チベットのものいう鳥

著者 :
制作 : 田 海燕 
  • 岩波書店
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本棚登録 : 28
感想 : 5
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  • Amazon.co.jp ・本 (290ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784001108439

感想・レビュー・書評

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  • 「ぜったい口をきかずに金の鳥を連れて帰るという使命を果たそうとする王子と,口を開かせようと言葉たくみにおもしろいお話の数々を語りきかせるものいう鳥,という設定で進んでゆく,珍しいチベット民話.」

  • 文句なしに面白い。
    チベットにも「アラビアン・ナイト」のような話があるということが、新鮮な驚きだった。
    私は始めて聞いたが「連還体」という形式だそうで、短編をつなぎ合わせて一つの長い物語になっている。
    27ある短編の語り手というのが原題にもなっている『金玉鳳凰』で、聞き手はとある国の王子。
    沈着さと強靭な精神を得るために雪山隠士を尋ねた王子が、遠い森に住む『金玉鳳凰』を捕らえて連れてくるようにと教わる。
    ただし、この神鳥に何を言われても決して口をきくなという戒めをともなって。
    ところが、この神鳥の話のひとつずつが大変面白くて、しかも「ここで止めたらだめでしょ」という絶妙のタイミングで止めるのだ。
    これはなかなか辛いものがある。
    王子でなくても、「で、それからどうなった?」とついつい聞いてしまうというもの。
    神鳥は続きを話してはくれるけど、そのたびに元の住処に舞い戻ってしまい、王子は毎度毎度苦労して捕らえに行くのだ。 

    結末は大体想像がつくかもしれないが、とにかくその神鳥の話の興味深いこと。
    王子のためにと様々な教訓を含んだ話なのだろうが、楽しさが際立っているので説教くささはみじんもない。
    行きずりの幽霊に気に入られてしまって親友になってしまった話とか、拾った銀貨を正直に持ち主に返したのに難癖を付けられたりとか。
    もっと面白いのは、たくさんのラマ僧が話に登場するのに、高徳の僧がひとりも出てこないこと。卑近なこと、この上なしである。
    それでも表現が格調高いので、あくどさや下品さなどは全然ない。

    著者が1954年にチベット代表団から聞き取った物語をまとめたものだという。
    挿絵は緻密で構成も素晴らしい太田大八さんのもの。
    おおらかで土のにおいのする民話集。
    一晩に一話ずつ読み進めて、長いこと楽しめた。

  • ★★★☆☆

    『かぐや姫の物語』を見た後、なんとなしにAmazonで関連書籍を検索していたときに見つけたのがこの本。

    アラビアンナイトのように、いくつもの短い話が、一本のストーリーによって数珠つなぎになっている。

    具体的にはある間違いを犯した王子が、より聡明になるために金玉鳳凰という神鳥を探しに行き見事それを捕まえ、帰り道において一言でも喋ると鳳凰に逃げられてしまうというルールがある中、鳳凰が王子に口を利かせようと面白い話をして聴かせるという形式。

    その中のひとつに『竹姫』という話があり、これが(タイトルからもうわかると思うけど)『かぐや姫の物語』の原作であるところの『竹取物語』とそっくりなのだ。

    どっちが先なのか、どっちがどっちに影響を与えたのか、ということを考える人もいるだろうけど、僕にとってはどうでもいいことで、むしろこれを読んで考えたのは、竹のすくすく育つ姿に我が子の成長する姿を見るというのはどっちが先とかは関係なく人間として非常に健全なことだなということ。

    親は我が子によりよく育って欲しい一心でいろいろなことを学ばせるわけだけれど、親の心子知らずというか、たいていそういう試みは子供の反発を生む。

    旅の帰り道で王子は金玉鳳凰の話があまりに面白いので続きをもったいぶられると「それでどうなったんだ」と口を利いてしまう。

    それで何度も鳳凰を捕まえては口を利いてしまい逃げられ、また捕まえては口を利いてしまって逃げられを繰り返すのだが、実は鳳凰はその面白い話を語ることを通じて、王とはどうあるべきか、国を治めるとはどういうことかを若い王子に教育していたのだ。

