ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代 上 (岩波文庫 赤 405-6)

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  • Amazon.co.jp ・本 (266ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003240564

感想・レビュー・書評

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  • 著者、ゲーテ、どのような方かというと、ウィキペディアには次のように書かれています。

    ---引用開始

    ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe、1749年8月28日 - 1832年3月22日)は、ドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者(色彩論、形態学、生物学、地質学、自然哲学、汎神論)、政治家、法律家。ドイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』、叙事詩『ヘルマンとドロテーア』、詩劇『ファウスト』など広い分野で重要な作品を残した。

    ---引用終了


    で、本作の内容は、次のとおり。

    ---引用開始

    『修業時代』の続篇である本書は、「諦念」を主題とした、ゲーテ(一七四九‐一八三二)最晩年の豊かな英知に満ちた作品である。主筋に数篇の挿話と二つのアフォリズム群をはめこんだ独特のスタイルを持ち、底知れぬスケールを感じさせる「大作」である。新訳。

    ---引用終了


    さて、昨日の聖教新聞(2023年1月9日)によると、本作には、次のような記述があるようです。

    「鍛冶屋は、火を吹きつけて、鉄の棒から余分なものを取り去って、鉄を軟らかくする。鉄にまじり気がなくなると、それを打って鍛える。そして水という異質な養分によって、ふたたび強くなる。それと同じことが、人間にたいして師によって施される」

    ゲーテが出会った人物で、ゲーテに好影響を与えた人物に、ヘルダーがいます。
    そのヘルダーは、ウィキペディアに次のように書かれています。

    ---引用開始

    ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(Johann Gottfried von Herder, 1744年8月25日 - 1803年12月18日)は、ドイツの哲学者・文学者、詩人、神学者。

    カントの哲学などに触発され、若きゲーテやシュトゥルム・ウント・ドラング、ドイツ古典主義文学およびドイツロマン主義に多大な影響を残すなどドイツ文学・哲学両面において忘れることの出来ない人物である。

    ---引用終了

  • ドイツの文豪ゲーテ(1749-1832)の長編小説、1829年。「諦念のひとびと」という副題をもつ。『修業時代』(1796年)の続編。本筋、挿話、アフォリズムからなり、本筋との関係が一見不明瞭な挿話が長々と続いたり、挿話に登場した人物がいつの間にか本筋にも現れていたりといった具合に、前作以上に構成が錯綜しており、とても整序されているとは言い難い。



    『修業時代』では、近代ブルジョワ社会が人間に強いる疎外を、全体性の回復によって克服しようとするロマン主義的な問題意識が見られた。そうした問題意識は、『遍歴時代』でも依然として保たれてはいる。本作でも人々に彼らの「ありのままの自己」を現前させるマカーリエが肯定的に描かれていることから、それはわかるだろう。なおマカーリエについては、太陽や星々との超自然的なつながりが仄めかされている。

    「あの素晴らしい人が、道徳的な魔法の鏡を掲げて、そこに映る混乱した外面の姿を通して、誰か不幸な人に、その人の純粋な美しい魂を示してやり、突然、初めて、自分に満足させ、新しい人生に踏み出させた例を、私はいくつも知っているからです」(中巻p129-130)。

    「立ち寄るすべての人のマカーリエにたいする関係は、信頼と畏敬に満ちたものであり、誰もが一段高い存在と向かい合っていると感じたが、しかし誰もが、彼女の前に立つと、少しもこだわりなく、自分のありのままの姿を現すことができた」(下巻p239)。



    しかしこの『遍歴時代』では、あるべき人間の姿について、『修業時代』のそれとは異なる新たな理念が示されているように思う。則ち、全面的教養人から、一面的職業人へ。個人の全体性から、諸個人の協働性へ。芸術家の創造行為による世界の美的浄化から、専門的職業人の社会的分業による人類社会の改良へ。

    「以前はそういうこと[多面的な教養が有利であり必要だということ]もありえた。しかし多面性は、もともと、一面的な人間が、それによって働くことのできる要因をととのえるにすぎない。今こそ、一面性の時代なんだ。[略]。もっともすぐれた頭脳にとっては、ひとつのことをなすことによって、すべてのことをなす、ということになる。もっと具体的にいえば、彼の正しくなすひとつのことのなかに、彼は、正しくなされるすべてのことの比喩を見る、ということになる」(上巻p58-59)。

    「ひとつのことを正しく知り、それを行うことは、百もの中途半端よりもよく人間を形成します」(上巻p250)。

    この転換は、『修業時代』において示唆されていた古典主義的な「市民」という理念を、現代へと一歩近づかせたものであるように思う。以下のトーマス・マンの言葉は、本書の核心を突いている。マンによると、副題にある「諦念」とは、全体性という理念がもはや不可能となった事態を指しているということになる。

