- Amazon.co.jp ・本 (290ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003251911
作品紹介・あらすじ
シュヴァリエ・デ・グリューがようやく17歳になったとき、マノンという美しい少女に会う。彼が犯した幾多の怖ろしい行為はただこの恋人の愛を捉えていたいがためであった。マノンがカナダに追放される日、彼もまたその後を追い、怖ろしい冒険の数々を経て、ついにアメリカの大草原の中に愛する女の屍を埋める。この小説はプレヴォ(1697‐1763)の自叙伝ともいわれ、18世紀を代表するフランス文学の一つ。
感想・レビュー・書評
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1929年初版のため、翻訳がひどい。新しい翻訳で是非読み直したい。ところで、マノンはそんなに毒婦だろうか、って思った。貢ぐ君達は勝手に貢いでマノンの気持ちをひこうとみんな必死だった。自分勝手なのは貢ぐ君達ではなかったか。彼らも綺麗な見せびらかせるマノンが欲しかったわけだし。たった17歳のマノン。きらびやかな事、楽しいこと、派手なことが好きなのはひっじょーに理解できるし、なおかつ彼女はこのお馬鹿なデ・グリューがキチガイじみた入れ込み方をするぐらい美しかったんだもの、その利用の仕方本人にだってすぐに分かっちゃったでしょうね。アメリカに流され荒地で死ぬはめになったマノンがかわいそうだった。
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実は初読ですが、話の筋は、こう言っちゃ何だが読む前から知ってるわけで、その点はどうでもいい。言うまでもなく、いわゆるfemme fataleというヤツですが、これが世界初だと言われていることは、教養として知っておいてもいいでしょう。つまり、現代の我々は、こんなキャラにとっても慣れ親しんでいるけど、その最初がマノンです、と。
さて、それはともかく。
この本のポイントは、訳と解説です。昭和一桁の感性、言葉遣い、さらに道徳観や価値観といったものが、よく言われるような戦前/戦後といったくくりで示されるような断絶感をもってとらえられるようなものではなく、とても瑞々しくも現代的であることを感じられると思います。というより、ボクの感覚からすれば、ようやくボクらは、こうしたところまで戻ってこれたのじゃないか、とすら思うほどです。
(ただなぁ、終盤付近「化学者」って訳してる場所は、現代だったら絶対「錬金術師」って訳しただろうな。あれ、恐らくは、ぼくらがゲームなどを通して本来の意味での錬金術師のイメージを構築した現代では問題ないんだけど、当時にあっては、迂闊に使うと守銭奴だと表現しようとしていると誤解される恐れがあって、そうしなかったんじゃないかなあ、なんて想像してます。) -
あまりにもどうしようもない主人公なので、その思い込みの激しさや見通しの甘さに不安をおぼえるのですが、繊細に揺れ動く心情や、若さから来る激情とも取れる言動のおかげか、共感はできないけれども放ってはおけない気持ちになりました。作品が世に出た当時は、ヒロインのマノンが斬新なキャラクターとして衝撃を与えたそうですが、ちょっと思慮に欠けていたけれど、実に人間的でした。悪気はなかったと思うので、悪女と呼ぶのは可哀想。多少の古さはありますが、そこに18世紀フランスの空気を感じたので、この作品を読めてとても有意義でした。
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課題のために読んだ。
正直、どうしてチベルジュがそこまでしてくれるのかわからない。見捨ててしまえばいいのに。
デ・グリューがマノンに囚われているように、チベルジュもまたデ・グリューに囚われている気がした。
後者は恋愛ではないのだろうから、一緒にするのは乱暴かもしれないけれど。 -
は、腹立つ…!
今作と著名な恋愛小説として並ぶ「椿姫」の読後感に似ている…だめだ…私はこの系列はだめなんだ…よくわかった…。
「椿姫」と異なるのは、椿姫はまだマリーの心理を描こうとしていたのに対し、今作はそれもまるでないこと。
けれど、そのためにマノンの象徴性が高まり、今作を特別なものにしているのかも知れない。
私は受け入れられないけどね!
