緑色の太陽: 芸術論集 (岩波文庫 緑 47-2)

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  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003104729

感想・レビュー・書評

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  • 岩波文庫 高村光太郎 「 緑色の太陽 」芸術論集

    全体的にわかりやすい。彫刻鑑賞の第一歩」「彫刻十箇条」は 馴染みのないブロンズ彫刻への興味をかきたてられる。面白かった


    ブロンズ彫刻は 人間の生命を造形した芸術であり、立体感や肉感の持つ圧倒的な実存ということだと思う。著者が 近代彫刻のはじまりとした 荻原守衛 のブロンズ彫刻の実物を見てみたい


    著者が日本の美の源泉としてあげた芸術作品は見てまわりたい
    *埴輪の美〜清らかさの美
    *法隆寺金堂の壁画〜節度の美
    *法隆寺の夢違観音(観世音菩薩立像)
    *神護寺の薬師如来立像
    *藤原期の仏画〜交響楽的彩美
    *能面〜喜怒哀楽のいずれでもなく、いずれでもある奥深い含蓄性


    「父との関係」について、光雲の代表作「老猿」を彫刻的面白さがなく幼稚な表現形式というのは厳しすぎ


    「彫刻鑑賞の第一歩」
    *彫刻美の本質〜色彩のないところ
    *彫刻から来る感動は 視覚で経験する触覚〜物の実在
    *彫刻的表現〜永遠に生命ある生物
    *作品の背後にある作家の高邁な精神力


    「彫刻十箇条」
    *彫刻の本性は立体感にあり、彫刻のいのちは詩魂にある〜立体感はあらわれであり、詩魂はいのちである
    *構造を思え、構造なきところに存在なし
    *姿勢は河の如く、動静は水の流の如く〜姿勢を貫くものは動勢である
    *肉合に潜む彫刻の深さ

    「人の首」
    著者の造形目線がとても面白い
    *首すじは最も人間らしい
    *鼻と口の関係は人の本性
    *顎の美しさは最も彫刻的
    *頭蓋部は、最も動的なその人の内心の陰影

    「手」
    手には未知の性質が匿されている
    触覚だけではたりない
    触覚は自律性をもっているかに見え
    指頭の触覚は文化を無限に洗練される














  • 是ほどに気高く在りたい、
    人間として。


    高村光太郎ですら、自分の「詩」が、いわゆる「詩」なのかという事に対しての懐疑があったという。こういう不安は、光太郎の領域にいっても付き物であるということなのだと認識を改めた。従って、光太郎の「詩」を、「詩」だと認めたのは、やはり光太郎ではなく、とにかく「必然」によって出来上がったものが、「詩」と呼ばれたということだろう。我々に出来るのは、この「必然」を、「見誤らない」ことくらいのものか。

    光太郎ですら、あれだけ芸術・文学に造詣のある光太郎ですら、自分の「詩」と呼ぶものを、「詩」だと断言できる「基準」を持っていなかったのだ。これはあまりに不安を掻き立てる発言であるが、しかし考えてみれば、「書」においても、何が「書」で、何がそうでないのかというのは、わかっているようでわかっていない。

    当人が「書作品」を書いたつもりでも、またその造形に古典的な裏付けがいくらなされていようと、「書作品」でないものなど、腐るほどに見て来た。だから、それが「詩(または書)」であるという基準は、結局は当人にはわからないのだ。もし本人が、「これは詩です」と自身ありげにそれを差し出しているのだとしたら、それこそ疑った方が良い。「詩」の定義などというものはない、制度もない。詩を詩だと言えるかどうかの基準は、詩作品そのものの中にしかない。

    でも思えば、人生も「これでいいのか」という問いは一生終わらないものだ。だから、「これが生です」と断言した時点で、「生の発展」は止むことになる。それと同じで、「これは詩です」と自分で断言すれば、そこでその人間の詩の発展は止む。

    もしかしたら「アート」というのはこうした「答えのない問い」への「答え」を探し続ける行為なのかもしれない。少しでも「答えらしきもの」に接近するという心がけのことを言うのかもしれない。そしてその方法は、暫定的な「答え」を出し続けていくことしかないだろう。その時点での「答え」を出さないことには、行き詰まりが見えないから。行き詰まりが見えないことには、発展も、反省もない。


