでは、経済的交換もコミュニケーションの一部として行われている

    企業の目的は、マーケティングとイノベーション。

    ★マーケティングはマーケットの需要を調べることではない。どこでどんな人が、自分の会社の商品を購入しているかを調べ、どういう風にすればさらにそういう人々の心をつかむことができるかを工夫すること

    顧客を創造するには、欲求をしらねばならない。そのためには、さまざまな方法で顧客とコミュニケートが必要。需要を見つけ出してそれに応えると、やがてその需要が消えてしまう。コンテキストへの働きかけが不可欠。この働きかけがイノベーション。

    人々はそれぞれの場面で相互作用の中で、事に当たることにこそ、顧客とのコンテクスト作りに必要な情報の源がある

    ★★情報の意味は初めからあるのでなく、コミュニケーションにかかわる両者が互いに自分の主観的判断に基づいて相手の情報を解釈し合うというプロセスの中でしだいに形作られる。情報の個人的要素、主観的側面を重視する

    企業活動の本質は、コンテクスト作り。これからの経済の中心は、手はずを整える、面倒を見る、励ます、世話をする、立ち上げる、育成することであると指摘する。市場はこうしたコンテクストの作り出すネットワークの働きにより、動的な調整の過程として成立する

    市場は現代資本制社会においてすら人と人とが関係構築と情報収集にいそしみ、激しいおしゃべりの喧騒のなかでやりとりが繰り広げられるバザール

    世界はますますバザール化している。インド系、中国系の人々は、先進諸国に育った人に比べて、制度や共同体に依存することなく、独自のネットワーク資源を活用してリスクを回避しながら生きている。

    中国は、市場的なものと、共同体的なものを混在させた個人主義的色彩の強い社会を基盤とし、

    企業の目的は、顧客とのコミュニケーション形成であり、経済はその制約要因にすぎない。

    非経済的誘引によるコミュニケーション活性の向上を図る努力を惜しんではならない。経済の基準をできるだけ早くマーケット化し、バーザール化させる必要がある。経済的交換を社会的交換と密接に編み上げていかねばならない。

    ★市場/共同体のような幻想の対立枠組みに依拠して思考してはならない。近代個人主義が村落共同体を破壊したのではない。ユーラシア大陸を広く眺めるなら、近代以前から村落共同体など存在しない社会の方が普通である。家族が崩壊したのも近代的個人主義のせいではない。生産活動が職場に移行し、家庭が消費の場に限定されてしまえば家庭は当然崩壊する。家庭の崩壊は産業革命とともにはじまったのであり、第二次世界大戦後にはじまったのではない。中国のような市場性の高い場所では、家庭こそが最も頼りになる関係でありそのつながりは強固

    ★市場だけが人間を疎外するのではない。共同体も、家族も人間を疎外する。問題は、紐帯があるかないかではない。人々が相互に学習回路を開いた形でコミュニケーションを形成できるかどうかである。高度成長期に人々が村を抜け出して、都市に集まったのは、共同体や家族の紐帯が引き起こす深刻な人間疎外に耐えられなかったからである

    人々を苦しめ、社会を崩壊させるのは学習過程の停止である。自分の感覚を裏切り、他者の心の動きに対する感覚を失った人間は、他者を支配しようとしてハラスメントを行う。われわれが立ち向かわなければならないのは、市場でも個人主義でもなく、このハラスメントの悪魔である。

    無償労働提供が、それが関係への書き込みという機能を果たした段階で作動を終える。つまりそれを負い目とすることはない。

    贈与の主たる機能は、人間関係という長期的な層への書き込み操作であるとすれば、その関係形成の結果、相手方に贈与をすべき状況が生じたので、贈与を行うと解釈しなければならない。負い目はあくまでも短期の層の概念。負い目を感じるなら、それは贈与ではなく、債権債務関係の形式

