ヒトはなぜ絵を描くのか――芸術認知科学への招待 (岩波科学ライブラリー)
- 岩波書店 (2014年2月5日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (128ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000296212
作品紹介・あらすじ
ヒトの子どもは円と円を組み合わせて顔を描く。でもDNAの違いわずか1.2%のチンパンジーにはそれができない。両者の比較からわかってきた面白いこととは?キーワードは「想像」と「創造」。旧石器時代の洞窟壁画を出発点に、脳の機能や言語の獲得など、進化と発達の視点から考察する。芸術と科学の行き来を楽しみながら、ヒトとは何かを考えよう。
感想・レビュー・書評
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読んだキッカケはahddamsさんのレビュー(3月5週のBestレビュー掲載)で、目的は現在松木武彦さんの本を熟読しているので、「芸術認知科学」とは何か、概略や歴史を知りたかったため。であるが、その目的は達成されなかった。概略は、この本全体で記されている。ちょっと要約できない。
「ヒトはなぜ絵を描くのか?」その問いと答えそのものが、とても興味深いものだった。
ハッキリしたものでは、約4万年前、痕跡を入れるとネアンデルタール人の約5万年前から、ヒトは洞窟に表象絵を描いてきた。しかしながら、DNAの差わずか1.2%のチンパンジー(600万年前に共通の祖先から分かれた)にいろいろ絵を描かせようと試みるも難しいことがわかってきた。そこから「ヒトとは何か」が浮かび上がってくる。
チンパンジーは描かれた表象を見分けることができる。恣意的なシンボルをある程度理解し、扱うこともできる。そして画風があるほどに描線をコントロールして描ける。けれども、顔の輪郭に「目」を入れることさえできない。2歳のヒトは出来るのに、である。
今ここに「ない」ものをイメージして、補う。‥‥想像する力をヒトはなぜ身につけたのか?
小説ではないのでネタバレするけれども、それは言語を手に入れたからだ。面白いのは、そのことによって「失った能力」もあるだろうと推論していることである。それは(この言葉は使われていないが)「カメラアイ能力」である。宮部みゆきが持っていると私が推測している能力、高村薫「レディ・ジョーカー」で合田雄一郎が発揮する能力、である。
私たちは言語を持ったことによって、目に入るものを常にカテゴリー化し「何か」としてみようとする記号的な見方をしている。だから言語を獲得する前の幼児は却って「カメラアイ能力」を持っているのだという。とても興味深い。
子供がよく描く絵の一つに「頭足人」というのがある。頭のすぐ下に足がつく。これは「胴体」という概念が子供には漠然とし過ぎているためだという。そういえば、私、頭足人たくさん描いた覚えがある。突然思い出した。
そういうわけで、洞窟絵画の写実性は際立っている。一方、ヒトは「アート」を創造してきた。何かわからない「何か」をみようとすると、ヒトはアートとして表現する。
「想像」と「創造」はヒトの根源から深く結びついているのである。 -
先日観劇したお芝居の演者さんがあまりにも素晴らしくて、帰宅早々その方のイラストを描いた。
人物なんかは簡略化したフォルムでしか描けないが絵に向き合っている間は本当に楽しく、描き終わる頃には「あの感動をせめて等身大で、あわよくばそれ以上に表現できるようになりたい」と、妄想がえらく飛躍していた。
漫画を読まないようにしているのもそのためである。人一倍どハマりするばかりか、自分もファンアートを描いてみたいと冗談抜きで寝食を忘れてペンを走らせかねない…。(正気に戻った時が一番恐いけど笑)
その気持ちの興りはどこから来るのか。今もついて離れない妄想を分散させるつもりで本書を取り寄せた。
「絵を描く」という行為を芸術と科学の観点から考察するというもの。「描きたいから描くんだ!」と言ってしまえばそれまでだが、奥部まで突き詰めていけばもっと面白い答えが見つかるかもしれない。
いつも以上に明快な動機を胸にページをめくった。
タイトルの「芸術認知科学」とは著者(現 京都藝大教授)が命名した、一見相反する芸術(「感性」)と科学(「知性」)の関係性を追求していく分野のこと。
ラスコーやアルタミラといった洞窟絵画を起点に、チンパンジーとヒトの子供の描画を比較した実験の様子を展開している。
目的は不明瞭なものの岩の凹凸を動物に見立てたり画材のバリエーションも豊富、我々の祖先は早々に描画の楽しさに目覚めていた。実験でも空白のスペースに何かを描き入れるのは人間にしかできないことで、想像力、すなわち「ない」ものをイメージする力に長けているという結果が出ている。