    「私たちが市民的人間性の名のもとに理解しているすべてのもの、すなわち、[略]、古典的、市民的文化概念から、私たちを遠く連れ去ってゆく理念が、この書物のなかには稲妻のようにきらめいている。個々の人間の全面性の理念は捨てられ、一面性の時代が宣言されている。個々の人間は不十分なものであるという今日支配的な考え方がそこにはある。すなわち、総体としての人間が初めて人間的なものを完成するのであって、個々の人間はひとつの機能にすぎない。個々の人間によって、文化のために何がなされうるのかが疑問とされ、共同体、「連帯」、共有という概念が現れてくる」(上巻「解説」p260)。

    この理念の転換を具体的に示すうえで持ち出される対比が興味深い。則ち、人間の肉体美を再現前させる彫刻家の芸術性と、人間の身体を物質的な機能に分解する解剖学者の有用性との対比である。新しい時代においては、前者よりも後者こそが求められているのだと。芸術は有用な手仕事にならなければならないと。

    「師匠は、柔らかな材料で、古代の青年の美しいトルソーを象り、ついで、この理想的な形姿から外皮をはぎ取り、美しい生きたものを、推察を働かせて、現実的な筋肉標本に変えようとしたのであった」(下巻p41)。

    「習い覚えたことを美の表現に用いることがまったくできなかったので、人の役に立つ道を選びました。[略]、[人体模型が]有用であることが認められるようになれば、きっと多くの造形芸術家が、私がしたように、向きを変え、信念と感情にそむいて嫌な手仕事をするよりは、あなた方の手助けをしてくれるでしょう」(下巻p42)。



    この新たな理念として提示された人間は、専門的能力と職業倫理を身につけ、自らを専門的職業人の有機的連関のうちに有意味に位置づけることによって、人類共同体における不可欠の機能として、生の意味を充足させようとする。個人の人格の全体性を目指すのではなく、人類社会という協働性の一部として自己を実現させることによって。

    「ぼくは、機械工業よりは、力と感情が結びついて行なわれる直接手でする手仕事のほうが好きだった。[略]。こうした屋内工業は、すべての地域に特殊な独自性をあたえ、すべての家族に、また、いくつかの家族からなる小さな団体に、決定的な性格をあたえる。ひとびとは、生命ある全体という純粋な感情のうちに生きている」(下巻p55)。

    「なんといってもぼくたちは、自分の作り出したすべてのもののうちに、自分を映し出しているんだからね」(下巻p56)。

    ところで、これはまだ手工業が優勢だったころの物語である。つまり、未だ生産過程の合理化が不徹底であり、技術の発達も不十分であった。それゆえに、専門的な知識や技術をもった職人が機械に置き換えられずにいた。だからこそ、彼らの職業人としての交換不可能性が辛うじて保たれていたのである。そうであればこそ、専門的職業人として自己同一性を確認することができた。

    しかし、マルクスが活躍する19世紀後半に工場制機械工業が支配的となると、労働者は交換可能な一機能へと徹底的に矮小化され、ゲーテにとっての理想であった専門的職業人は職業倫理を忘失した「精神なき専門人」に頽落する。こうして、人間は世界との有意味な関係性から切断され、生の意味をより徹底的に喪失することになる。ゲーテがここで掲げた専門的職業人という理念は、資本主義が本格的に工業化する直前の時代であればこそ可能なものであったと言える。

