ガリレイの生涯 (岩波文庫 赤 439-2)

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  • Amazon.co.jp ・本 (309ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003243923

作品紹介・あらすじ

地動説の撤回をめぐって教会とガリレイとの間に起った歴史的事件は「それでも地球は動く」という伝説的名句とともに誰もが記憶にとどめているに違いない。ブレヒト(1898‐1956)はガリレイの人物と時代を知悉してそれを戯曲化し、ガリレイの生き方を問うことによってナチ時代を生きた作者自身の、そうして我々の生き方をも問うている。

感想・レビュー・書評

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  • 地動説を提唱したガリレイを題材に、科学者と権力の関係と、民衆が真理を求め変わっていく時代を描いた戯曲。


    私が今年読んだなかでは、思想的にギンズブルグの『チーズとうじ虫』に連なる作品。『チーズ〜』はジョルダーノ・ブルーノの死を予告して終わるが、本作でも当然教皇庁に逆らい殺された思想家として何度もブルーノが話題に上がる。そして火刑になったブルーノとならなかったガリレイの対比は全体のテーマに深い影を落としている。
    私はこの作品で描かれるガリレイの複雑さが好きだった。人間の理性を信じながら、実の娘の知性は全く信じていない。ペストのあいだも家に残り続けてくれた家政婦に感謝しながら、彼女の息子には言い訳してしまう。自身の研究費を得るためなら他人の発明も自らの手柄にし、教会やメディチ家にもおもねることができる打算高い人物。かと思えば、百姓たちのためにも〈世界という劇場〉に割り振られた役割を守り続けるべきだと語る修道僧相手に、「必然性とはあくせく働いて死ぬ必然性しかないのでしょうか?」と説き、ラテン語ではなく「民衆の言葉」で『天文対話』を書く。
    ここにいるガリレイは革命を志しているわけじゃないし、できれば教会の機嫌を損ねずに研究を続けたいと願っているが、だからといって小心でも意気地なしでもない、非常に多面的な人物だ。自説に殉死して英雄にならなかったがために、より現代的な科学者のイメージを投影できるキャラクターなのだとも言える。
    初稿ではガリレイが屈辱に耐え忍びながらも、長期的に見て〈正しい人〉だったというニュアンスで幕が閉じる作品だったという。だがアメリカから日本への原爆投下を受け、ブレヒトの科学者観が変化した。この経緯は巻末の「『ガリレイの生涯』の覚え書」で詳しく語られているが、「新時代」という言葉への懐疑的な意見をはじめとして2020年代に重ね合わせて読むこともできる文章だった。
    それでもやっぱり、本作前半で提示されるような理性と民衆の力を信じるガリレイ像は魅力的なのだ。サグレドとの問答で発せられる、「僕は理性が人間に及ぼすおだやかな暴力[ちから]を信じている」という言葉。百姓出身で物理学を学ぶ修道僧との対話。そして第9場の、「私の意図は、自分がこれまで正しかったかを証明することではなく、正しかったかどうかを見つけだすことだよ」から始まる、科学者のアティチュード表明のような長台詞。特に最後の一連には強く心動かされた。異端審問に呼びだされるまでのガリレイは、狡猾に教会の裏をかきながらも理想主義者であり続けた。これは単にガリレイの英雄的イメージを失墜させるために書かれたのでも、現代の学者を断罪するためだけに書かれたのでもない、普遍的な一人の人間の挫折の物語なのだ。

  • 20世紀ドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒト(1898-1956)による戯曲。1938年初稿を書き上げるが、アメリカによるヒロシマへの原爆投下の報を受け、1945年改稿。舞台は17世紀イタリア、自らが発明した望遠鏡による天体観測(木星の衛星、金星の満ち欠け等)に基づいて地動説を主張する天文学者ガリレイと、中世キリスト教神学の公式教義である天動説を固守する立場からガリレイに地動説を撤回させようとする教会権力との関係を軸に、科学的真理と政治権力との相克、ひいては科学そのものがもつ政治性(イデオロギー批判という機能、および解放の契機)を描く。



