カント全集 10

制作 : 坂部 恵 
  • 岩波書店
4.14
  • (3)
  • (2)
  • (2)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 22
感想 : 6
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (461ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000923507

作品紹介・あらすじ

"道徳は必然的に宗教にいたる"。『純粋理性批判』で「私は何を知ることができるか」を問い、『実践理性批判』で「私は何をなすべきか」を探求したカントが、「私は何を希望しうるか」を主題として、真の宗教のあるべき姿を論じる。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • カント『たんなる理性の限界内の宗教』(宗教論)

    人間は自然法則から自由にふるまうことができる。
    つまり神と同じふるまいができる。
    だから、人間はその自由を自分の幸せを追求するためではなく、誰もに幸せな世界(「理想の国」)を実現するために使わねばならない。
    神を持つという点で、あらゆる宗教は実例を示すことができる。
    この本でカントはそれを聖書の解釈から行なった。

    読んでいて思いついたこと>>>
    人権
    ある人が、世界中の人がそれを行なうと困ることをしないならば、世界はその人の精神と肉体の自由を守らなければならないという世界の義務

    「偶像崇拝」ってそのまま読めば、「たまたまそこにある像を信じること」になる。だから良くないのか。すごく納得。別に石像や肖像が悪いわけじゃないんだな。そこに対して何かを祈るだけになること、他律になることが良くないんだ。

    読書メモ>>>
    第一版序文
    義務は目的を必要としない、それどころかそれを捨てることを要求する
    しかし、行動には結果が付いてくる
    そこに目的を見出してしまうのは人間の性である
    p12「人間には、そして人間の…実践的な理性能力には避けられない制限の一つとして、あらゆる行為に際して、行為の成果を顧慮するということがあるが、それは目的として役立ってくれて意図の清浄さをも証明しうるようなものとして、成果の中に見出すためにであって、目的は実行(因果連関)においては最後に来るものではあるが、表象と意図(目的連関)においては最初に来る〈ため〉のである。」

    『判断力批判』では人間が目的であるとしたが、道徳の目的となるには人間は完璧ではない
    だから神の概念が必要となる
    道徳と宗教はこの点で結びつく

    第一編
    ある人間が善か悪かは、その人間がどういう格率(行動原理)を採用するかで決定される
    生まれつき善悪が決まっているという考え方は自然に原因を押しつけるやり方で、「人間は自然から自由である」という道徳の根本を揺るがすので採用できない

    ?疑問点?
    シラーの、優美から道徳を選ぶ傾向性と、カントの、崇高から道徳を選ぶ傾向性はほぼ一緒のことを言ってないか?どっちも感情が動かされることで道徳が好きになるって意味じゃないの?

    1
    人間の素質
    1)動物性 機械的な自己愛、理性を必要としない、自己保存・繁殖・社会性、自然
    2)人間性 比較する自己愛、理性を必要とする、他人と比較することで自分の幸不幸を決定する、他律による自由
    3)人格性=道徳法則の理念 引責能力のある理性、自由
    1、2は根絶できず、3は獲得する必要がある
    全て欲求能力と選択意志の使用に直接関わる

    2
    素質 それであるための構成要素また要素を結合する形式
    性癖 偶然的な傾向性

    道徳法則を格率に採用する選択意志の
    有能さ よい心情
    無能さ 悪い心情

    悪い心情
    1)脆さ 採用した格率を遵守できない
    2)不純さ 不道徳な動機と道徳的な動機を混同する
    3)邪悪さ 悪い格率を採用する

    道徳的悪への性癖は本能的なものか意図的なものか
    意図的、自由の使用によるもの

    3
    p364訳註(44)
    「「善の格率」が「悪への性癖そのものにおいては悪だと想定される」のは道徳法則と主観的格率との転倒が生じているからにほかならない。生き方の中核に自己愛が措定されている心術にとっては、それを打ち砕き、謙抑するような「善の格率」は感性的なレベルでの自己に損害を与えるから「悪だと想定される」。」

    悪の出所
    格率の根拠として、感性の動機(幸福)の下に道徳法則を従属させる転倒が起きているため

    悪い心情の出所
    「法則を唯一の動機として大切にしない不純さ」
    不純さを持っているにもかかわらず、環境的条件からたまたま自分が悪の行為を行なっていないために自分は道徳的と考える自己欺瞞は、人間不信の原因であり、善を育てる上での障害になる