  • 高速あらすじ

    岩山でヴィルヘルムとフェリクス父子、イエス一家エジプト避難のような不思議な一家と会う。
    妻ナターリエへの手紙。結社の義務。3日以上同じところに止まっては行けないなど。忠実に守る。
    ヨセフ一家の話。礼拝堂と僧院の管理者兼大工。聖ヨセフの絵を幼少より身近で見て暮らし、模倣する敬虔な人。美しい身重のマリーと出会い結婚した話。
    46 ちびのうさんくさいフィッツ。しばしの旅の友
    47 かつての友ヤルノ(今は名前を変えモンターン)との再会。石の研究。
    多面的より一面的がよい。手仕事が最初で、そこから芸術が生ずる。ひとつのことをなすことによって、すべてのことをなす。ひとつのことで全ての比喩を見る。
    60 諦念者の義務。過去も未来も話してはいけない。現在のことだけ。
    64ヴィルがお守りのように持ち歩いている手術道具
    68巨人の城の洞窟で、フェリクス、美しい小箱を発見する
    フィッツの案内で大農園に向かう道で、格子の罠によりふたり捕まる。手厚く迎えられる。罠は土地の主人が盗人からこの地を守るためのものだった
    78 邸宅の主の姪、姉のユリエッテ、妹ヘルジーリエ。
    フェリクス、ヘルジーリエに惹かれる。ヘルジーリエも嬉しく思う。父子に彼女が訳した物語の原稿をあげる。時々こんなふうになりたいと思うという。『気のふれたさまよう女』美しい遍歴の女性が館の父子にそれぞれ恋され、自分の徳性を2人に疑わせることで誰の徳性をも損なわないでいられる手段を考える。偽りの妊娠を告白。怒り、失望した父子だったが彼女の徳性を悟り、彼女を探すがもはや見つからなかった
    108 ユリエッテ、ヘルジーリエ姉妹には三年留守にしている従兄弟レナルドーがいて、もうじき戻ってくるとのこと。近くの自分の居館に住んでいる、一家の守護神、太古の巫女のように神的な言葉を表明する力のある伯母マカーリエの話。伯父は実際的なものを目指す優れた人物。夜、この家族の相互の書簡を読ませてもらう。
    ヴィル父子、姉妹の頼みでマカーリエと従兄弟のところへ出発。
    144 第八章 挿入話。ある父子の話。やもめの父教授は息子ルチドールに、郡長であり親しい友の2人の娘のうち、妹ユーリエとの婚姻を望んでいる。息子は姉のルチンデを愛する。ユーリエはひょうきん、楽しい子で教授のお気に入り。ルチンデは清らかで女性らしい。ルチドールには夜1人部屋で激情に駆られて独り言を叫ぶ癖がある。結局家族はこれを聞いていて、全てうまくいくよう取り計らわれる。
    194 ヴィル父子、マカーリエ邸に。気品高い初老の婦人。ひとりひとりの内面の自然を見ているような。
    家の友で感じのいい夫人アンゲラ
    206 ヴィル、天体観測。星の下で眠り、マカーリエが星になり、登っていき、星空全体と一つになり、それが広がって全てを包み込む夢を見る。
    209アンゲラが管理する数多くの文庫の話。何気ない会話から飛び出す優れた思想の書き留め
    マカーリエについて。マカーリエからレナルドーの話
    217ヴィルとレナルドーの会話。彼の気がかりな栗色の娘「ヴァレリーネ」。彼女の小作人の父(敬虔派、田園静寂派)は伯父により追い出されることが決まり、父と娘破滅の危機。娘はレナルドーに嘆願。レナルドー、深く感銘を受けるがその印象は次第に薄れ、放ったらかしにする形になり、あの娘はどうなったのだろうと不安と後悔。これが彼が帰還をためらってる1番の理由だった。
    231 ふたり、今は結婚しているというヴァレリーネに会いに。立派な主人で幸せなのは疑いようなく、喜ぶ。が、帰ってきた彼の妻はかの人ではなく、領事裁判官の娘だった。かの小作人の娘の名前は実はナホディーネといった。
    235 レナルドー、ヴィルにナホディーネを探してくれるよう頼む。手始めにある立派な老人のもとに行ってくれるよう。彼はある教育団体を紹介してくれるからフェリクスにもいいだろう。
    244 老人宅。過去のものを大切にする人。例の小箱をここで預けることに。

    解説より。
    主要テーマである「諦念』について。個々の人間の思考、能力の全面的な展開に対する「断念」のこと。一面性の時代へ。個々の人間は不十分。総体としての人間が初めて人間的なものを完成するのであって、個々の人間は機能にすぎない。個々の人間によって、文化のために何がなされうるかが疑問とされ、共同体、連帯、共有という概念が現れてくる。(トーマスマンの見解。
    この小説の中で語られるゲーテの三つの夢。すなわち、教育州(キリスト教を基礎とし、農耕牧畜に基づいて、各人が自分に適したひとつの業の習得に努める)、アメリカへの移住(その地の近代国家の建設)、人間の理想的形姿としてのマカーリエ。

  • 前回作品も読みにくいけれども、いよいよ読みにくくなりましたよ。
    とりあえず、秘密結社に入ったヴィルヘルムは息子と一緒に遍歴の旅に出たという事だね。

    まぁこの作品にケチをつけてもどうしようもないのだが、こうした作品は貴族層を対象に読まれていたのだろうと思う。
    もちろん時代が時代だから仕方がないんだけど。だから、極めて限定的な層にしかこうした小説はあてはまらないわけで今の自分たちに
    直接この内容をあてはめるわけにはいかないんだろうねぇ。

  • 「非人間的な人を人間的に扱うことができるようになるまでには、実に長い道のりが必要だったんだ。」この件、通勤中に何度も頭の中で繰り返しました。詳しい史実は知りませんが、「目には目を」であった時代から、今日の「基本的人権」なるものが根付いた時代までには、当然数多の苦労と悲劇があったのだろうと。思いながらです。善を成しうる人たちを見かけたら大いに尊重したいです。

    ヴィルヘルム・マイスターの修行時代と遍歴時代を読んだ、私の勝手な感想は、ゲーテは、人間の本質と理想像を探し求めていたのではないだろうか、そしてそれらは、個人主義的なものではなく、協同主義で力を合わせ、皆がそれぞれ、どこかで何か人の役に立つといったものの上に成り立つと説きたかったのではないでしょうか。(大ゲーテ先生、誤解していたらごめんなさい。。。)

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    内容(「BOOK」データベースより)
    『修業時代』の続篇である本書は、「諦念」を主題とした、ゲーテ(一七四九‐一八三二)最晩年の豊かな英知に満ちた作品である。主筋に数篇の挿話と二つのアフォリズム群をはめこんだ独特のスタイルを持ち、底知れぬスケールを感じさせる「大作」である。新訳。

    wilhelm Meisters Wanderjahre by Johann Wolfang von Goethe

  • 多くの人が認める退屈さ。だが、この本を読んでから、旅行に行くとその土地の石ころをよく観察するようになった。

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