いのちの場所 (シリーズ ここで生きる)

著者 :
  • 岩波書店
4.06
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本棚登録 : 106
感想 : 10
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  • Amazon.co.jp ・本 (200ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000287302

作品紹介・あらすじ

自分のいのちは自分だけのものだと考えると苦しくなる。死んだらすべてがなくなってしまうのか。なぜこの世には不平等な生があるのか-。著者は山深い森の生活から生まれた思考と、西洋哲学・仏教思想とを往還しながら、いのちのありかを探す旅に出る。そして、自分のいのちは自分だけのものではなく、他者や自然や、思いを寄せる人びとと共有しているものなのだと諒解していく。深く静かな思索。

感想・レビュー・書評

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  • 生者と死者、地域の自然が一体となった関係の中にいのちが存在するという上野村の死生観を紹介し、現代の個人主義的「いのち」観を批判するという内容。

    著者は死んだら終わりの現代の個人主義的「いのち」においては、自分以外のいのちは自分を満足させるためのものでしかなく、利他的行動は全て自己愛だということを言い出す(言いすぎだと思う)。共同体的「いのち」では共同体の継続が非常に重要で、共同体の中で暮らすことが自然と村民の生きる意味となり、自分と他の「いのち」の関係を尊ぶということなのだが、それも裏を返せば共同体の存続に有害なものは排斥されるのだということになってしまうのでは。共同体のような狭い閉じた人間関係は逃げ場がないから、それなりの毒を生みはぐくむものだし、エゴの部分はどうしたって出てくると思う。

    「いのち」観は共同幻想(社会的現実?)であるというのも同意するし、「知性の彼方にあるもの、合理的にはとらえられないものは、『そう思う』『そう感じる』ということ抜きには語りえないのである。それはもっとはっきりした言い方をすれば、『そう信じる』ということにつながる」という箇所は好き(私はそれを非常に肯定的にとらえているのは違うけど)。
    祖先から続く生者と死者の縦軸、共同体の横軸の関係の中にのみ「いのち」がある、という主張は頷けるものなんだけど、論が雑に感じたりあまりに個人主義を攻撃するので手放しには賛同できない感じ。

    西洋ーキリスト教ー個人主義・孤独な「いのち」という論の組み立てをしているけど、序盤で触れているショーペンハウアーみたいに自己と他を峻別し、魂をとらえようとする姿勢ってキリスト教というよりはプラトニズムで西洋哲学の伝統では?と思う(これはほぼ他の本の受け売り)。もちろんそれがキリスト教にも反映されてはいるけど、キリスト教はどちらかと言えば関係の断絶ではなくて、聖書で「永遠のいのち」と表現されるような神と人の大きな縦軸の関係性、「ヘブライ人への手紙」で言われるように信者の「共同体」の横の関係あってのものではないか。「いのち」が孤独に堕ちていったのは死生観からその関係が引きはがされたためであって、その辺りをキリスト教は個人救済だから~と雑にするのは納得いかない。さらにユダヤ教も個人救済で個人主義の源泉というのもあまりに無理がないだろうか。そのレベルで言えば仏教だって個人救済で個人主義ということになるだろう。
    「近代の思想は宗教を社会思想から外した。それはきわめて妥当なことだった」というのは、どうしてなのか。著者の好きな共同体的死生観って、かなり宗教に支えられていたと思うけど。だからこそ政治にも不可分に関わっていくわけだし。結局日本ー仏教ー共同体の「いのち」観という著者の設定したラインの擁護ありきという風に読めてしまう。本文中に和辻哲郎を引いていたが、著者も悪い意味で和辻哲郎っぽいところがある。

    著者は上野村の共同体にこだわっているが、私たちはもはや自然や死者や共同体の関係から引きはがされた「いのち」観の現代に生きているのだから、自分で関係性を生み出し、座標を取らなければならない。人類にそれに耐えうる強さがないから、孤独だとか居場所のないという「いのち」観にとどまっているのが現状なのだろうけど。自分で座標を打てるのは現代の良い所ではあるから、著者が言うほど個人主義も絶望的には思わないが、家族とか友人という本書で触れられているようなものでは誰もが確かな関係性を得られないのも事実。結局もう共同の幻想はなく、戻ることもできず、どこまでも個人、どこまでも自分…でやっていくものなのだろう。

