ゴリオ爺さん 下 (岩波文庫 赤 530-9)

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  • Amazon.co.jp ・本 (262ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003253090

感想・レビュー・書評

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  • バルザックが「人間喜劇」という名で90篇の作品を書いた、ということに興味を持ったのはもう45年以上前、取った講義の題材からであった。

    しかし、本好きとなのになぜか私が読んだバルザックの作品は数えるほど。「谷間のゆり」「従妹ベット」「ヴェジニー・グランデ」「知られざる傑作」など読んでるほうと思っていたが、なんと遠回りだったことか、これ読まずして文学好き本読みとは言えない。

    「人間喜劇」中の傑作のひとつ、のみならず単体としてのおもしろさ、構成のよさ、やはり与える影響抜群の作品なのだ。古典名作の中で、私にとっても久々のヒット作品を読んだのである。

    持参金を持たせて貴族と銀行家に嫁がせた娘ふたりに裏切られる「ゴリオ爺さん」の挫折と不幸、悲しみは「リア王」だけれど、バルザックのバルザックたる所以は、主人公「ラスティニャック」の青春教養物語として嫋々と迫ってくるので、光り輝くような説得力。

    お金に群がる貧者、醜い出世主義、ずうずうしい泥棒の悪、貴族の悪党、なんという親不孝娘。

    19世紀初頭の王政復古と拝金主義時代の風物風俗、社会批評を描かせたら、バルザックなど同時代の自然主義文豪にかなわないだろう。風俗史実の面白さに加えて、いまだ変らぬ人間心理のダイナミックな暴露は恐ろしいほど。

    上巻はまだるっこしくとっつきにくいが、下巻になるとテンポが速くあっという間に読んでしまう。

  • 19世紀フランスの作家バルザック(1799-1850)の代表的長編小説、1835年。バルザックは、本作品に於いて「人物再登場」という手法を初めて本格的に用いることで、19世紀前半のフランス社会の現実を活写しながら、同時にそれ自体として自律した壮大な小説世界=『人間喜劇』を構築していくことになる。本作品は、長短91篇に上る膨大な小説群『人間喜劇』の内の「風俗研究/私生活情景」に位置づけられる。

    本作品の主題は、一般にはタイトルにもなっているゴリオの娘たちに対する父性愛とされることが多いだろう。しかし寧ろ私は、ブルジョア社会・上流社交界、則ち虚偽・虚飾・偽善・欺瞞・虚栄及びそれらによって偽装された"優雅な即物的欲望・拝金主義""文化的な意匠をまとった利己主義"が瀰漫し切っていたパリという都の俗悪さ・醜悪さ、そしてそのパリに於いて「社会」に身を立てていこうとする田舎出の青年ラスティニャックを主人公としたフランス的教養小説であると読みたい。ゴリオとその娘たちの逸話は、青年にパリという「社会」の実相を見せつけ、その上で如何なる精神的構えを以て自らの身を処していくべきか、その覚悟を促す一つの重要な契機であるといえる。主題は、パリという都市の虚像としての実像、及びパリの青年によって生きられる精神像ではないか。

    「もし成功なさるおつもりなら[・・・]まず、そんなに自分の感情をあらわに見せるものではありませんわ」「あなた[ラスティニャック]は冷静な打算を働かせれば働かせるほど、出世できるのです。容赦なく打撃を与えなさい。そうすればあなたは人に恐れられるでしょう。宿駅ごとに乗りつぶしては捨てていく駅馬のように、男も女も扱うことです。そうすればあなたはやがて望みの絶頂に達することができましょう。・・・。そうすればあなたにも、騙す人間と騙される人間の集まりである世間というものがわかってくるでしょう」(ボーセアン子爵夫人)