    一般的注解(1)恩寵の作用について(p70)
    原注2
    p61
    「ところで自己自身への満足感という意味での理性的愛というのは、二通りに理解できて、〔一つは〕…自然傾向性の満足をめざすような格率のゆえに…私たちが自分の意にかなう、ということである。この場合、理性的愛は自己自身に幸せを願う愛と同じであり、自分で自分が好きになるのであるが、ちょうど商売の投機がうまくあたり、その際、採用していた格率のゆえに、自分の見通しのよさを喜んでいる商人がそうである。しかし〔もう一つの〕自己自身への無制約な満足感(つまり行為の結果としての損得に依存しない満足感)の自己愛という格率は、格率を道徳法則に従属させるという
    制約の下でのみ、私たちに可能になるような満足、このような満足の内的原理ということになろう。 …この自己愛は自分自身への理性的愛と呼べようが、これは(それにより獲得されるはずの幸福の名の下に)、行為の結果からくる満足を引き起こす他の原因が選択意志の動機に混入することを一切阻止するのである。ところで自分自身への無制約な満足感は法則への無制約な尊敬を言い表しているのに、なぜ理性的な、しかし先ほどの制約下でのみ道徳的な自己愛などという表現を用いて、堂々めぐりをすることで、原理の明確な理解を不必要に困難にしようとするのか。(そもそも自己を道徳的な仕方で愛せるのは、法則への尊敬を選択意志の最高動機にするという格率を意識している場合だけなのである。) 幸福は、感性の対象に依存した存在者である私たちにとって、本性上第一のものであり、また私たちが無制約に欲求するものでもある。この幸福も、理性と自由とを賦与された存在者としての私たちの本性上は(一般に私たちに生得的なものを本性と呼ぶなら)到底第一のものではなく、また無制約に私たちの格率の対象であるわけでもないのであって、むしろ格率の対象は幸福たるにふさわしいこと、すなわち私たちのすべての格率が道徳法則と一致することなのである。」
    →多分いいこと言ってる。けど、完全な理解ができてないので解説してほしい。

    第二編
    p76「本来の悪は、傾向性が違反を唆すとき、それに抵抗しようと意欲しないことに存しており、本来、この心術こそがほんとうの敵なのである」

    自然的傾向性 それ自体は善
    思慮 傾向性が「幸福」という調和をもたらすように抑制する理性
    知恵 道徳的に反法則的な傾向性を悪として非難し、根絶する理性←→愚かさ

    一般的注解(2)奇跡について
    p118(原注)
    「信じやすい人を魔術の技でごまかしたり…する人々がいるが、彼らはありきたりの逃げ口上として、それについては自然科学者も無知を告白していることを引き合いに出す。 どうせ私たちは重力や磁力などの根拠を知らないというのである。 しかしそうしたことの法則を私たちは、ある種の結果がその下でのみ生起する制約という一定の制限下では、十分詳細に認識しており、こうした諸力の確実な理性使用のためにも、それで十分だし、またこれらの力の現象を説明するためにも、つまり、それにしたがってsecundum quid、下方へと、これらの法則を使用して経験を法則下で秩序づけるためにも、それで十分なのである。もっともこれらの法則にしたがって端的にsimpliciter、 そして上方へと、作用する力の原因までも洞察するには、それでは足りないにしてもである。 」
    →原因を遡りきれないことを理由に、現在分かっている法則を手放すのはバカだってことを指摘している。でも、その遡りきれないからモヤモヤする気持ちは私も分かるな。

    判定の格率としては奇跡を認めない。しかし、植物の驚嘆に値する毎年の営みに創造主の影響(奇跡)は全く必要ないと洞察できるほど、自惚れてはいない。

    第三編
    p123「〈悪の原理からの攻撃の〉原因や事情は、隔絶されて現存在するかぎりでの人間自身のそのままの本性からくるというよりは、彼が関係し結びついている人間からこそくるのである。」
    p124「〈そもそもの〉人間の欲求はつましく、欲求を配慮する心性の状態は、穏やかで静かである。人間が貧しいのは(あるいは自分で貧しいと思うのは)、他人が自分のことを貧しいと思いはしないかと、そしてそのことで軽蔑されまいかと、懸念するからなのである。」