    だから出来ることといえば、とにかくたくさんの詩にあたること、そして何をもって「詩」とするのかということを見定める眼を養うこと、そして勿論技術を身に付けること。そうして、少しでも自分が「詩」だと思って書いたものが、「これは詩だ」と断言できることに接近できるように、情報、完成、判断基準を備えること。今すべきことはそれしかない。そしてそれは書においても同様であることは確認するまでもないが。

    だから自分の「書」や「詩」の判断においては、誰の眼も頼ってはいけないということだ。自分の判断で作り続け、見つづけること。誰かが「これは書だ」「これは詩」だと言っても、それで安心していたらダメだ。その人は、責任が取れない。

    それは「人生」においても同様。人の評価や受けで、自分の人生を絶対に判断しないこと。「自分の実感」と「充実」だけを物差しにすること。「安易な正解らしきもの」「賞賛」を、物差しにしないこと。それが「本当」かどうかは、自分の内奥だけが判断できる。「自分の内奥だけしか、それは判断できない」それが必ずしも、他人の評価軸と同様かどうかはわからない。外れる場合が多いだろう。自分の「実感」「詩」だけが、それが「本当」なのかを知ることが出来る。「実感」だけが。

    自分の「眼」でしっかりと判断すること。高村光太郎はそれをやり切っている。一生不安に身を置いて、徹底的に自分を疑っている。



    ーーーーーーーーーーーーーーーー

    詩は言語活動のお祭りではない。詩は言葉そのものの生まれてこなければならなかったその源初の要求にいつでも眼覚めている者の言語活動の最も純粋な瞬間における記録である

    平常世人は実用語に慣れて真の言葉の生活を忘れ、その表面に附着した浅い層のみで用を足している

    計画せられた知能のみに由っては果されない。詩とは殆ど生理にまでとどくほどの、強いやみがたい内部生命の力に推された絶対不二の具象による発言であって、ああも言える、こうもいえるという中の選択ではない

    詩の内容と言うのは言葉で表わされた意味のことではなくて、詩人がそう書かねばならなかった気概なり、感覚なり、詩心のことである。

    詩はもとより高度の感激から生まれるが、その高度の感激を言葉に形象化するにあたっては最も深い智慧を要する。それは計画せられた知能によっては果たされない。詩とは殆ど生理にまでとどくほどの、強い、やみがたい内部生命の力に推された絶対不二の具象による発言であって、ああも言える、こうも言えるという中の選択ではない。まして気随気儘な思いつきなどでは決してありえない。感激の深さは詩の深さとなる。しかしそれはただ一刻の衝撃の烈しさを意味しない。即ちそれは詩人の全生涯から来る積み重なった体験の下に醞壌せられた魂の深さを意味する。発言された詩の言葉は人生の地下鉱脈のほんの一点に過ぎない。人はそれによって人間精神の幽暗理に形成せられた無限の新しい事物を発見する。この深さから出ない詩は詩であるかいがない。


    精神の高さというものは、作の巧拙に関しない。どんな幼いようなものにも、それがしん自己の内奥から促されたものにはおのづから魂のひびきがきかれる。…詩がいつまでも幼稚であっていいというのではない。成長すれば成長するほど、複雑微妙になればなるほど、技術の高度化が加われば加わるほど、猶更思わくを絶した絶対境につきすすまねばならない。それが詩の悦びである。有意識無意識をふたつながら超えたところに詩の真の技術は行われる。

    普通に人は、詩運動の衝動によって詩を書く人が詩人であると考える。私は、詩精神の衝動によって書いたものが必然的に詩になる人を詩人であると考える。同じように聞こえるが、いささか違う。あらかじめ詩なるものを書こうとしてかかる人は、新旧にかかわらず、詩というものの類型に堕しがちだ。書いたものが必然的に詩になる人にしてはじめて、ずばぬけた生きた詩が出来るものだと考えるのである。西欧の詩法にしても漢詩の平仄や韻にしても、法則というよりはそれが言葉の最善の努力として必然的に出来たものと解したい。