  • 2016.3.2
    まず、本書の問いそのものが、目から鱗というか、内省させられるものだった。いのちとは何か、なんていう問いを持ったことが私はなかったからである。さも当たり前のように、いのちとは私のものであり、この体に宿るものだと思っていた。本書でいうなら、いのちのピラミッドを個々人が持つという近代的西洋社会の一員だったわけだ。しかし著者は、いのちとは関係の中にあるという。「私の存在は私とともにある関係の総和である」という。これは自我や価値観についても言える定義だとは思う。しかしいのちもまた、このように捉えられるものなのか。時空的な関係を持てば持つほど、自らにとっていのちはかけがえのないものになっていき、生きているという実感を持てるようになっていくのだろうか。確かに事実、我々は様々な関係の中で存在している。食べ物も空気も、友も家族も、社会も国家も、我々の周りには存在している。しかしそのような客観的存在ではなく、よりその関係を実感することを、近代は奪ってきた。そうして私たちは自由の代償に孤独と、存在の軽さを手に入れたわけである。しかしだとすれば、いかにすればその関係を取り戻すことができるかということだ。関係とは客観的なものではなく主観的なものである。そしてそれは確信とか了解とか言えるもので、理解すれば関係が生まれるわけではないし、その関係への実感には程度によるグラデーションもある。こう考えると、関係とは確信である、ということもできるのではないか。では日々生きている中で、どうすれば自らにつながるものに対する確信を得ていくことができるのだろうか。つながりが、関係が人間の幸福にとって大切なことは、アドラーのいう共同体感覚や、マズローの社会的自己実現欲求、エリクソンの発達段階など、心理学の巨匠は口を揃えて言っていることだ。関係の実感とは言い換えれば居場所感覚ということもできるだろう。それは、あなたがいなければ私は存在できないという感覚と同時に、私の存在があなたのためになっているという感覚でもあるだろう。支え支えられ、という感覚が、関係の確信のためには必要なのではないか。ただ眺めるだけの自然との関係と、植え育てる農業における自然との関係の違いの間にはこのような構造的違いがあるように思われる。しかし現代は、このような関係の構造を切り離してしまった。便利さが横行し、資本主義が闊歩し、金を払えばサービスを受けられる社会になった。支え合わなくても金さえあれば生きていける個人の時代になった。そこに現代の関係の希薄化の原因があり、現代の個人の苦しみの原因があるのではないだろうか。しかしこれは、だからといって個人が努力して関係を生み出していけるような問題でもない。個人個人の社会は辛いから、今日から俺は関係を作っていくぞ!とはならない。切り離されるような、個人化を進めるような、そんな社会的引力というものが存在している気がする。その意味でも、我々の生きることの虚無感や孤独感は、社会の構造の問題なのだ。著者も述べる通り、いのちというのは何か、という問いに対する絶対の答えなんて存在せず、それは理解の世界でなく了解の世界で求められるものだ、つまり科学では答えられない。故に様々ないのち観があっていい。正しいも間違いもない、言わば個々人の価値観の違い、文化の違いである。問題は正しいか否かではなく、それが人間の生にとって幸せか否かである。そう考えるならやはり、現代の個人のいのち観よりも、前近代的なつながりのいのち観の方が確かに人間の幸福にはあっている気がするし、よく発展途上国で幸せランキング1位の国みたいな紹介のされ方をするけど、やっぱりあれもそういうことなのだろう。私自身アフリカに滞在していた時の、物的豊かさと精神的豊かの違いを垣間見たが、その1つの答えとしても本書は説得力を感じるものだった。しかしそのいのち観というものは我々個々人が選んだものではなく社会の圧力によって勝手に無自覚的に選ばされたものであるというところが要点で、つまり我々がこの社会で幸福に生きていくにはこの社会を変えるなりなんなりしないといけないということである。なぜなら了解とは関係の実感によって得られるものであり、理性的選択ではなく経験的学習であり、この社会で生きる上はこの社会から得られる経験しかできないからである。だからといって私には繋がりの生は無理っつって諦めることはまた違うが、自分の居場所感覚というものが自らの幸福にどれだけの充足感を与えてくれるかはある程度自明のことにも思われるし、これからもそのような関係の生を目指していきたい。しかし一方、その関係の中で自らのいのちの優位性がなくなることがあるのかは疑問である。私は友達も家族もいるが、それらとの関係も持つが、しかしやはり私にとっては私のいのちが頂点である。関係の網の目の中で生きる私におけるいのちの平等性は、もう少し考えたいところだ。視点としては非常に参考になり、生きることを改めて考えさせられる一冊だった。しかし文章がやや冗長的な気がして、読みにくかった。

  • (「はじめに」の部分で印象に残った箇所)
    他者との関係を意識することの中に、私の「いのち」は存在している。また、人によってはその人が持っている信仰が、つまり、その信仰との関係が死の人の「いのち」を存在させることになったかもしれない。自然との関係や思い描く他者との関係、ときに神や仏との関係がその人の「いのち」を支え、「いのち」を与えたのである。「いのち」は自然や神仏を含む他者との関係の中に存在していた。