    「個々人は、悪の支配を脱するためにどれほど多くをなしたにしても、やはり悪の支配下に逆戻りする危険にたえず曝されたままということになろう。――― したがって私たちの洞察するところ、人間が寄与しうるかぎりでは、善の原理による支配は、徳の法則にしたがい徳の法則のためにあるような社会を起こし広める以外には実現できないのである。つま り、その範囲内に徳の法則をふくむことが、理性により全人類の課題とされ、義務とされるような社会を、起こし広める以外にはないのである。」
    →『永遠平和のために』に近いこと言ってる。

    1-2
    p129「人間たちの状態 (status iuridicus 法律状態) は、…人間に権利(その獲得あるいは維持)が可能であるような関係は、他人への自分の権利は何かということについて、各人が自ら裁き手であろうとするが、各人が自分自身の力を用いる以外に、権利の安全保障を他人から受けるわけでもなく、それを他人に与えもしない状態なのである。これは戦争状態であって、この状態では、万人が万人にたいしてたえず武装していなくてはならないのである。ホップズの第二の命題、「自然状態を脱しなくてはならない」exeundum essee statu naturali は、第一の命題の帰結である。そもそもこの状態は、自分自身の事柄では自分が裁き手であるのに、他人の事柄に関しても、自分の恣意以外には、いかなる安全保障をも他人に認めないという越権により、他のすべての人々の権利をたえず侵害することなのである。」
    →「批判しないで」の人のことを思い出した、国際法の必要性、罰がないと方が守れない人間は動物である

    1-7
    どの神、どの宗教も最終的な解釈は純粋宗教信仰(道徳法則を遂行すること)への導入である。だから、全ての神、宗教はいずれ1つにまとまることができる。

    2
    ユダヤ教は宗教体制ではなく、国家体制である。

    〈対義される言葉のまとめ〉
    -政治的公共体 
    歴史的 国家体制 礼拝 教会信仰 報酬と懲罰 子孫への蓄財 立法者としての神 選民 民族 神への信奉 祭祀 苦役信仰 歴史信仰
    -倫理的公共体
    普遍的 宗教体制 道徳 純粋宗教信仰 天国と地獄 来世への信仰 存在者としての神 開かれた 世界 徳への信奉 行為 道徳信仰 純粋理性信仰

    道徳法則の宗教に人を引き入れるには聖書を使うのがとりあえず現実的。
    その際の注意点は以下の2個。
    1)啓示(指し示すこと)を押しつけない、でも無用な批判をしてその価値を弱めない
    2)その歴史は道徳的なものをめざす手本として繰り返し教える、でも相手が受動的にならないように慎重にやる

    「(とくにふつうの人間には受動的信仰へと移りゆこうとするたえざる性癖があるから)」の原注
    p178「(原注1)この性癖の原因の一つは安全性原理にふくまれている。すなわち、私はある宗教のなかで生まれ育ったのであり、その教えは私が選択したものではないし、そのなかでは私が理屈をこねたところで何も変わらなかったわけだから、宗教の間違いは私の責任ではなく、私の教育者の、あるいは私を教育すべく公に任じられた教師の責任であるという原理である。これはひとりの人間が公に宗教を変えることに容易に承認が得られないことの理由でもあるが、もちろん、これにはさらに別の(もっと深いところにある)理由が付け加わる。すなわち(さまざまな歴史信仰のなかで)どの信仰が正しいのかということで、誰もが内心あやふやさを感じているにしても、他方で道徳的信仰はいたるところで同じものだから、これについてセンセーションを起こすことは不要だと見なされるということである。」

    一般的注解(神秘について)
    p185訳註「(71) その〔自由の〕認識は誰にでも伝達されうる まず「実践的自由」は、理論的認識を前提した「理性の原因性」として、すなわち経験的認識に基づいて準則を指定し、それにより意志規定をなすこととして「経験により証明される」。それに反して「超越論的自由」は、「純粋理性」の活動性の事実 (faktum) であり、それは道徳法則という「アプリオリな与件」として私たちに与えられている。このアプリオリな与件から、私たちは純粋理性の活動性としての「超越論的自由」を知る。 道徳法則は自由の「認識根拠」である。また、「超越論的自由」が道徳法則を作り出し、産出するわけだから、自由は道徳法則の「存在根拠」である。このように「自由」はなんら「神秘」ではなく、「事実の事柄」 (resfacti) であるから、その「認識は誰にでも伝達されうる」。」
    →⭐︎ここ、自由と道徳法則のまとめとして分かりやすい!自由の方が順番的は先かも。

