ヒューマニティーズ 歴史学

著者 :
  • 岩波書店
3.71
  • (4)
  • (4)
  • (9)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 99
感想 : 8
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (141ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000283229

作品紹介・あらすじ

情報化、グローバル化が加速するメディア社会。公議輿論の足場として、歴史的教養の重要性はますます高まっている。しかし、こうした現実の課題に対して、「大きな物語」が失われたあと、これまでの歴史学は充分に応えてきただろうか。公共性の歴史学という視点から、理性的な討議を可能にする枠組みとして二一世紀歴史学を展望する。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • ST17a

  • 著者自身認める通りタイトル詐欺感はぬぐいきれないが、歴史学をきっかけにしながらメディア史研究にのめりこんでいく様子を、著者自身が自著を紹介しながら語っていくスタイルの本で、個人的にとても良い読後感が得られた。(著者の本をよんだことがあり割と好きだというのもあるが・・・)。タイトル詐欺なので星4つです。
    歴史学は「ここまでわかった」「これより先は分からない」と明言することが大事。ということから、歴史学の史料批判を情報リテラシーにつなげていく。歴史学に向かうものにひちようなのは不全感に堪えながら一歩づつ進もうという姿勢である。ランケ「それが本来如何にあったか」を追求する。そのなかでゼミナールという形式が大学で誕生し、それこそが歴史学のすすみかたである。フンボルトに継承される。言語論的転回をうけて、史料実証主義への批判は高まったが、結果としてテクストの揺らぎを自覚したうえでの史料実証主義がやはり大事だと議論される。p16あたり。この辺の議論は重要であるが説明がわかりづらい感がある。
    ブントをうけて「それは本来どのように成ったか」いいかえれば「それは本来どのように作用したか」を念頭に置いているという。

  • メディア史の泰斗、佐藤氏が自身がいかにして歴史家になったかを振り返っている。
    教訓的なジャーナリズム史から実証的なマスコミュニケーション史、そして批判的歴史学のメディア史へ。未来への問いを含むメディア史は歴史学のフロンティアであり、そこに可能性を感じるとも。
    氏の研究遍歴が豊富なエピソードとともに語られている。大学でのゼミナールの大切さ、師を見つけること、そしてその読書量に追いつこうと努力すること。氏の基本姿勢が語られている。
    事実誤認を発見してくれた古川隆久氏や優れた自分史を書いた原武史氏への言及もあり、個人的に興味深い。

  • 歴史学というタイトルだが、歴史学とは何かについて一般的に解説した本ではない。どちらかと言えば著者自身の研究歴だろうか。歴史研究を手がけてきた中で、どのような問題意識を持ち、何を読み、どう考えてきたかを語っている。著者も書くように、本書は主に大学で歴史を研究している、あるいは研究しようとしている学生に向けて書かれた本であり、「次の世代にバトンをタッチする」(p.ix)ものだ。

    というわけで歴史研究を志していない読者からすると、著者の研究裏話のような話を読んだり、あるいは各著書のなかでは書ききれなかった、より視野の広い見解を読むことになる。特に著者はメディア学、メディア史を扱っていて、この分野は「新しい歴史学」(p.101)、「歴史学のフロンティア」(p.108)であるため、その問題意識や成立背景へのエクスキューズが聞かれる。端的には次のような記述がある。
    「[...]歴史学の社会的使命の一つは、事実関係の整合性を検証することで他者とのコミュニケーションが成立する環境をつくることである。こうした理性的な討議の空間を生み出す公共性の歴史学を、私はメディア史と呼ぶ。それは単に新聞、雑誌、放送などの歩みを記述する歴史学ではない。事実を論ずる枠組みの構築を目指すメタヒストリーである。」(p.100)

    メディア史の成立とマルクス主義唯物史観との関わり(p.103-108)がやや意外だった。メディアが書籍、雑誌、新聞、ラジオ、テレビ、インターネットと発展してきた経緯が、ちょうどマルクス主義の史的唯物論の発展形態と親和的なのだという。確かにヨーロッパのメディア論者たちはマルクス主義的背景を持つ人が多い気もする。「唯物史観からメディア論に乗り換えた研究者は少なくない」(p.103)そうだ。