    「パリではいったいどうやって、みんなおのが道を切りひらくのか、きみは知っているかね。天才の輝きか、さもなければ上手に堕落することによってなのさ。人間のこの巨大なかたまりのなかにはいっていくには、大砲の弾丸みたいにぶつかっていくか、さもなけりゃあペスト菌みたいにこっそり忍びこむしかないんだな。正直なんてものはなんの役にもたちはせん。・・・。堕落はいたるところに幅をきかせているが、才能はまれだ。こういうわけで堕落は、むらがりあふれるぼんくらどもの武器なんだ」「・・・、ねえきみ、自分の意見だの、言葉だのに決してこだわらないことだな。・・・。原則なんてものはない。事件があるだけだ。法則なんてものはなくてあるのは状況だけだ。すぐれた人間というものは、事件や状況と一体となってそれを導いているのさ」「わしの胸中には巨大な深淵がある。つまりばかどもが悪徳と呼ぶ広大かつ強力な感情のことだがね」「わしは行動というものを手段と見なしている。そして眼中にあるものはただ目的のみだ」(ヴォ―トラン)

    ここには、近代の時代精神とその兆候、ニヒリズム・そこからの頽落としての即物的無思想・目的合理主義(cf. 価値合理主義)が、端無くも吐露されている(加えて、こうした時代精神と同調する近代官僚制の記述もある。「・・・、大臣閣下は役人にとって、行政上誤つことのない存在である。・・・。大臣の命ずる行為は全て合法化される。・・・。軍隊に盲目的な服従があるように役所にもそれがある。これは良心を押し殺し、人間を抹殺し、ときとともに、ついには、人間を政府という機械のねじか、ねじ受けのようなものにしてしまう制度である」)。

    「彼[ラスティニャック]はあるがままの世間というものを見、法も良心も富者のもとにあっては無力であること、そして立身出世こそはこの世の大原則[ウルテイマ・ラテイオ・ムンデイ]であることを悟った」

    「それにしてもあなたがたのパリという街はまるで泥沼ですね」(ラスティニャック)

    「世間という大草原が、空虚なものであると同時に、また無限の可能性を秘めているものとして眼前に広がり、彼[ラスティニャック]は焦慮の念にかられていた」

    何一つ語られぬ/語り得ぬ、内実。彼は、何処にいて、何を目指しているのだ。幾ら読んでも、即物的な立身出世という以上は一向に判然とせぬ。何者でもない何かから、何者でもない何かへ。何処でもない何処かから、何処でもない何処かへ。端的に虚無であるということ、その虚無が虚無自体によって埋め立てられているということ。自己と世界の痛切な喪失。

    小説の最終末、パリによる"優雅な親殺し"に倒れたゴリオを埋葬したラスティニャックは云う。

    「さあ、こんどはおれとおまえの勝負だぞ」

    そして、パリの、あの俗物社交界に、その俗悪さを痛切に味わわされた上で、なお立身出世というこれまた即物的な欲望で精神を武装して、自覚的にその「泥沼」に還っていく。「ぼくのほうは目下地獄にいるんだが、しかしそこにとどまらなければならないんだ」

    その醜悪さを散々見せつけられ最早"単純・純朴だったそれ以前"には引き返し得ないほどの【幻滅】を味わったのちになお、"敢えて"現実の「泥沼」を受け容れる覚悟の上で、パリに於いて立身出世を図ろうとする点で、ラスティニャックは、スタンダール(1783-1842)が『赤と黒』(1830)に於いて創出した人物像・精神像たるジュリアン・ソレルとは明らかに一線を画する。もはや単純に"新たな時代の英雄"では在り得ない。本作品の主人公は純粋さの苦く――そしてジュリアン・ソレルには決してなかったであろう――絶対的な【屈折】を経ねばならなかった。ここには、近代ブルジョア社会の自己認識というそれ自体が近代的な強迫的駆動の【アイロニーという方向への深化】が表れているように思われる。この自己認識はフローベール(1821-1880)『ボヴァリー夫人』(1857)によって完成され、と同時に『ボヴァリー夫人』によって自己崩壊――自己意識による無際限の自己否定運動――が始まるというのが私見である。