    カントの「三位一体」の解釈
    1)法則自体(立法)
    2)能力が届かないものに対する慈しみ(行政?福祉?)
    3)慈しみを過剰にしない、立法者と同じ聖性で罰さない義(司法)

    「神秘」(神さまの不思議)の解釈
    1)人間の創造に理由がないこと。神からの司令がないこと。
    2)悪を神の力で取り除かないこと。
    3)天国と地獄の選り分けの基準が人間には分からないこと。
    カントからすると、全て人間が自らの責任で道徳法則を選びとるための神の計らいらしい。
    →『カンディード』ボルテール、神を信じているのに不幸にばかりになる人の話

    1
    宗教 主観的には人間の義務すべてを神の命令として認識すること

    自然的宗教 啓示より前に義務を知っている
    合理論者 自然的宗教だけが道徳的に必然と主張する人
    ×自然主義者 合理論者の中でも全ての超自然的な神の啓示を否定する人→啓示の必然性について理性は決着をつけられないので×

    純粋合理論者 啓示を容認するが、現実的かどうかは必ずしも必要ではないと主張する人→カント
    純粋自然主義者 啓示への信仰が普遍的宗教に必然と見なす人→カントの時代のキリスト教、カルト

    p205訳註(2) 「実然的 assertorisch 「実然的」とは「問題的」「必当然的」とならんで判断ないし命題の様態。 「実然的」は「言表」を意味するラテン語の assertioに由来するが、たとえば「SはPである」といったふうに、何かが端的に主張されるような判断についていわれる。「問題的」と呼ばれるのは、疑いの余地があって決定的ではない事柄についての判断、あるいは、背定ないし否定がたんに可能と想定されるにすぎない判断であって、「そうかもしれないが、そうでないかもしれない」といった判断である。たとえば「世界にはいかなる人間も知覚したことのない住民がいるかもしれない」 (B521) とか 「私たちに見える惑星のどれかに住民がいよう」 (B 853) といった判断は、それを証明する経験的な論拠がない以上、「問題的」である。また「必当然的」とは論駁の余地がなく無条件に正しい判断についていわれる。それは論理的必然性もしくは直接的な確信を表現する判断のことである。またこれは「問題的」にすぎない判断にたいする論拠としても役立ちうる。たとえば「超越論由」や「神の現存在」も理論的に考察されるかぎりでは「問題的」であるが、実践的領野で道徳法則という「必当然的」な与件が呈示されることにより、ともに「実然的」となりうるのである。ただしこうした形而上学的対象についての場合は悟性における事象としての確信の様態(「臆見」「知」「信」)が考慮されなくてはならない。」

    宗教の外部伝達による区分け
    ⚪︎自然的宗教 誰もが理性により確信できる
    ×学識的宗教 学識を用いてのみ他人に確認させる
    道徳的宗教は普遍的に伝達できるので自然的宗教

    宗教は自然的宗教なのに啓示されている
    自然的宗教に理性で到達することはできたが、啓示(例)があったことで理解が早まった

    p208「そもそも啓示が宗教の概念に思惟において付け加えられるのは理性によってだけなのである。なぜなら宗教という概念そのものは、道徳的立法者の意志の下での拘束性から導き出されたものであって、れっきとした純粋理性概念だからである。」

    聖書は歴史的(現実在が保証される)な事例を取り出して、道徳的な問題を議論する書物としてよい

    2
    p225「(原注) 妄想とは、事柄のたんなる表象を、事柄そのものと等価だと見なすような思い違いである。たとえばけちな金持ちは欲の皮のつっぱった妄想があって、望みさえすればいつかその富を使えるという表象を、けっしてそれを使わないことの十分な代替だと見なすのである。名誉妄想は他人からの称賛に価値を置くものであるが、称賛といっても根本では他人がいだく(ひょっとしたら内面ではまったくいだいていないかもしれない) 尊敬の外的表象にすぎないのに、そうした尊敬にだけ価値を帰そうというのであって、それゆえ称号欲や勲章欲もこの類である。なぜなら称号や勲章といったものは、他人よりもすぐれていることの外的表象にすぎないからである。精神錯乱ですらその名は、(想像力の) たんなる表象を事柄そのものの現前と取りちがえ、ただの表象にこの現前と同じ価値を認めるのが、あたりまえになってしまっていることに由来する。―ところでなんらかの目的のための手段を所有しているという意識は(手段を利用しないうちは)、目的を表象においてのみ所有することであり、したがってまるで目的の所有に代わって価値をもちうるかのように、手段を所有するだけで満足することは、立派な実践的妄想であり、ここで問題になるのはこれだけである。」
    →⭐︎なんか個人的にとても気になった。