    人はなぜ物語を聞きたがるのか。

    それはきっと人間は物語という形式に落とし込まなければ物事を理解できないからではなかろうか。

    あらゆるジャンルに「マンガで読む◯◯」という入門書があるのは身近な例だと思うし、道徳を教えるために怪談話などの形式で語り継いできたのもそういった例のひとつだろう。

    それは一見遠回りでありながら実は一番効果的である。

    旅人の服を濡らしたいなら、土砂降りにして雨宿りされてしまうよりも、深い霧の中を長い時間歩かせた方がいい。

    金玉鳳凰が語る話はどれもワクワクさせるものばかりだ。

    後に何が残るのか、なんて考えて読むより、純粋に楽しい時間を過ごすためにこの本を開いて欲しい。

  • はるか遠い地から金玉鳳凰を連れ帰る定めを負った王子。首尾よく鳳凰を捕らえた王子だが、無事連れ帰るためには、鳳凰と口をきいてはいけないことになっていた。捕らえられた鳳凰は、王子に物語を語り始める――。
    小2の娘にすすめられて読んだら、予想外におもしろかった。鳳凰が実にいいところで話をやめるので、王子はつい先を問いかけてしまうのだ。私だって「それでどうなったの!?」と叫んでしまうに違いない。
    王子は何度も鳳凰を捕まえ、鳳凰はそのたびに物語を語る。この物語の連なりが話の中心をなしていて、ちょうどアラビアン・ナイトのような構成だ。それぞれの物語は昔話だったり伝説だったりするのだが、話の選択や構成には一定の意図が感じられ、人の手が加わっていることがわかる。そこもまたおもしろい。

    さて本書中の竹娘の話は、『竹取物語』にそっくりである。これはいささか驚きであった。
    私の知るかぎり、日本には求婚の難題をテーマにした昔話がほとんどない。グリムによくある、「謎を解けばおひめさまと結婚、失敗したら死」というヤツだ。ほとんどないが少しはあって、『竹取物語』はその数少ない例のひとつだと思っていた。竹取物語自体は昔話ではないが、求婚の難題のバリエーションであり、原型は民間に流布していた昔話であろう…と考えていたのだ。
    しかし原型が国外から来たものだとしたら、民間には流布していなかったのだ。やはり、日本にはこのタイプの話が決定的に少ないのだ。それはなぜなのか?非常に興味深い。
    そして「竹娘」を完成形として考えたとき、『竹取物語』はそもそも求婚の難題のバリエーションではないのではないか、という気がしてきた。いい考えだと思っていたのに…。残念。

  • 金玉鳳凰が物語りを話す。話が佳境に入ったところで,だんまり。王子がたまりかねて話しかけてしまう。そうするとこの鳥はサラの森に飛び帰ってしまうのだ。しかし,何度でも捕獲できるので,話が繰り返していく。いったいどういう結末を迎えるのだろうか。どこまで繰り返すのだろうか。いらいらしてきた。2010.1.5
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    王子がようやく我慢できるようになってくれて,良かった。2010.1.13

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著者プロフィール

君島久子 栃木県に生まれた。慶應義塾大学卒業、都立大学大学院修了。武蔵大学教授をへて、国立民族学博物館教授となる。中国民族学、文学を専攻、特に民間伝承および児童文学を研究。中国、東南アジア、日本を含めた広いアジア地域での比較研究をすすめている。1965年、『白いりゅう黒いりゅう』(岩波書店)、1983年、『中国の神話』(筑摩書房)で共にサンケイ児童出版文化賞を受賞。また1976年、『西遊記上・下』(福音館書店)で日本翻訳文化賞を受賞した。そのほか『ほしになったりゅうのきば』『たなばた』『しんせつなともだち』(福音館書店)、『チベットのものいう鳥』『王さまと九人のきょうだい』(岩波書店)、『アジアの民話』(講談社)、『月をかじる犬』(筑摩書房)など多数の著訳書がある。大阪府在住。

「2020年 『あかりの花 中国苗族民話』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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