    上野村に暮らす人々は、自分たちの命が自然、その村の共同体、その村の生業、先祖、伝統との関係のなかで存在している。そこに暮らす人々はその共同体によって自分の命の置き所や生き方死生観を諒解する。その人たちにとっては、その場所と共同体の中で生きることが、絶対的に一番よく、満足できるところである。生きることの価値は、その共同体が教えていた。そして、ありふれた普通の一生を成し遂げることが重大であった。その共同体の生き方をまもってこそ、村の人々は生を納得し、死を諒解した。

    シュティルナーやヴァイとリングがみていたものは、人間のいしきは思考は決して自由なものではないということだった。資本主義や共産主義などの様々な社会的な思想やそのそのとき思想の傾向に依拠して、物事をとらえている。しかし、自分では自分で自由にものを考えていると思っている。この錯覚が社会を支えている。
    同じことが「いのち」に対しても言える。誰もが「いのち」とは何かをわかっていると思っているが、実際にはその時代、その社会が概念を提供し、その概念を受け入れているだけだったりする。

    そして、生の意味、死の意味も論証できることではないし論理的に説明できることではないが、その共同体の中に居たり、共同体が教えてくれたりすることで、共同体の内部にいるとそう思えてくる、ということを超えないのである。これも信じるという行為のなかで生きていることになる。

    柳田國男によると、伝統社会では、生と死は親しい関係にあったと述べている。その親しさは、先祖=祖先を祀るという行為を通してくる。祀るからこそ、その祖先はこの世界に戻ってくる。ときに、子孫たちを見守っている。すなわち祀るという行為が生者の世界をつないでいる。
    祀るという行為によって、死者ち生者をつないでいる。仏壇や神棚にお茶た食べ物を置いたり、声をかけたるすることも、祀る行為である。死者は消えてしまった人ではなく、関係の中に存在している。このような習慣が今も続いているということの中に、伝統社会から受け継いできたものが、今も精神の古層にも凝っていることが示されている。
    つながりを成立させているものが、祀るという行為である、それは共同体が定着させた。人々の思い、願い、祈りが生み出したものである。いわば願いをとして人々は生者の世界と死者の世界を親しいものにしてきた。

    「おのずから」の世界
    ミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」
    人間の命は誰かや何かに管理できるくらいに軽いものとして人間を扱う社会がある。

  • 簡単な言葉で書かれているし、それほど分厚い本ではないのに、読み進みません。
    内山さんの言いたいことを本当には分かってないんだろうなという気がしました。

  • 以下引用

    直接的には会うことが出来なかったとしても、他者との関係を意識することのなかに、「いのち」はある

    「いのち」を成立させる場があって、いのちは成立している。

    いのちは自分自身のなかにあるという思い込み

    カントが、物自体という言葉で呼んだ本物の姿はとらえられない

    人間は自分たちが認識している死しかとらえることができない

    人間の奥底にはつかむことのできあい意志がある。

    知性で理解された生への衝動を実現しようとすると虚無感が生じる

    存在の自己了解を与えていたものは、単なる自然ではなかった。自然との関わりをとおして生み出されてきた村の暮らしが、彼に自己了解を与えて来た

    死者という過去は、過ぎ去った過去ではなく、現在と結んでいる過去

    この自然的人間になることが、仏教的には悟り。

  • 「いのち」「死」「生き方」を共同体から説く。近代以降になると自分を包む世界がなくなり「裸の個人」になり、家族しか自分をつつむものがない。そこで家族が壊れると本当の「裸の個人」になる。それは自然・祖先・仲間との「時空」のつながりのあった日本の魚山村の共同体と対極の世界である。共同体では、自分は自然と祖先と仲間に包まれており、安心して死を迎えることができる。▼「いのち」を現代は個的なものとしてとらえている。しかし「いのち」は関りとの関係の中で、「場」のなかで了解されてゆくものだ、と説く。▼考えさせてくれる本だが、自由・平等・博愛が昔に比べて身近なものになった現代の側面も評価するべきだと思った。

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784000287302

  • 3.11に絡んで今月読んでみようと思った1冊。哲学書なのでけっこう難しかったぞ!