  • 【あらすじ】

    家族の期待を背負ってパリに出て来たラスティニャックは、古びた下宿のヴォケェ館に居を構えている。そのヴォケェ館の主であり未亡人のヴォケェ夫人。
    人々からやり手と称され、ラスティニャックを悪の道に誘惑するヴォートラン。
    かつて製麺事業の豪商として富を築き、二人の愛娘を嫁に送り出したゴリオ爺さん。
    父親から認知してもらえない娘のヴィクトリーヌ・タイユフィル嬢と親戚のクーチュール夫人、その他にも個性豊かな面々がヴォケェ館に住んでいた。
    ラスティニャック(ウージェーヌ)はパリの上流社会に憧れを抱いており、勉学をそっちのけて成り上がる事を夢見始める。
    初めに、レストー夫人との交流を持とうと試みるが、ゴリオ爺さんの名前を出した途端、邪険に扱われてしまう。
    やがてレストー夫人とニュシンゲーヌ夫人はゴリオ爺さんの娘という事が判明する。
    レストー夫人との交流を持てなかった為、ラスティニャックは遠縁の親戚、ボーセアン夫人に貴族社会デビューの助力を求める。
    家族の期待を背負い、実家の粗末な暮らしを嘆きつつも、自身の衣装を整える為に母と妹らにお金を無心し、ラスティニャック自身も外見上魅力的な為、デビューは上手くいくこととなった。
    やがて、ニュシンゲーヌ夫人と交流を深めていく。
    彼女の頼みで100フランを賭博ですって来るか、6000フランを持ってくるようにお願いされ、7200フランを持ってくる事に成功し、彼女の信頼を勝ち取る。
    そういったやり取りの中、ゴリオ爺さんの娘への狂信的なまでの愛情と、娘たちの浪費癖、ヴォートランからヴィクトリーヌを妻とする計画への誘惑や、パリの貴族社会の華々しさとその生活苦をそれぞれ味わう事となる。
    その後、ヴォートランの計画によってヴィクトリーヌの兄が殺されてしまい、ヴィクトリーヌには莫大な遺産が入る事となり、ヴィクトリーヌと結ばれるよう、ヴォートランから唆される。
    しかし、ヴォートランは脱走した犯罪者である事が判明し、警察に逮捕されて誘惑は終わりを迎える。
    ゴリオ爺さんは娘の為に生涯年金や自身の財産を切り崩していくが、娘の幸福の為ならばと、ますます追い詰められていく。
    しかし、ニュシンゲーヌ夫人とゴリオ爺さんの計らいによって、ラスティニャックに新たな住居が用意され、その上の階にゴリオ爺さんが住む手筈が整えられる。
    また、ニュシンゲーヌ夫人は念願のボーセアン夫人主催のパーティーに招待され、ますます胸を躍らせていく。
    ボーセアン夫人はパーティーの直前、意中の相手が、自分ではなく他の女性と結婚をする事を知り、胸を痛めて田舎で静かに暮らすことを決意する。
    一方、レストー夫人が愛人にお金をつぎ込み、大切なダイヤを質に入れたりしていたことが夫に知られてしまい、お金を自由に使えなくなる。
    ニュシンゲーヌ夫人の夫は事業に失敗し、ニュシンゲーヌ夫人の財産を押さえてしまう。
    二人の娘が金銭的に追いつめられ、ゴリオ爺さんもなす術が無くなってしまい、無力に打ちひしがれ、心労のあまり倒れてしまう。
    体を悪くしたゴリオ爺さんを余所に、二人の娘は依然として自身の事ばかりを考えており、ラスティニャックも怒りを覚え、看護をラスティニャックの友人で医学生のビアンションと共に献身的に介護するが、娘への怒りを抱きながら亡くなってしまう。
    ゴリオ爺さんの葬儀までこの二人が手配する羽目となり、パリの上流社会に幻想を抱き過ぎていた事を認めるラスティニャックであるが、そこでのし上がる事への野心は消えておらず、新たな決心を胸に物語は終える。
     

    【感想】
    アンドロイドは電気羊の夢を見るか?以上にあらすじが長くなってしまったけれど、こちらは上下巻に分かれていることもあり、少しは致し方ない気がする。
    物語初めの、舞台となる地名や登場人物紹介では、誰が主人公なのかも分からず、あまり面白いとは思えなかった。
    しかし、ラスティニャックが貴族社会へのデビューを果たすため、母と妹にお金を無心する手紙を出すシーンでは、家族への申し訳なさと青年の気持ちの高ぶり、不安といったものが生々しく伝わってきて、ここから夢中になって読み進められた。
    上流社会の賭け事でこさえた借金の為に、ヴォートランから3000フランを手形で借りる事となった際は、ここから堕ちるとこまで堕ちるかな、とも思ったけれど、借金を返済し、更には賭け事で負けていた分を取り返すまでに、5行の文章で終えたのは笑った。

