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この作品からのみんなの引用
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――失はれたものはかへつて来ない。
なにが悲しいつたつてこれほど悲しいことはない
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今では女房子供持ち
思えば遠く来たもんだ
此の先まだまだ何時までか
生きてゆくのであらうけど
生きてゆくのであらうけど
遠く経て来た日や夜の
あんまりこんなにこいしゆうては
なんだか自信が持てないよ
― 213ページ -
私は随分苦労して来た。それがどうした苦労であつたか、語らうなぞとはつゆさへ思はぬ。またその苦労が果して価値のあつたものかなかつたものか、そんなことなぞ考へてもみぬ。
とにかく私は苦労して来た。苦労して来たことであつた!そして、今、此処、机の前の、自分を見出すばつかりだ。じつと手を出し眺めるほどのことしか私は出来ないのだ。
外では今宵、木の葉がそよぐ。はるかな気持の、春の宵だ。そして私は、静かに死ぬる、坐つたまんまで、死んでゆくのだ。(「わが半生」)
みんなの感想・レビュー・書評
中原中也には希望がない。読むんじゃなかった。太宰のような、照れ由来の諧謔もない。このふたり、犬猿の仲だったようで。もっとも、太宰はへらへらしてたんだと思う。同時代の詩人として、感じていることは同じだったと思う。中原が「もうだめだ、悲しい」という諦めの詩を書くところを、太宰は「それは桃の花のようだ」という。
以下、wikiからの引用。
中也は酒癖の悪さで知られ、同席した太宰治に対し「お前は何の花が好きなんだい」と訊ね、太宰が泣き出しそうな声で「モ、モ、ノ、ハ、ナ」と答えると、「チエッ、だからおめえは」とこき下ろした。
やっぱり、太宰がいいのでしょう。
詩集は読んでるといつの間にか眠ってるから、気が向いたときに二三編読んでみるというのを昔から繰り返しているので、生きてるうちに全部読み終わりたいなあというスタンスで読んでる。
中原中也の詩はどこか童話的だけど、痛々しい感じが好きです。
どんな風に脳味噌ひっくり返したら、こんなメランコリックでドキッとするような擬音語が出てくるんだろう……。リズム感も素敵。
言葉の選択の秀逸さに鳥肌が立ちます。
青年は全員読むべきとも称される詩人です。今の季節読めば、しみじみ五臓六腑に染みわたる。この詩で酒が飲めるぞ。
著者の感性にはこの年になっても驚かされる。アルチュール・ランボーの詩に感じが似ているし、夭折した点も似ている。鋭さで他を圧倒していると思う。
中学時代に友人が好きだったことから、仲間内では「中二病の代名詞」扱いされている不遇の詩集。
中でも『骨』は教科書に載るほどだから名作だろうに、授業では完全にスルーされていた。何故だ。教えにくいのか。
「朔太郎の『竹』の方が病的」とは別の友人の意見。
そして何も考えずに読んでた私(笑)
有名なのになかなか読む機会がなく、30近くなってから読んだ。
読んだ印象は漢字がとても魅力的に使われている、ということ。
思い出すと気分が高揚するような詩もあって、もっと深く読みたい詩人である。
「在りし日の歌」より「湖上」の一節、「月は聴き耳立てるでせう、すこしは降りても来るでせう、われら接唇(くちづけ)する時に 月は頭上にあるでせう。」が印象に残っている。読み終わった時に鮮烈に何かが塗り替えられたような衝撃を、もう何度でも味わい続けている。きっと何十年経って読み返してもそうなのだろうと思う。父母の世代、祖父母の世代が今読み返しても、ぐっとくるものなのだろうなぁ。生まれ変わってもまた読みたい。
詩の端々から寂寥、孤独、喪失、死とかのイメージが感じられる。
『汚れっちまった悲しみに』
汚れちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる
汚れちまった悲しみに 今日も風さえ吹きすぎる
汚れちまった悲しみに たとえば狐の皮衣
汚れちまった悲しみは 小雪のかかってちぢこまる
汚れちまった悲しみは なにのぞむなくねがうなく
汚れちまった悲しみは 倦怠のうちに死を夢む
汚れちまった悲しみに いたいたしくも怖気づき
汚れちまった悲しみに なすところもなく日は暮れる
試験の帰りに高田馬場の古本屋で買った。
今の僕にはグッとくるものがなかった。
皆が感動する言葉に感動できないのは本当に悔しい!
色々な意味で、思い出がある本です。
壊れそう。
私にとっては、絵を観るのと同じようなものです。
自分と向き合う苦しみ、心の叫びを、壊れそうではかなくて美しい言葉で綴っています。中也からランボーやヴェルレーヌを読むことに繋がった。10代の時にとても影響を受けました。
高校生の頃、学生鞄にしのばせていた一冊。
ぱらりと開いたページからたちのぼる、中也の世界。
「月夜の晩にボタンがひとつ〜〜〜」
逃避してたのかも。