    まず印象的なのは、ブレヒトがガリレイの口を借りて、人間理性への信頼を、民衆が真理を志向することへの信頼を、naive なくらいに optimistic に語っている点である。

    「そうだよ、僕は理性が人間に及ぼす穏やかな暴力[ちから]を信じている。人間はいつかはその力に抵抗しきれなくなる。もし僕がこうやって石を落として、しかも石は落ちないと言ったら、どんな人間だってそのうち黙ってみちゃいられなくなる。人間はそういう時、黙っちゃいられないものなんだ。証明というものの及ぼす誘惑はあまりに大きすぎる。大抵の人間はすぐこの誘惑に負ける。時がたてばすべての人間が打ち負かされる。考えるという行為は人間という種族の最大の楽しみなのさ」(第3場、ガリレイ)

    「新しい思想のためには手を使って働く人々が必要なんだ。物事の原因が何であるかを知りたがる人は、こういう人々を措いて他にあるかい? 焼きあがったパンを食卓で見るだけの人は、それがどう焼かれたかなんて知る気はない。そういうやくざな奴は、パン屋より神様に感謝するというだろう。でもパンを作る人間なら、動かされないかぎり何も動かないということを理解するだろう。オリーヴの実を搾っている君の妹さんはね、フルガンツィオ、太陽が金色の貴族の紋章ではなくて梃子であり、太陽が動かしているから地球が動くのだ、と聞かされても、べつに大して驚きもせず、たぶん笑うことだろうよ」(第9場、ガリレイ)

    ガリレイが信頼する理性とは、健全な近代的懐疑精神のことである。

    「だってさ、何千年もの間「信仰」がでんと構えていたその場所を、今占領しているのは「疑い」だ。世界中がこう言っているよ、なるほど、本にはそう書いてある、だけどこの目でそれを見せてくれ、ってな。絶対の権威と思われていた真理が気安く肩を叩かれるようになった。これまで一度も疑われなかったことが、今では疑われている」(第1場、ガリレイ)

    「なぜかと自分に尋ねる、この疑いのなかに幸わせがあるんだ」(第9場、修道士)



    しかし、執筆当時のドイツは、ナチスが権力掌握を完了し国民から熱狂的な支持を得ていた時期である。それは明らかに非-理性への志向であった。このような情況にあって、ブレヒトも現実の民衆に対して絶望を抱いていたと想像できる。

    中世の目的論的世界観から近代の機械論的世界観へと変遷していく中で、世界は形而上学的な本質=意味=価値を喪失し、ただただ数量化されるだけの計量可能・比較可能・交換可能な、則ち sachlich な、存在者に成り下がった。存在者を世界の大いなる意味秩序のうちに位置づける価値基準が崩壊し、人間はそれまで世界において付与されてきた自己の存在理由を、則ち自らの生の意味を、喪失した。即物的な(無)価値観が瀰漫し、あらゆる存在者が、空疎で欺瞞的な概念=言語によって断片化され、道具的理性によって目的合理的連関の内に押し込められ、その全体性を喪失した。このようなニヒリズムという時代情況にあって実存的不安に駆られた人間が、「国家」だとか「民族」だとか「故郷」だとか「土壌」だとかという実に安直で白々しい術語の裡に、失われた全体性を回復してくれる契機を絶望的に幻視し、そうした虚偽意識=イデオロギーへと(ひょっとしたら、それが虚偽であると半ば気付いていながら、そんなことはお構いなしに)自らを没入させていった。そこには、ばらばらに原子化された匿名多数の個々人が、どろどろに溶融して自他未分離の状態となり、ヨリ大いなる虚構へと溶け込んでいこうとする、溶解炉のような集合意識への欲望があったように思われる。これが当時のファシズムへの熱狂ではなかったか。