前半は期待していたような「答え」は得られなかったが、ヒトが絵を描く行為に関心を寄せていくプロセスが肌で感じ取れた。
後半の第4章「なぜ描くのか」と第5章「想像する芸術」では、絵を描きたい(あるいはその他アート作品を制作したい)という衝動がフォーカスされており、何度か冒頭の自分と重ねていた。
ヒトの子供の例ではあるが、絵筆の動かし方によって変わる描線を「探索」したり絵具の香りを感じたりと、五感をフル稼働させる。そうして世界を知っていくことが絵を描く「おもしろさ」に繋がるんだと著者は述べている。
完成後を眺めるのも好きだけど、描いている時が一番楽しいというのは激しく同意だ。
極めつけは、美術家 内藤礼さんの言葉。
「自分が感じたことをアートの中に表現したい。別にだれがしなくてもいいのだけれど、やらずにはいられない」
美しいもの、すなわち新しい世界を知った時に身体に流れ込んでくるあの衝動。衝動が筆を動かす原動力となり、それは心ゆくまで止まらない。
結局「描きたいから描くんだ!」に終着しそうな雲行きだが、描いている時の「おもしろさ」も彼女は渇望しているはず。そう(描きたいという志だけは同じ)自分は睨んでいる。 -
私は絵が下手である。
それも結構なレベルの下手さである。
普段はほとんど小説しか読まない私がこの本を手に取ったのは、絵を描くというのは人間に先天的に備わった機能ではない、と言われたかったからだったりする。
ある人もいればない人もいる。
私にはその機能がまるっとないタイプなのだ、だからしょうがない。
そう思いたかったのだけれど、この本にはそんな私の浅はかな言い訳などをはるかに越えた話が書かれていて、大変面白かった。
チンパンジーとの比較で、人間にとっての描くということ、更には認識の核にあるものなどを探っていく。
文章もわかりやすく、科学的な話の苦手な私にも容易についていけた。
幾つか、面白かった部分を抜き書きしたい。
「わたしたちは言語をもったことによって、目に入るものをつねにカテゴリー化し「何か」として見ようとする記号的な見方をしている。つまり目に入るものをそのまま認識しているつもりでも、無意識に言語のフィルターを通して世界を見ているのだ。」
「必要のあるものだけに目を向け、それを記号化してしまう。いわば本のあらすじだけを読んでいるようなわたしたちに、子どものときのように世界を新鮮に見せてくれる。それがアートを鑑賞するときの心の作用であり、おもしろさではないかという気がしてくる。」
言語の功罪、美術のあり方。
そんなものまで考えさせられる、良書だった。
しかし書かれていたことを元に自分を省みると、一般的な人間が描く「記号的な絵」のために必要な、対象を記号として捉える機能が私にはまず欠けている気がする。
どの部分を描けばその対象だとわかってもらえる、というその「部分」がわからないのだ。
かといって、チンパンジーが描く「写実的な絵」が描けるわけでもなく。
うううーん、私の絵は一体何の絵なんだ。
早く人間か何かになりたーい! -
チンパンジーとヒトを比較した研究から、絵を描くことについてコンパクトにまとめている良書。内容は読みやすく、予備知識不要でわかりやすいが、なぜかフォントが私には見づらかったのが残念。
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デッサンする時に難しいのが、「見たまま」描くこと。見えないことを見えるように紙に表すことは、脳の認知に左右するのでしょうか。面白いのでぜひ一度読んで見て下さい。
M.M.先生 -
斎藤亜矢『ヒトはなぜ絵を描くのか:芸術認知科学への招待』2016
知性と感性
人間はどうして絵を描くのか、を古代の芸術から、チンパンジーの絵、子どもの絵描きを通じて、私たちがどうして絵を描くことを楽しんだり、絵の鑑賞を好きになるのかを考える本。読みながら自分が子どものとき、お気に入りのおもちゃに所狭しと貼ったシールや、絵本の隙間に書いた落書き、大きな模造紙に書いた兵隊の絵。。。その時自分がどんな気持ちだったかを思いだした。
この本を読んだ正直な感想は、この著者のような知性と感性を持ちたい、ということだ。著者は、一見不可解に見える、子どもたちやチンパンジーの絵や、絵を描いている時の感想をじっくり観察しながら、それぞれの子どもやチンパンジーにとってどんな意味があるのかを考えて考えている。そして自分自身のいろんな経験を思い出しながら、分析しながら共感しながら、考えている。。。そのように知性と感性のあいだを絶えず行き来しながら分析する姿は、科学者であり芸術家であり、本当の意味でヒューマニストであると感じた。自分自身に子どもができたら、著者のようなまなざしを持って子どもに接してあげれるような親になりたい。 -