    2-3
    p246「徳の概念は人間の魂から取ってこられている。この概念は、開発はされていなくとも、すでに人間のうちに完全にあり、宗教概念のように推論によって考え出される必要もないのである。徳の概念の純粋さには何かがある。どんなに大きな障害にも負けないだけの私たちのうちなる能力は、ほかの場合には、それがあるなどと私たちにはけっして推測できないものだが、この能力の覚醒には何かがある。人間性の尊厳は、人間が己の人格とその規定という点で崇敬しなくてはならないものであり、またこれに到達しようとして人間は努力するのであるが、このような人間性の尊厳には、魂をきわめて崇高にするような何かがある。また神性が崇拝に値するのは、ひとえにその聖性によってであり、徳にたいする
    立法者としてなのであるが、何かとは、この神性そのものへと導いていく何かであり、その結果、人間は格率に影響をおよぼすような力をこの概念に与えるにはほど遠くとも、しかしそれでもこの概念に養われるのをやぶさかとはしないのであるが、その理由は、彼はこの理念により、すでにある程度自分が高尚になっていると感じるからなのである。…ところで自分の足で立とうとする勇気には和解の教えが続き、これによっても勇気は強められるのであるが、それはこの教えが、変えることのできないものはもう済んだことなのだとし、ついで新しい生き方にいたる道を開いてくれるからなのである。が、逆にこの教えの方からはじまるならば、なしてしまったことをなさなかったことにするという空しい努力(贖罪)のためにも、そのような努力を捧げることへの恐怖のためにも、人間から勇気が奪われてしまい、また善にいたるには私たちはまったくの無能力だという表象や、またしても悪に落ちるのではないかという不安などのためにも、勇気は奪われるし、そうしたことのせいで、人間は偉大にして善なることを何ひとつ企てず、一切を願いに期待するような、道徳的に受動的で、うめくほど苦しい状態におかれるにちがいないのである。」
    →⭐︎ここ、好き。

    一般的注解
    p270「神のあらゆる道徳的性質のうちで、人間がふつう直接頼るのは二つめの恩寵であって、それはそうすることで、聖性の要求にかなった者になるという怖ろしい制約を回避するためである。よき奉仕者であることは苦しいことである(聞こえてくるのは義務について語る声ばかりである)。」

    第一草稿序文
    哲学者が聖書の新しい解釈を披露してもいいはず。それを制限する聖職者の方が哲学への越権行為だよ。

    第1編のための準備原稿
    p310
    シラー『ターリア』に対する反論
    人間には善の崇高だけでなく、悪の崇高を感じる性癖がある。
    それに抵抗して善の崇高を選択することこそが真の崇高である。それは優美ではない。
    p312「信仰箇条を最小限にまで削減することは、それにより不誠実さから(ハラー)身を守り、自分が信じていると告白できるものしか選ばないためにも必要である。」

    第3編のための準備原稿
    p325「なされたことを、なされなかったことには、もはやできない以上、「神の似姿の回復」restitutio imaginis deiこそ、なされうる一切である。」

    第4編のための準備原稿

    法則を遵守するための行動原理、法則違反の性癖への反作用、強制
    聖性
    法則遵守を喜ぶ、法則違反の性癖がない、強制を必要としない
    p341「あなた方は聖でありなさい」

    ある行為が行われる理由》
    法則にかなった行為をしたいという意図から
    「人間本性の尊厳のたんなる意識から」
    「高貴な誇り」「徳」
    義務に従わざるをえないから
    「自らの本性が不純である意識」から
    「謙虚な公正さ」「篤信」

    月報
    宇都宮芳明
    カントの理性の3大関心
    「私は何を知ることができるか」
    →『純理』
    「私は何をなすべきか」
    →『実践理性批判』
    「私は何を希望することができるか」
    →『宗教論』
    「内容的には「宗教理性批判」ともよべる書物」