    17世紀のヨーロッパでも、ガリレイの科学的懐疑精神による宇宙観の刷新は、中世的な意味秩序を掘り崩し世界を虚無化する企てとして、受け止められた。

    「人類の故郷を彼らは遊星と同じものにしてしまう。人間、動物植物をひっくるめた大地の王国を、やつらは荷車にのせて虚空の天にくるくるまわしながらほうり出した。彼らによれば、天と地はもはや存在しないという、大地は存在しない、なぜならそれは天の星のひとつにすぎないから。天は存在しない、なぜならそれはたくさんの地球から成り立っているからだ。上と下の区別も、永遠なるものと移ろいゆくものの区別も存在しないという。・・・。そのうち彼らはきっと、人間と動物の区別などは存在しない、人間そのものが動物であって動物しかいないのだなどと言いだす日がくるでしょう!」(第6場、ひじょうに痩せた僧侶)

    「あなたはこの大地を貶められた。自分がその上に住み、その大地から一切のものを受け取っておられるのに、あなたは自分の巣を汚されたのだ!・・・。私は短かい期間だけどこかを廻っているどこかある任意の星の、なにかある任意の生物ではない。私は確固とした大地の上を確固とした足どりで歩み、その大地は静止し、万有の中心であり、わたしは中心点にいる。創造主のまなざしは私の上に留まり、私だけの上に注がれている。私のまわりには八つの透明な殻に固定されて、恒星と、わたしの周囲を照らすために創造された太陽がまわっている。このようにして一切のものは、絶対に否定できぬほど明らかに、人間であるわたしにかかわっている。神の努力の結晶、中心にある被造物、神の似姿である人間、決して移ろわず、そして・・・・・・」(第6場、ひじょうに年とった枢機卿)

    ガリレイの科学的精神からすれば、真理にとって非本質的なものでしかないイデオロギー的配慮(政治的なものであれ実存的なものであれ)などというものは、一切考慮に値しない。このような純粋で非妥協的な構えが、既成概念の内に安寧を貪る同時代人には一層の脅威と映ったのだろう。

    「・・・、われわれは科学者として、真理がわれわれをどんな方向に導いていくかなどということは考える必要がありません」(第4場、ガリレイ)

    「・・・、真理を知らないものはただの馬鹿者です。だが、真理を知っていながらそれを虚偽というものは犯罪人だ!」(第9場、ガリレイ)



    形而上学の微睡みを裂開しニヒリズムという深淵を暴き出すガリレイ的企ては、二つの階層からの反発を惹き起こす。第一に、既成の虚偽意識に実存的に依存する被抑圧階層。彼らは現世で苦難の境遇に喘いでいる。自己の受難の無根拠性に対する実存的不安に耐え切れず、形而上的な「物語」を求め、それによって悲惨な自己の生に意味を補填し、以て自らを世界の中で釣り支えてもらおうとする。実存的弱さを抱えた者たち。

    「彼らには、神の目が彼らの上に探るように、時には不安そうに注がれていること、それに彼らのまわりには世界という劇場が構築されていて、彼らはそのなかでめいめいの大きい役、小さい役を演じながら自分の勤めを果たしているのだということは保証されているのです。もし私の信者たちが、私から、お前たちは何もない空間のなかで、他の星のまわりを廻っている、沢山の、それもかなりとるにたりない星のひとつ、ちっぽけな星のかけらの上にいるに過ぎないのだと聞いたら、彼らは何というでしょう! それなら今更何のためにこんな辛抱をするのだ、こんな悲惨な暮しを納得することが、必要で善なることなのだろうか? 一切のことを説き明かし、汗や忍耐や飢えや屈従など、すべての苦しみが必然的なものだと証明していた聖書が、今になって間違いだらけだったといわれたら、彼らは聖書なんて一体何の役にたってきたのだろう、と言うにきまっています。・・・。私には、彼らのまなざしに怖気が宿るところが見えます。彼らが・・・、これまでは全く裏切られ欺されていたのだなと感じるところがまざまざと見えます。じゃわれわれに目を注いでいるものはいないのですね、と彼らはいうでしょう。じゃわれわれは、こんなに物を知らず、年老い、くたびれてしまっているのに、自分で自分の面倒を見なければならないのですね。ひとり立ちもできず、まわりには何の星もまわっていない、ちっぽけな星であるこの地上でのみじめな役割のほかには、われわれの役割を考えてくれる方はいないのですね、それじゃ、われわれのこの悲惨な生活にはもう何の意味もない、飢えとはただ食物が食えないだけのことになってしまう。決してわれわれの力を験す試みにはならなくなります。骨折りも、ただ身を屈め、からだをひきずるだけのことで、神に愛でられる功績ではなくなります。・・・、私は聖省の出した教令から、母のような貴い慈悲と、大きな慈愛の心を読みとったのです」(第8場、修道士)