人間が生きていく上で、絵は描けても描けなくても良いものだが、何故人間は絵を描くのだろう?私自身もずっと考えていたテーマ。写真で事足りるのに何故?子供は何を認知して描いているの?この本を読んで少し見えてくる事もあった。
絵は言語を使わないで表現できるツールでありながら、その背景は言語と無関係ではない。
今ここにないものをイメージして補うという認知的特性…想像する力、見たものを描くのではなく、知っているものを描く。(子供の絵を描く行為)
見たものを頭の中でカテゴリー化し、シンボルに置き換えていくと、情報として記憶から取り出したり他者に伝えることが容易になる。
私達は言語を持った事で目に入るものを無意識に言語のフィルターを通して世界を見るようになった。
ヒトの子供の「ふり遊び」「見立て遊び」など動作を介した想像力も言語が急速に発達する時期と一致。
チンパンジーは細部、部分に惹きつけられ、ヒトは細部よりも全体で捉える傾向がある。サヴァン症候群は芸術家多い。
言語能力は描く為に必要か、邪魔なのか?記号的な絵と写実的な絵の違い。
子供の描く絵は記号的。写実的な絵を描くには記号的な見方を抑制して直感的な物の見方を身につける認知的な訓練がいる。
アートとは新しい何かに出会わせてくれたり、すでに持っていた何かの概念(スキーマ)拡張したり、壊して作り変えたりする。何かを拒否する事で私達の記憶や情動を掘り起こしたり不安定なままにし、心をざわつかせるもの。 -
子供の頃には同じキャラクターをいくつも描いたり、様々な色のペンで模様を描いたり、今思い返してみると何が面白かったんだろうと思うような事がたくさんありました。あれらも脳や認知の発達に必要な過程だったということでしょうか。ヒトとチンパンジーの比較(絵を補間する能力など)の話題も面白かったです。
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クロマニョン人が絵を描いていたが、そこに筆者が注目していることは今ここに「ない」ものを描いていることだが、私が思うに、ヒトの「ない」ものを想像することは、後にヒトの「形而上学」を成立する萌芽が隠されているのではないかと、深読みしてしまいますが、いかがなものなのでしょうか。今ここに「ない」ものを想起するヒトの宿命みたいなものを感じないではいられません。今後もよく考えなければならない課題です。
5章「想像する芸術」では、概念を拒否するアートを主題に展開されているが、子どもは、概念から逸脱した絵を大人とは違って自由に描くことを主張している。概念や言葉の手前のイメージを想像する奔放さの可能性を指摘。わたしは、言葉によらないアートの特徴を今回改めて考えされられた。
以上のことから、絵画は、「形而上学」からとらえた絵として、また概念を拒否するアートとして成立していることに改めて考えさせられた。 -
3.3
絵を本格的に頑張ってみようと思った矢先に出会ったのが本書で、(現在進行形で)絵を描く側として読み進めてい...
絵を本格的に頑張ってみようと思った矢先に出会ったのが本書で、(現在進行形で)絵を描く側として読み進めていました。「カメラアイ能力」は備わっていればきっと便利なものに違いありませんが、自分が見た美しいものを瞼の裏に思い描きながら描く行為も素敵だなと読んでいて思いました。(私の力ではやっぱり実物がないとちゃんと描けませんが泣)
見えないものを想像しながら、自分の手でそれを創造するのも進化を経た人類に与えられた特権なんですね。
今回お役に立てず申し訳ありませんでしたが汗、熟読してくださりとても嬉しいです(^ ^)♪kuma0504さんのレビューを拝読し、芸術認知科学について本書以外でも踏み込んでいきたいと思いました。ありがとうございます!
認知科学について、一言で語る言葉を見つけきれなかっただけで...
認知科学について、一言で語る言葉を見つけきれなかっただけで、本全体で、とってもよくわかりました。
実際、弥生時代から日本各地に作られてゆく墳墓は、それまでなかったものから想像、創造して作られたものです。そのひとつひとつに物語があったはず。なんか、わたしにもつくることができる。だってヒトなんだから。そういう気がしてきました。
そのように仰っていただいてとても嬉しいです(*'▽'*)
弥生時代の墳墓…確かにそうですね!
ず...
そのように仰っていただいてとても嬉しいです(*'▽'*)
弥生時代の墳墓…確かにそうですね!
ずっと「クリエイティブ」という特別感のあるワードに気後れしていましたが、人間誰しも何もないところから何かを創造できる。それを心底感じさせる良書でした…!