    中国、インド、イスラムでは近代ヨーロッパの影響以前から発達した市場システムを有し、個人と土地を封鎖する小宇宙としてのきょうどうたいは観察されない


    中国には明確な共同体がない、どの村に誰が属しているかどの土地がどの村のものか明確な区切りがない

    近代以前の中国の村の封鎖性は弱い


    交換の場のバザールで、関係形成の円環が見られれ。敵対的なはずの交換、交渉と、共同体を構成する贈与のための行為が相互促進関係をもっている

  • ベイトソンあたりから始まって中国やインドの市場まで。ついていくのは結構大変。
    学習の停止(の強制)とハラスメントとダブルバインド。
    138p 本来やらねばならない職務とはコミュニケーションのコンテクストを創り出し新しコミュニケーションの連鎖を創り出す。自分で筋の通った判断を下せるようにする。143責任を引き受けるとは、他の人に痛みや苦しみを与えていると認め、その痛みを感じ自己を変革すること。164リデルハートの格率。208バザール化への対応。バザール化して、ネットワーク資源を活用してリスクを回避し生きる技術。非経済的誘因によるコミュニケーション活性の向上を図る努力を惜しんではならない。その道義性。紐帯の有無ではない。紐帯の引き起こす深刻な人間疎外。学習過程の停止。自分の感覚への裏切り、他社の心の動きに対する感覚の喪失、他者の支配、ハラスメントという連鎖。その対応としての学習過程を開いた形でのコミュニケーションの形成。

  • 複雑さを生きる 安冨歩 岩波書店

    すなわちこれはシナヤカに生きろという助言なのだろう
    しかし皮肉なもので「はじめに」を読み出して
    この文そのものが複雑すぎると感じたことだ
    例えば IXページの「ここでは世界の複雑さを前提とした場合には〜」と主語を重ね
    次のフレーズでは「この概念の示すひとつの帰結は、組織の運営において分掌と責任を明確にし、
    その動きを監視し統御するという方法は、ハラスメントを蔓延させ、組織の運動を劣化させる、ということである。近年も、〜」と続くが
    ここでも主語を重ねて句読点を多用することで、読みては文章そのものを整理しながら読まなければならないのである
    とても不親切な文章だと言える
    多分思考の過程を咀嚼せずに羅列したものなのだろう
    勿論読み解いていけば私なりに汲み取れているつもりだけれど、何かとも間尺に合わない
    世の中はおかしなもので、この難しそうに迷走した文章に酔いしれる人も多いのだろう
    ありがたがって読みたいならば、もっと別の内容の本を選ぶべきだと思う
    という事も合って出鼻をくじかれたおかげで、
    一息入れて本文を読み始めることができた

    本文は知らない歴史の紹介もあって結構面白いが
    複雑というよりもむしろ
    法律書のようでまどろっこしくて読みづらいのも確かだ

  • [ 内容 ]
    人間関係、ハラスメント、組織の運営からテロリズム、環境破壊まで、現代の諸問題を複雑系科学の立場から読み解き、しなやかに生きる術を明らかにする。

    [ 目次 ]
    第1章 知るということ(ちがいと情報のちがい;暗黙に知ること ほか)
    第2章 関係のダイナミクス(コミュニケーション;ハラスメント ほか)
    第3章 やわらかな制御(計画制御の困難;やわらかさの実現 ほか)
    第4章 動的な戦略(無形―孫子の兵法;第一次世界大戦の衝撃 ほか)
    第5章 やわらかな市場(「市場/共同体」という幻想の対立;共同体と市場の混合 ほか)

    [ POP ]


    [ おすすめ度 ]

    ☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
    ☆☆☆☆☆☆☆ 文章
    ☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
    ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
    ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
    ☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
    共感度(空振り三振・一部・参った!)
    読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)

    [ 関連図書 ]


    [ 参考となる書評 ]

  • とても深い。何度も読み返したい本。

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著者プロフィール

東京大学東洋文化研究所教授。1963年、大阪府生まれ。
著書『「満洲国」の金融』『貨幣の複雑性』(以上、創文社)、『複雑さを生きる』(岩波書店)、『ハラスメントは連鎖する』(共著、光文社新書)、『生きるための経済学』(NHKブックス)、『経済学の船出』(NTT出版)、『原発危機と「東大話法」』(明石書店)、『生きる技法』『合理的な神秘主義』(以上、青灯社)、『生きるための論語』(ちくま新書)、『満洲暴走 隠された構造』(角川新書)ほか

「2021年 『生きるための日本史』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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