    第二に、既成のイデオロギーを政治的に利用する支配階層。形而上学によるイデオロギーは、支配層にとって有利な現行秩序が実は恣意的でしかないという身も蓋もない事実を隠蔽し、それがなにか普遍的で必然的なものであるかのように僭称することで、民衆に現状の正当性を思いこませようとする。民衆の受難は、決して形而上学的に意味づけられるものではなく、支配層によるただただ即物的な暴力に起因する。だから民衆は、本来ならば、自らの置かれた苦難を政治的事象として解釈し、現行支配層に対する反抗さらには支配-被支配関係の解消という革命的実践へと向かうべきところである。しかし、非科学的な形而上学的迷妄の裡に、我が身が受ける苦難を自ら進んで形而上学的に"納得"してしまっている。これは、既存の階級秩序を維持強化したい支配層にとっては、極めて都合のいい事態である。形而上学によって、民衆は、何が自分にとっての利益なのかという根本的な政治的認識とそれに基づく政治的実践の可能性を、予め簒奪されてしまっているのである。以下ではニーチェ的・マルクス主義的なイデオロギー批判が展開されている。

    「なぜこの国の秩序とはただ米櫃がからの秩序しかなく、必然性とはあくせく働いて死ぬ必然性でしかないのでしょうか?・・・。やさしい主イエスの代理人がスペインやドイツで遂行している戦争の金をまかなっているのは、カンパーニャ地方の農民なのですよ、なにゆえに教皇は地球を宇宙の中心に置くのでしょう? そうすれば聖ピエトロ寺院の玉座が地球の中心になるからですよ!・・・。美徳というものは貧困と結びついてはいないのですよ、君。・・・。現在では痩せた畑から、精魂つきはてた連中の美徳が作られていますが、私はそういう美徳は拒否します、ねえ君、わたしの新しい水揚げポンプは、彼らの滑稽で超人的な苦労よりも、もっと大きな奇跡を成し遂げてしまいますよ――「汝ら生めよ殖やせよ」と聖書にあるのは、畑が不毛で、戦争が君たちの数をどんどん減らすからじゃないんですか」(第8場、ガリレイ)



    ガリレイの科学的精神は、中世キリスト教形而上学に対して、イデオロギー批判としての機能をもち、その形而上学の下で抑圧され搾取されていた民衆を解放する可能性を有していた。一般に天文学などの自然科学は、泥臭い現実社会における政治的実践とは無関係の、観想的な理論理性による現実超越的な営み、価値中立的・価値自由的な営み、として捉えられているが、それは不可能である。17世紀という時代情況にあって、科学は極めて政治的に機能し得る可能性を有していた。

    それゆえにこそ、彼の擬装転向は批判されることとなる。なぜなら、政治権力に屈することで、彼の科学が支配層のイデオロギーに従属するものとなり、形而上学の無効化というイデオロギー批判の機能を放棄してしまったから。それによって、本来は科学に内在しているはずの民衆解放の契機を、彼自らが無化してしまったから。則ち、科学の政治的契機を十分に自覚せず、その革命的可能性を潰してしまったから。

