- Amazon.co.jp ・本 (461ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000923507
作品紹介・あらすじ
"道徳は必然的に宗教にいたる"。『純粋理性批判』で「私は何を知ることができるか」を問い、『実践理性批判』で「私は何をなすべきか」を探求したカントが、「私は何を希望しうるか」を主題として、真の宗教のあるべき姿を論じる。
感想・レビュー・書評
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哲学と宗教の融合を試みた一冊。
しかし、これは融合というよりは妥協であると言えるだろう。もちろんいい意味での妥協だ。哲学は神を意識せざるを得ない。しかしそれは啓示をもたらし、人類を導く神ではない。反対に啓示をもたらす宗教の神は、哲学のように何かを疑うことはしない。信仰から始まる宗教と、疑惑から始まる哲学、両者はしかし多面性を持つ神を、違った角度から見ているにすぎない。
簡単にいうとこういうことになるだろう。正直論証自体は力技に見えるのだが、神の多面性という考え方がどうも気に入ってしまった。ハーツホーンの万有在神論もそうだが、現代における神を考える際の重要な指針になってくれるんじゃなかろうか。 -
1793年に公刊された『たんなる理性の限界内の宗教』およびそれに関連する草稿群の邦訳を収める。すでに第二批判以来、道徳は宗教に至るとカントは述べており、この辺りの時期には他にも聖書関連の論文(『人類史の憶測的起源』など)もある。しかし、この著作に至って、カントのいう「理性宗教」が体系的に開陳される。理性宗教の対立概念は啓示宗教であり、啓示という自然界で生じた奇跡を信じるかどうかを規準とする宗教である。カントの宗教論の意図は、そのような啓示に対する懐疑を乗り越えてなお宗教を信じることができるかを吟味することにある。カントの答えは、実践理性の道徳論に基づいた理性宗教のみが信仰を保証するというものである。近代以降宗教を論じるものにとって避けられない問題を提起しているように思われる。
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カントにとって、宗教はそれ独自の分野ではなく、道徳の分野の問題となる。
キリスト教を念頭に置いた宗教観だが、歴史的存在としてのキリスト教に基づいて宗教を論じるのではなく、純粋理性信仰としての、善への意志としての宗教を論じる。
実は本文部分しか読んでない、草稿(この巻の後ろ半分)は孰れ機会があれば…。 -
宗教に関する哲学的反省を宗教哲学と呼ぶとするならば「哲学的宗教論」という見出しを冠せられた四つの論文から成るイマヌエル・カントのこの著作は、文字通り宗教哲学の先駆的業績として評価され得るであろう。
キリスト教神学の教説を批判すりという啓蒙主義的宗教観に貫かれ、プロシア国王の忌避に触れることになったこの著作は、まず第一編「善の原理とならんで悪の原理が内在することについて、もしくは人間本性のうちにある根本悪について」が発表され、後に検閲の紛糾を経て第四編まで発表された。
理性批判の哲学者であるカントは、理性的存在者としての人間に限りない信頼を示しながらも、その理性に厳しい限界を画し、人間存在の有限性を見極めることによって新たな知の地平を切り開いてきた。そうしたカントが、啓示宗教としてのキリスト教がもっている非合理的な要素を独断的主張として退け、イエスキリストの教えを人間理性の限界内で理解可能な道徳的教説として再解釈してみせたものが、著作にほかならない。
ここでカントの主張の核心となっているのが、第一編における「根本悪」(das radikale Bose)という考え方である。これは道徳法則に違背しようとする人間の内なる性癖を指しており、キリスト教の説く原罪の教義を彼なりに解釈したものであるが、「人間は生来、悪である」という言葉の内に、人間の根源的有限性に関するカントの洞察が最も深刻なかたちで言明されている。
そして、根本悪はただ「神の子」の理念に倣って生きるという「心的態度の革命」によってのみ克服されるとして、キリスト教の教えの道徳的理解が説かれるのである。
さらなるカント理解のためには、いうまでもなく『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』のいわゆる三批判書が不可欠である。 -
カントの倫理学書としては「人倫の形而上学基礎付け」や「実践理性批判」が有名だが、これらは主に「善とは何か」について書かれている。とりわけ善とみなされる行為のなかには、カントの基準に照らすと、善とはいえない行為があり、それらをふるいにかけ、真に善といえる行為とは何かを考察。「悪とは何か」については積極的な言及がない。
本書「たんなる理性の――」は、その「悪」について考察している。前掲の2冊に続けて読むと面白い。