    人間の捉えがたい「気」を、言葉をかりて捉えようとするのが詩だ。気は形も意味もない微妙なもので、しかも人間世界の中核を成す。詩が言葉に乗り移った「気」である以上、詩を言葉で書かれた意味にのみ求め、情調に求め、音調にのみ求めるのは不当である。詩は一切を包摂する。


    詩は言葉そのものの生れなければならなかったその原初の要求にいつでも目覚めている者の言語活動の最も純粋な瞬間における記録である。
    →これ以外は遊戯。それだけ技巧があれど、それを心に留めること、またそれを瞬時に判断できるだけの「眼」を養うこと


    ある詩的領域が文学的に存在していて、その神日を世代と共に新しく継ぐために詩作するという態度は、新体詩発生以来連綿として超現実主義の人々にまあで厳然と遵法されている聖地のように見える。形式の変遷にもかかわらず、この種苗は断絶していない。こういう見方からすれば私の詩は詩でないであろう。私はポエジーのために何の寄与もしていない。この形式でなければどうしても昇華し得ないものが自分の肉体と精神とに鬱積して来るのでやむを得ず書いている。そうしてできたものを自分では詩と呼んでいる。これが文学的にどういう意味を有し、どういう位置を持つかは、事後の問題である。

    →僕もこれに近い。「詩」から入ったというよりは、「言語」から入った口だからか。だから、特に自分の「詩」と呼んでいるものが、「文学史上」的に、どうとか、気にする必要もないか。それを必然において、出しているかの方が、光太郎の言う通り、よっぽど大事。またその意味での「開き直り」も大切かもしれない。そただその分、「誠実」ではあらねばならぬ。


    詩は表現以前には存在しないからである

    私はいわゆる「詩」を追わない。日本における「私的」という、あの一種の通念をふみにじる。そういうものを洗い去る。私は自己の必然ののみ頼る。私にとってこの世は造形である。

    普通に人は、詩精神の衝動によって詩を書く人が詩人であると考える。私は、詩精神の衝動によって書いたものが必然的に詩になる人を詩人であると考える。

    あらかじめ詩なるものを書こうとしてかかる人は、新旧に関わらず、詩と言うものの類型に堕しがちだ。書いたものが必然に詩になる人にしてはじめて、ずばぬけた生きた詩が出来るものだと考えるのである。

    極めて初歩の人たちには、天からうけた詩の精神が割合に害されずにいることが分かる。ただそれが文字の上にうまく表現されないのである。言葉をあやつることに馴れてくると、いつのまにか初めの精神を忘れがちだ、詩作はどちらでもうまくゆかない。

    私が詩を書くのは実にやむを得ない心的衝動から来るので、一種の電磁力鬱積エネルギー放出に外ならず、実はそれが果たして人の言う詩と同じものであるかどうかさえ今では自己に向って確言出来ないとも思える時があります。
    →高村光太郎でもそうなのか・・

    私は生活断崖の絶端をゆきながら、内部に充ちて来る或る不可言の鬱積物を言語造形によって放電せざるを得ない衝動をうけるのです。

  • 詩について、彫刻について、光太郎の考えが分かりやすく素直な言葉で表現されていました。
    特に、p.209に載っている書「うつくしきもの満つ」。非常に光太郎らしい言葉だと思いました。
    また、本書では生化学者オパーリンが思いがけず登場します。生命の起源の研究に少し関係があった私としては、嬉しい出合いとなりました。

    ※詩ではないのですが、詩人の著書ということで、詩のカテゴリにいたしました。

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著者プロフィール

詩:詩人・彫刻家。高村光雲の長男。東京美術学校卒業後、欧米に留学してロダンに傾倒。帰国後、「スバル」同人。耽美的な詩風から理想主義的・人道主義的な詩風へと転じる。代表作:「道程」「智恵子抄」「典型」「ロダンの言葉」等。


「2013年 『女声合唱とピアノのための 組曲 智恵子抄』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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