    何事も、政治権力との緊張関係から逃れようとして、非-政治へと退却してしまうことは不可能である。なぜなら、当人が非-政治へと退却していると思い込んでいても、政治力学的な文脈においては、政治的中立というポーズそれ自体が、現状黙認・体制追認という身も蓋もない粗雑な政治性を帯びることになってしまうから。科学の場合、さらに悪いことには、政治権力に従属させられてしまった科学は、民衆を更なる苦痛へと追いやる支配の技術として、寧ろ民衆に対して疎遠なものとして対立することになってしまうだろう。

    「科学は知識を扱う、知識は疑うことによって得られる、すべての人のために、すべての事について知識を作り出しながら、科学はすべての人を疑いをもつ人にしようとする。ところで地上の大部分の人々は、彼らの領主や地主や聖職者たちの手によって、彼らの陰謀を覆い隠す煙幕、迷信や古臭いお題目という、真珠色にたなびく無知のもやのなかに包みこまれている。多数者が貧困に苦しむという状態は山々と同じくらい古くから変らず、また教壇や説教壇からはこの状態が山々のように不動不変のものだと説明されてきた。疑うというわれわれ流のやり方は大衆の心をとりこにした。大衆は望遠鏡を私たちの手からひったくって、それを自分たちを苦しめるもの、領主や地主や僧侶にむけた。これまで科学の成果をむさぼるもののように利用していた、利己的、暴力的なこのお偉方たちは、科学の冷たい目が同時に、何千年前から人為的につくられていた不幸の上にも注がれているのを感じた。この不幸は、明らかに自分たちお偉方が取り除かれることによって取り除かれるものだった。そこで彼らは、われわれ科学者を、しつこく脅したり買収しようとしたりした。・・・。しかしわれわれ科学者は、大衆に背を向けてもなお科学者でいられるだろうか? 天体の運動は以前よりずっと見通しがつけ易くなった。だが民衆たちには、支配者の動きは相変わらず予測できない。天体を観測するための戦いは、疑いによってかちとられた。しかしローマの主婦たちのミルクを求める戦いは、信心のおかげで何度も敗北を喫するに違いない。科学はね、サルティ、ふたつの戦いに携わらなければならないのだ」(第14場、ガリレイ)

    「私は科学の唯一の目的は、人間の生存条件の辛さを軽くすることにあると思うんだ。もし科学者が我欲の強い権力者に脅迫されて臆病になり、知識のための知識を積み重ねることだけで満足するようになったら、科学は片輪にされ、君たちの作る新しい機械もただ新たな苦しみを生みだすことにしかならないかもしれない。・・・。そして君たちと人類の溝はどんどん拡がって、ついには君たちが何か新しい成果を獲得したといってあげる歓喜の叫びは、全世界の人々がひとしなみにあげる恐怖の叫びによって答えられることにもなりかねない」(第14場、ガリレイ)

    「かつて私は科学者として唯一無二の機会に恵まれた。私の時代に、天文学は民衆の集る市場にまで達したのだ。この全く特異な状況の下で、ひとりの男が節を屈することをしなかったら、全世界を震撼させることもできたはずだった。・・・。だのに私は、自分の知識を権力者に引き渡して、彼らがそれを全く自分の都合で使ったり使わなかったり、悪用したりできるようにしてしまった」(第14場、ガリレイ)

    「教会(すなわち当局)はみずからとみずからの権威、抑圧と搾取を行うみずからの可能性を擁護するために、もっぱら聖書の教義を擁護した。教会の支配下で苦しんでいた民衆は、もっぱらガリレイの天体理論に興味を示した。ガリレイは自説を撤回した時、本当の進歩を放棄し、民衆を見殺しにし、天文学は再び専門領域、学者だけの活動領域になり、非政治的になり、現実から遊離した」(ブレヒトの日記より)

    何事も政治から逃れることはできない。科学は、民衆を形而上学という虚偽意識から解放するという、優れて政治的革命的な契機を内在している。科学の政治性ということを、もう一度強く意識する必要がある。