    「自己の道をみずから切り開かねばならない男の多くがそうであるように、彼は運命論者であり、迷信家であった。だから、この好運は、正しい道にあくまでも踏みとどまろうとする自分の努力への天の配剤であると、ラスティニャックは信じた。」

    また、ゴリオ爺さんの娘への愛情は深いものだが、それ故に彼女らを不幸にしてしまう結果となったのは非常に残念で、娘への愛情は尊く美しくもあるけれど、欲するものを与えるだけが愛情ではないと改めて考えさせられる作品だった。
    また、ラスティニャックと友人のビアンションがゴリオ爺さんの容態を心から心配し、介護を続ける姿には、青年らの内にある優しさと強さを感じた。
    勇敢や賢さといった格好良いものではないけれど、この行為を行えるのが彼らの素晴らしい人間性であると思う。
    あと、この作品の登場人物はバルザックの他の作品でも相互に出演しているようであり、バルザックの作品がそれぞれつながりを持っているようで、俗にいうスターシステムの先駆け的ものだったらしい。
    ラスティニャックを通して、パリの上流社会の面々から若い学生、父親とその娘の心情を垣間見る事のできる、良い作品だったと思えた。

  • ゴリオが見せた父性愛とその顛末はトラウマとして封じ込められ,ラスティニャックの欲望は前向きなものとして残される,そういう時代かもしれない。

    文学作品として見た場合,写実主義の代表とも言えよう書き込みの多さが特徴的である

  • 人間喜劇の一環。父性愛を濃厚に描きつつ、社会全体に対する強い風刺を書き貫いている。

  • ゴリオ爺さんは幸せ者。だって娘たちを愛し尽したんだもの。傍で見ていたラスティニャックがどう感じたかは、他人から何を学ぶのかという点で人生の厳しさと悔しい思いを痛いほど感じた。ただ、過保護はいかんね。娘たちは不幸。いくらあっても足りない人生は哀しい。この作品は岩波文庫で読んでよかった。高山鉄男さんの訳注が作品を超えバルザック研究から語られている。後世のためにここまで丁寧に訳注・解説をしてくれたことにお礼を言いたい。しかし、既に絶版…非常に残念。

  • 再読終点。ゴリオ爺さんの最期の叫びは壮絶で一気に読んでしまった。でも、ゴリオ爺さんみたいな親や自分本位の娘たち、どこにでもいると思う。ラスティニャックの純真さに救われた。この人が、ゴリオ爺さんと並ぶ主人公として登場していなければ、とても完読できなかったに違いない。

  • わしがあの子たちをあまりにも愛したものだから、娘たちにはわしに愛情をいだく余地がなくなってしまったのだ。

  • 読書期間:2010年1月5日-1月12日

    原題『Le Père Goriot』
    英題『old Goriot』
    著者 Honoré de Balzac(オノレ・ド・バルザック)

    法学生ウージェーヌ視点で語られる物語です。
    この男、達成の為ならどんな手段も使います。
    自分の家族個人の大事な物を売って下さいと頼んでお金を工面してもらいます。
    学生で勉学に励まないといけない身でありながら、パリの社交界で成功を収めようと夢を見ます。

    話を読み進めて行くと、
    下宿先のゴリオさんが昔豊かな暮らしをしていた事、
    娘が2人居る事、
    従姉がパリ屈指の夫人である事等、
    上流階級の人々の華やかさの裏表が少しずつ描かれて行きます。

    ゴリオ爺さんの2人の娘、
    上よりも下の娘の方を読んでいく内に好感度が上がっていったのですが、
    最後の最後で2人共急降下しました。
    下巻後半が特に読むのが段々と辛くなってきました。

    最後のウージェーヌの、「さあ今度はお前と僕の番だ!」というセリフが、一番印象に残りました。

  • 人間喜劇を全部読みたくなった。

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著者プロフィール

オノレ・ド・バルザック
1799-1850年。フランスの小説家。『幻滅』、『ゴリオ爺さん』、『谷間の百合』ほか91篇から成る「人間喜劇」を執筆。ジャーナリストとしても活動した。

「2014年 『ジャーナリストの生理学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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