これが理想の女性だなんていう輩は、女性の外側、器しか求めてないんじゃないですか!
後ろから蹴っ飛ばしたい!
でもキャラクター、特に主人公への苛立ちを置いて遠くから全体を眺めれば、物語自体は面白いので悔しい…。 -
マノンという美しい少女と出会ってしまったがために、約束されていた輝かしい名誉も未来も捨てる道を選び、ただ只管に彼女への献身的な愛に生きる事を選んだ主人公、デ・グリューの物語。
自分のすべてを犠牲にしてでも貫きたい程の強い想いを経験した事のある方であれば、デ・グリューのこの駄目っぷりにもある種の共感を感じる事ができるかと思います。かくいう私も物語を読み進めながら、客観的であるにも関わらず、デ・グリューの情けなさやマノンに翻弄され自らを見失う姿にはどこか苦い気持ちにされられました。しかしそれでもデ・グリューがそうせざるを得ない気持ちが分かってしまうのだから、その不甲斐なさを責める気持ちにもなれず。だからと言って彼が決して許されない過ちを犯している事までもを咎めない訳ではありません。理性を失う程のこの恋の物語に於いては、それが悲劇を助長している事に間違いはないのだけれど。
一方で、自由奔放で欲望に忠実とも言えるマノン。彼女はデ・グリューからの献身的な愛に包まれながらも、贅沢で満ち足りた生活を諦める事が出来ません。愛と生活は彼女の中ではきっちりと線引きされているのです。彼女の口から語られるかの有名な台詞がそれを的確に物語っていますね。「パンに不自由しながら人は恋を語れるのでしょうか」これ程までに秀逸な台詞にはなかなか出会えるものではありません。フランス文学のこの恐ろしさよ。しかしこの辺り、デ・グリューの気持ちが分かるだけに切ないものがありますが、マノンの言い分にも大いに納得されられてしまうのだから、やはり恋愛なんてものはそう簡単にはいかないものです。
元祖ファム・ファタールと言われるマノンですが、私からしてみれば彼女には悪意なんてものは全く感じられず、純粋で素直でただ無知な少女であったに過ぎません。寧ろ自らもその美しさに翻弄された男たちと同様にそれから逃れられなかっただけの可哀想な少女とも思えます。
しかしデ・グリューの心にはチベルジュというどこか普遍的な存在がいて、そこに完全なる甘えがあるのは明確です。あの荒野で屍と化したのが彼女でなくデ・グリューであったならば、また全く違った物語になっていた事でしょう。どんなにマノンに対して愛を叫び身を窶したところで、結局デ・グリューの未来には輝かしさが透けて見えてしまうのだから、全く身勝手な男だと幾許かながら思わずにはいられないのでした。 -
恋するという脳の働きについて考えさせられる本で、昔からたまに読みたくなります。さすが現代まで残る名作、お気に入り。
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最悪。
椿姫の解説で、似たような作品だと紹介されていたので読みましたが、腹が立ちました。
働きもしないで美人局を繰り返して生活する男女。
遂に逮捕されるが、男のほうは父親が有力者だったので釈放。
遠くの流刑地まで連れていかれる女についていく男。
女は病死。
男は悲しむが、その後何もなかったかのように、普通に生活。
・・・どこに同情の余地があるのか?
椿姫とはえらい違いだ。 -
微妙なゾーンの人とアホな人が恋愛してしでかしやっちゃった物語。ものを知らないお子様たちだからほんの少しだけかわいそうかな。
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シュヴァリエ・デ・グリューがようやく17歳になったとき、マノンという美しい少女に会う。彼が犯した幾多の怖ろしい行為はただこの恋人の愛を捉えていたいがためであった。マノンがカナダに追放される日、彼もまたその後を追い、怖ろしい冒険の数々を経て、ついにアメリカの大草原の中に愛する女の屍を埋める。この小説はプレヴォ(1697‐1763)の自叙伝ともいわれ、18世紀を代表するフランス文学の一つ。