    現在のメディア概念は第一次世界大戦期のアメリカで成立した(p.113)が、このメディアというものが基本的に情報操作に関わっていることが指摘される。ちょうど、「情報information」という軍事用語が普及していったように。したがってメディアは宣伝、プロパガンダなのである。それはマス・コミュニケーションと言い換えられていても変わらない。だからマスコミがヤラセをやるのは、その本性からして当たり前である。
    「現在、私たちの多くが意図的に、あるいは無意識的にも忘却しているが、マス・コミュニケーションとは戦争プロパガンダをロンダリングしたものである。[...]たとえば、マスコミ批判でよく問題になる「ヤラセ」である。事実関係のシナリオを準備しておきながらそれを隠して、作為のない事実そのままであるかのうように見せる手法である。しかし、「マス・コミュニケーション」が「プロパガンダ」の言い換えだと考えれば、そもそもヤラセは例外的なものではなく、マス・コミュニケーションに本来つきものなのである。「マス・コミュニケーション=プロパガンダ」の概念史は、私たちを取り巻くメディア環境を批判的に分析する視座を提供してくれるだろう。」(p.115f)

    また、日本人が日本において日本語でドイツ史を研究することの意味がどこにあるのか、その社会的効用はなにかという問いについて、日本のネオナチ文化、ナチ表象を巡って書いてること(p.70-76)が納得できる。日本のナチ表象を収集して分かるのは、ヒトラーが比較を絶した絶対悪の象徴となっていることだ。そしてナチスが絶対的な悪の政治の基準として機能している。これは、神を絶対的な善として、それとの距離で人間を判断したものの裏返しだ。ニーチェは神の死で絶対的な善の基準としての神を否定したが、その後に来たものは絶対的な悪の基準としてのヒトラーである。しかしナチス的要素は特別なものでもないし、絶対的なものでもない。それを絶対的悪に位置づけることは、我々のなかにあるそうした要素について軽視してしまうことにつながる。ナチスは絶対的に否定される「べきものである」というこの「べき論」、規律=訓練(discipline)の語法こそそもそもナチス的語法であって、「ファシズムの話法でないファシズムの叙述が今こそ必要なのである。さらに言えば、自らがファシストになる可能性に目を閉ざさないファシズム研究の必要性である」(p.74)。これは日本の太平洋戦争を巡る言説にも言えることだろう。

    ちなみに著者はその中学生時代、『史記』や『漢書』などを含む平凡社の『中国古典文学大系』全60巻に夢中になり、そればかり読んでいて学校の勉強などほとんど手につかなかったという(p.128)。こういう研究者になる人は昔からそうなのだな、という感銘を受ける。

  • 現・京都大学大学院教育学研究科准教授(メディア史)の佐藤卓己による自らの研究遍歴紹介

    【構成】
    1.歴史学ゼミナールの誕生 -歴史学はどのように生まれたのか
    2.接岸レンズを替えて見る -歴史学を学ぶ意味とは何か
    3.歴史学の公共性 -歴史学は社会の役に立つのか
    4.メディア史が抱え込む未来 -歴史学の未来はどうなるのか
    5.歴史学を学ぶために何を読むべきか

    『現代メディア史』『言論統制』『8月15日の神話』『輿論と世論』などのメディア史研究で知られる佐藤卓己が大学の学部時代から現在に至るまでの自らの研究遍歴を通して、歴史学のあり方を論じようとするものである。

    著者は京都大学文学部西洋史学研究室において、ランケ以来の実証主義歴史学の伝統であるゼミナール形式で「批判」「精密性」「透徹性」を確保するための方法論を学び、1910年代のドイツ社会民主党の宣伝活動を中心とした修士論文を書く際に、ハバーマスの影響を受けてメディア史へ関心を移していった。
    その際、大衆の『国民化』や大衆公共性、社会主義を手本としたナチの「宣伝」といったキーワードを用いながら、ナチス時代を連続する現代ドイツ史の中に位置づけようとした。

    著者は、「高度情報化社会」「メディア社会」と表現される現代の歴史はメディア史であると見なし、メディアによる宣伝効果、情報の受け手である大衆の反応などを明らかにすることが、既存の歴史学の枠組みをメタ化することになり、歴史研究者自身の位置拘束性(ポジショナリティ)を批判的に検証することも可能となったという。