    タイトルが示すように、「いのち」というのはどこに存るのか?という考察。脳だ心臓だということではなく、その存在意義とでもいおうか、「いのち」のあり方を語っている。そしてその“場所”を考えることで、現代を読み解こうというのが本書の目論見か。 “「いのち」の考察は、私たちが生きている世界の探究である。”と著者は締めくくる。

    「いのち」というのは“個”としては存在しないというが本書の主張であろう。“私たちは他者との関係のなかに、自分の生きる場を、「いのち」が存在する場を成立させている”と仮定して、その関係性を、空間的な横軸だけでなく、現在過去未来を含めた時間の縦軸でも考える必要があると。従って、「いのち」は“普遍的な原理でとらえられるべきものではな”いと言い、“社会的、文化的文脈のなかでとらえられるべきもの”とする。

    となると「いのち」を、“個”として捉えるヨーロッパ的思考と言うかキリスト教的あるいは科学的に、近代から現代における“社会的、文化的文脈のなかでとらえる”とすれば、著者が現代の戦争を根底から支えている心情“という、自己の「いのち」が最上であり、大切なのは自己の「いのち」で、そこに危害を加えるものは処罰してよいという発想(「いのち」に差異を求める発想)も、今を生きる我々にはありなのではなかろうか?
    いくら理想を述べられても、今、自らの「いのち」に危害が及ぶなら、共同体の中にあっての「いのち」だなんて悠長な考えは持たない。いや持てない。現在という文脈においては正しいはずだ。普通に生物として考えても、自己防衛本能として自らの「いのち」は守ると思うのだが、その発想すら、現代的な思想に侵されているというのだろうか?

    「いのち」のやり取りの話になると、いつも必ず思い出すのがリチャード・バックの「イリュージョン」だ。主人公がドンが仕掛けた吸血鬼に襲わる場面で、ドンは主人公に「どんな場合でも俺たちは選ぶことができるんだ、他人を傷つけるってことも選択肢の中に入っている」と諭す。他人を傷付けて良いという話でなく、我々には“選択”が残されているということ。そこで相手の「いのち」を奪うか、自らの「いのち」を差し出すか。全てはその時、その場所に置かれた立場、瞬間で選んで行くしかないのだと思っている。それが、著者の言う“社会的、文化的文脈のなかでとらえる”ものだというのなら、考え方に大きな相違はないということにはなるけど。
    が、なんとなく、現在の考えかたは“間違いだ”と言っている気がする。理想的にはそうなんだろうな、という程度にしか同意できなかった。

    ただ、素直に読んでいて素晴らしいなと思えたのは第2章以降たびたび語られる群馬県上野村での体験談や村民のことば。理論、概念でなく生活そのものから導き出された生きることに対する姿勢、なにげなく発せられる言葉が実に良い。

    おばあさんは、まだ元気そうなおじいさんを前にして「おじいさんもそろそろだよう」と言い、おじいさんはこのおばあさんの言葉をにこにこしながら聴いている。生も死も身近なところにあり、自分の「いのち」は共同体の中で生かされているからだと著者は分析する。 自分の死が世界の終りではないからこそのゆとりだと言わんばかりに。
    これが自分が死ねばこの世界は終わるというヨーロッパ的思想の、「すべてのことは自己に還元されてはじめて存在意義をもつ」「世界もそこに自己が存在することによって意味をもつ」「自己の存在しない世界は成立しえない」というジコチューな発想のアンチテーゼとして語られているのだろうけど、きっと上野村のじいさんばあさんはそんなことすら思いもせずに自然にそう口にしている脱力感がいい。

    「わたしはこの村から一歩も出たことがない。一歩も出たことのない者が言うんだから、間違いない、この村が日本で一番いい村だ」というおばあさんのひと言も論を尽くした考察よりも、よほど真実を言い当てている。 著者が言うところの“「最良の場所」は選択するものではなく、諒解するもの”ということを、体験としてわかっているのだ。まるで賢者のごとしだ。

    森の保護に関して客観的根拠を求める営林署の対応、明治維新からはじまる近代改革の本質は民衆的世界の再編成という考察、仏の政治社会学者トクヴィルや神島二郎の「裸の個人」の例で引かれる自分自身に価値をみいだす近代個人の発想など、なかなか示唆に富む話も多いが、極めつけは2章の上野村のエピソードだと思う。それを読めただけでも、本書は価値ある一冊。

  • キリスト教は個人を基盤にするという性格を内蔵していた。それは前身にあるユダヤ教が流浪の民であったユダヤ民族として生きる個人の救済を目的にした宗教、ユダヤ人として生きる個人に祝福をもたらす宗教だったことからきている。ユダヤ人ではなくてもユダヤ教を信じれば天国にいけるとしたことで、ユダヤ人の宗教を民族、人種を超えた普遍的な宗教に替えたことにあったのだが、流浪sるう個人の救済が原点にあったことは確かだった。

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著者プロフィール

内山 節:1950年、東京生まれ。哲学者。1970年代から東京と群馬県上野村を往復して暮らす。NPO法人・森づくりフォーラム代表理事。『かがり火』編集長。東北農家の会、九州農家の会などで講師を務める。立教大学大学院教授、東京大学講師などを歴任。

「2021年 『BIOCITY ビオシティ 88号 ガイアの危機と生命圏(BIO)デザイン』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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