    ブレヒトの反英雄論が表れている科白をいくつか挙げておく。マルクス主義との関わりから出てくる考え方であることは想像できるが、十分には飲み込めていない。

    「勝ったのは私ではない! 理性が勝ったのですよ!」(第6場、ガリレイ)

    「英雄のいない国は不幸だ!」と嘆くアンドレアに対し、「違うぞ、英雄を必要とする国が不幸なんだ」(第13場、ガリレイ)

    「それにひとりの男にしか書けないような科学的著作なんてありはしないよ」(第14場、ガリレイ)

  • 関西外大図書館OPACのURLはこちら↓
    https://opac1.kansaigaidai.ac.jp/iwjs0015opc/BB00126821

  • 2014.01―読了

  • ガリレイの挫折は現代に生きるわれわれにも教訓を残した。不遇な晩年は報われたのだろうか。

  • 考えさせられる演劇。

  • ブレヒトのガリレイの生涯を読み終わる。科学者の社会的な責任にっいて、ガリレオの変節の意味を問うた作品。
    舞台では4時間近い大作。筋を追うのに、大変だった。最後の方の、ガリレイの長セリフがいい。

  • 残業が終わって帰りの電車を待つ間そして電車の中で、光文社新訳との違いを意識して速読。岩淵の訳はやはり硬質というか文法に忠実というか実に岩波っぽい。やっぱりクライマックスは異端審問所に喚ばれたガリレイが拷問器具を前にして無理矢理頭を下げさせられた場面、一転して田舎町で"新科学対話"が伝わっている場面への転換でしょう。戯曲ならでは。ナチス台頭を憂いたブレヒトの真骨頂。ドイツ語が読めたら自分の間合いで味わえるのに。

  • (2000.09.15読了)(1990.09.22購入)
    (「BOOK」データベースより)amazon
    地動説の撤回をめぐって教会とガリレイとの間に起った歴史的事件は「それでも地球は動く」という伝説的名句とともに誰もが記憶にとどめているに違いない。ブレヒト(1898‐1956)はガリレイの人物と時代を知悉してそれを戯曲化し、ガリレイの生き方を問うことによってナチ時代を生きた作者自身の、そうして我々の生き方をも問うている。

  • 天才的に意地の悪い作品である。賢さと愚かさは、常に紙一重のところにある。愚を装いながら、晩年のガリレオ•ガリレイは本当に賢者であったのか。彼は最後の最後で無責任になる。

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著者プロフィール

ベルトルト・ブレヒト Bertolt Brecht(1898-1956)
ドイツの劇作家・詩人。1898年、バイエルン王国(当時)のアウクスブルグに生まれる。
ミュンヘン大学で哲学、医学を学び、第一次世界大戦末期に衛生兵として召集され反戦思想に目覚める。表現主義の影響のもと、劇作、詩作、批評活動をはじめ、1918年、戯曲第一作『バール』を執筆し、1922年に戯曲『夜打つ太鼓』でクライスト賞を受賞し脚光を浴びる。1928年に作曲家クルト・ヴァイルとの共同作品『三文オペラ』を上演。1933年のナチスによる国会議事堂放火事件後、亡命生活に入る。プラハ、ヴィーン、チューリッヒ、パリ、デンマークを転々とする。第二次世界大戦中はフィンランド、ソヴィエトを経て、1947年までアメリカに亡命。その後、チューリッヒを経て1948年に東ドイツに帰る。東ドイツでは劇団ベルリーナー・アンサンブルを結成し、1956年に亡くなるまで活動拠点にした。作品は『肝っ玉おっ母とその子どもたち』(1939)、『ガリレイの生涯』(1938-1955)、『セチュアンの善人』(1941)、『コーカサスの白墨の輪』(1944)など多数。
本作『子どもの十字軍 1939年』(原題)は第二次大戦中の1941年に書かれ、他の詩や短篇とともに『暦物語』(1948)に収められた。

「2023年 『子どもの十字軍』 で使われていた紹介文から引用しています。」

ベルトルト・ブレヒトの作品

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