    個人的にはメディア史=現代史だとは全く思わないし、論文も含め佐藤氏の著作はいくつか読んだことがあるが、氏の研究手法が既存のものと大きく異なると感じたことはない(内容は大変面白いとは思うが)。「歴史学」のガイドブックとしては、内容に偏りがありすぎるように思う。

  • [ 内容 ]
    情報化、グローバル化が加速するメディア社会。
    公議輿論の足場として、歴史的教養の重要性はますます高まっている。
    しかし、こうした現実の課題に対して、「大きな物語」が失われたあと、これまでの歴史学は充分に応えてきただろうか。
    公共性の歴史学という視点から、理性的な討議を可能にする枠組みとして二一世紀歴史学を展望する。

    [ 目次 ]
    1 歴史学ゼミナールの誕生―歴史学はどのように生れたのか(教訓的歴史から歴史研究へ;大学の歴史学 ほか)
    2 接眼レンズを替えて見る―歴史学を学ぶ意味とは何か(社会史が輝いていた頃;世界システムとメディア史 ほか)
    3 歴史学の公共性―歴史学は社会の役に立つのか(趣味の歴史と大衆の趣味;国民大衆雑誌の公共性 ほか)
    4 メディア史が抱え込む未来―歴史学の未来はどうなるのか(メディア史の発展段階論;進歩史観と情報様式 ほか)
    5 歴史学を学ぶために何を読むべきか(「読む歴史」のために;「書く歴史」のために)

    [ POP ]


    [ おすすめ度 ]

    ☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
    ☆☆☆☆☆☆☆ 文章
    ☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
    ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
    ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
    ☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
    共感度(空振り三振・一部・参った!)
    読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)

    [ 関連図書 ]


    [ 参考となる書評 ]

  • 岩波のHPによれば、この「ヒューマニティーズ」というこのシリーズは「現在の人文学的知は,グローバル化のもとでの制度的な変動とも結びつきながら,新たな局面をむかえつつある.学問の断片化,細分化,実用主義へのシフトなど,人文学をとりまく危機的状況のなかで,新たなグランド・セオリーをどのように立ち上げるのか.その学問のエッセンスと可能性を,気鋭の著者陣が平易に語る」とのことである。

    そこで、この『歴史学』という本がどのような「グランド・セオリー」を見通しているか。

    「現代社会が「メディア社会」であるとすれば、メディア史こそ現代史なのである。私はメディア史を歴史学のフロンティアだと考えている」(p108)

    このあたりに、「メディア史」のプロパーとしての矜持が感じられる。

    それから、「歴史学は社会の役に立つのか」という問いを立てて、次のように答えている。

    「歴史学の社会的使命の一つは、事実関係の整合性を検証することで他者とのコミュニケーションが成立する環境をつくることである。こうした理性的な討議の空間を生み出す公共性の歴史学を、私はメディア史と呼ぶ。それは単に、新聞、雑誌、放送などの歩みを記述する歴史学ではない。事実を論ずる枠組みの構築を目指すメタヒストリーである」(p100)

    「理性的な討議の空間を生み出す公共性の歴史学」=「メディア史」はちょっと言いすぎなんじゃないだろうか…。たとえば古代や中世の歴史も「メディア史」ということになるんだろうか。基本的にこの本は近現代を対象とした歴史学が大半取り上げられているが、それだと前近代史の立場はいったいどうなるんだろうか、とちょっとひっかかるのである。

    佐藤は「本書では「戦後史学」入門のキーターム、講座派、大塚史学などについてはあえて触れない」「ポストモダンの影響も受けていた一九八〇年代の学生にとって、「近代」を人間的に高い価値として仰ぎ見る思考に共感することはなかった」(pⅷ)という立場を取る。そういう「戦後史学」の洗礼を受けていない学者が、「歴史学」について自己の遍歴を中心に語るというのは、「戦後史学」を相対化するという意味で、有意義と言えるのかもしれない。

全8件中 1 - 8件を表示

著者プロフィール

佐藤卓己(さとう・たくみ):1960年生まれ。京都大学大学院教育学研究科教授。

「2023年 『ナショナリズムとセクシュアリティ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

佐藤卓己の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
ヘミングウェイ
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×