    高橋進
    ドイツ元首相ヘルムート・シュミット
    カントの定言命法とマルクス・アウレリウスの自己省察が好きらしい。
    なんか気が合いそう。

  •  哲学と宗教の融合を試みた一冊。
     しかし、これは融合というよりは妥協であると言えるだろう。もちろんいい意味での妥協だ。哲学は神を意識せざるを得ない。しかしそれは啓示をもたらし、人類を導く神ではない。反対に啓示をもたらす宗教の神は、哲学のように何かを疑うことはしない。信仰から始まる宗教と、疑惑から始まる哲学、両者はしかし多面性を持つ神を、違った角度から見ているにすぎない。
     簡単にいうとこういうことになるだろう。正直論証自体は力技に見えるのだが、神の多面性という考え方がどうも気に入ってしまった。ハーツホーンの万有在神論もそうだが、現代における神を考える際の重要な指針になってくれるんじゃなかろうか。

  • 1793年に公刊された『たんなる理性の限界内の宗教』およびそれに関連する草稿群の邦訳を収める。すでに第二批判以来、道徳は宗教に至るとカントは述べており、この辺りの時期には他にも聖書関連の論文(『人類史の憶測的起源』など)もある。しかし、この著作に至って、カントのいう「理性宗教」が体系的に開陳される。理性宗教の対立概念は啓示宗教であり、啓示という自然界で生じた奇跡を信じるかどうかを規準とする宗教である。カントの宗教論の意図は、そのような啓示に対する懐疑を乗り越えてなお宗教を信じることができるかを吟味することにある。カントの答えは、実践理性の道徳論に基づいた理性宗教のみが信仰を保証するというものである。近代以降宗教を論じるものにとって避けられない問題を提起しているように思われる。

  • カントにとって、宗教はそれ独自の分野ではなく、道徳の分野の問題となる。
    キリスト教を念頭に置いた宗教観だが、歴史的存在としてのキリスト教に基づいて宗教を論じるのではなく、純粋理性信仰としての、善への意志としての宗教を論じる。

    実は本文部分しか読んでない、草稿(この巻の後ろ半分)は孰れ機会があれば…。

  • 宗教に関する哲学的反省を宗教哲学と呼ぶとするならば「哲学的宗教論」という見出しを冠せられた四つの論文から成るイマヌエル・カントのこの著作は、文字通り宗教哲学の先駆的業績として評価され得るであろう。
    キリスト教神学の教説を批判すりという啓蒙主義的宗教観に貫かれ、プロシア国王の忌避に触れることになったこの著作は、まず第一編「善の原理とならんで悪の原理が内在することについて、もしくは人間本性のうちにある根本悪について」が発表され、後に検閲の紛糾を経て第四編まで発表された。
    理性批判の哲学者であるカントは、理性的存在者としての人間に限りない信頼を示しながらも、その理性に厳しい限界を画し、人間存在の有限性を見極めることによって新たな知の地平を切り開いてきた。そうしたカントが、啓示宗教としてのキリスト教がもっている非合理的な要素を独断的主張として退け、イエスキリストの教えを人間理性の限界内で理解可能な道徳的教説として再解釈してみせたものが、著作にほかならない。
    ここでカントの主張の核心となっているのが、第一編における「根本悪」(das radikale Bose)という考え方である。これは道徳法則に違背しようとする人間の内なる性癖を指しており、キリスト教の説く原罪の教義を彼なりに解釈したものであるが、「人間は生来、悪である」という言葉の内に、人間の根源的有限性に関するカントの洞察が最も深刻なかたちで言明されている。
    そして、根本悪はただ「神の子」の理念に倣って生きるという「心的態度の革命」によってのみ克服されるとして、キリスト教の教えの道徳的理解が説かれるのである。
    さらなるカント理解のためには、いうまでもなく『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』のいわゆる三批判書が不可欠である。

  • カントの倫理学書としては「人倫の形而上学基礎付け」や「実践理性批判」が有名だが、これらは主に「善とは何か」について書かれている。とりわけ善とみなされる行為のなかには、カントの基準に照らすと、善とはいえない行為があり、それらをふるいにかけ、真に善といえる行為とは何かを考察。「悪とは何か」については積極的な言及がない。
    本書「たんなる理性の――」は、その「悪」について考察している。前掲の2冊に続けて読むと面白い。

全6件中 1 - 6件を表示

カントの作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×