ボヴァリー夫人 下 (岩波文庫 赤 538-2)

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  • Amazon.co.jp ・本 (346ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003253823

感想・レビュー・書評

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  •  感想は上巻に纏めて書いてしまひました。

  • 命ってなんだろう。人は生まれたから生きるしかないけど哀しい。この種の本を読むと、どっと脱力。

    著者は「ボヴァリー夫人は自分だ」と語ったが主人公=作者の図式になれば傑作になるのかな。

    上巻、シャルルに同情を寄せたが知識と経験のない手術を他人にそそのかされ行って、曲がってはいても丈夫で良く働くイポリットの足をダメにしたとき、私はそこでシャルルを憎んだ。

    エンマの密かでかつ大胆な恋愛と金遣いに眉を寄せながらもそういう虚栄心や贅沢、驕りは私にもあるのではないかと自分に猜疑の目を向ける。それだけじゃなくオメー、レオン、ロドルフ、かわいそうな娘のベルトさえフローベール自身であり、登場人物はすべて私たち人間に当てはまるのだ。
    我々は哀しく愚かで滑稽な存在でいつまでも足ることを知らない。

    この小説を作り出すには人々の生活を律し、縛る宗教観や道徳観、社会の風潮がないと生まれなし、もうこういう小説を描けるような時代は去った気がする。
    そういう意味で人は不自由の中で自由を得るのかもしれない。

    恋愛描写ひとつとってもエンマの秘密の恋を表現するだけで、美しい言葉で濃密に描かれていて、濡れ場がホントに水が滴るようだな、と思う。
    現代の小説は何でもアリの時代になったから、暴力的に激しい言葉で表現せども無味乾燥。
    自由平等を勝ち得た後の小説と言うのにやっぱり社会的地位で人を判断する「農民の血」のような表現など、フランス的でもある。
    昔がイイと言うわけじゃないけど、芸術は爆発なんだな、やっぱり(笑)

    人生をかけて丁寧に、丁寧に描ききっている。
    上巻冒頭、ボヴァリー夫人は出てこず、シャルルがいきなりでてくる冒頭などはあらすじを知っていただけに「え?本間違えた?」な驚きの始まりで本当に内容が面白いだけじゃなく、構成や表現がとにかく素晴らしい。

  • 19世紀フランスの小説家ギュスターヴ・フローベール(1821-1880)の代表作、1857年。スタンダール、バルザック、ユーゴー、デュマ・ペールに続く世代に属する。フローベール個人にはロマン主義的な面があったようだが、執筆に於いては当時の実証主義的思潮の中で、作者の主観を排し客観的に事象を描写することに徹し、その文体は写実主義・自然主義としてモーパッサン、ゾラらに受け継がれていく。

    物語の筋自体は、女が凡庸な夫に幻滅し不倫によって破滅する、という単純なものだ。しかし女、ボヴァリー夫人は何に陥ってしまったのか。それは、近代という時代精神にあって、人間に則ち世界に穿たれた底無しの深淵、虚無それ自体をも飲み込んでしまう虚無、人間の人間喪失・世界の世界喪失ではないか、それを見出してしまったことに対する絶望ではないか。本作は、近代が必然的に到り着くしかないニヒリズムが見出してしまった人間存在の云わば「被投性」を初めて描いた、精神史を画する作品ではないか――そのとき人間存在は、ついに「実存」にまで切り詰められた自己を発見することになる――。その意味で、現代に於いてなお最も空恐ろしい小説の一つであるといえる。それは、縁の無い穴を描くという、奇怪な不可能事である。

    □ 凡庸な生への倦怠

    ボヴァリー夫人が思い描き、ときに縋り付く夢や憧れは、現実の中で不可避的に幻滅を呼び起こし、破れていく。凡庸さへの退屈と倦怠だけが弛緩して続いていく日常性への鈍痛の如き絶望、生と世界とが続いていく限り決して終わることの無い絶望、その鈍重さ。

    「でも、でも自分は幸福ではない、ついぞ幸福だったためしがない。人生のこの物足りなさはいったいどこからくるのだろう。そして自分のよりかかるものが立ちどころにくされ潰えてしまうのはなぜだろう?・・・・・・しかし、この世のどこかに、強く美しい人がいるものなら、熱と風雅にみちみちた頼もしい気だて、天使の姿にやどる詩人の心、み空に向って哀しい祝婚の曲を奏でる青銅絃の竪琴にも似たこころがあるものなら、ふとめぐり会われぬことがどうしてあろう? いや、かなわぬことだ! しかも求めて甲斐あるものは一つとしてない。すべては虚偽だ! あらゆる微笑には倦怠のあくびが、あらゆる喜びには呪詛の声が、あらゆる快楽には快楽の嫌悪が隠れている。そして至上の接吻すら、さらに高い逸楽への、かなわぬ望みを唇に残すばかりである」

    「新しいものの魅力は着物のように次第に脱げ落ちて、形も言葉もついに変わらぬ情欲の永劫の単調さをあらわした」

    『紋切型辞典』なる極めて現代的な感性に訴求する奇書を物したフローベールの裡には、世界が即物と凡庸な定型句以上ではないという、「事実性」に対する深い倦怠と諦念がある。フローベール自身の発した「ボヴァリー夫人は私だ」という有名な言葉にも、それが表れている。いまやロマン的な美的官能は、その一切を虚無――そこでは、あらゆる美的感性が無化される――に帰してしまう幻滅と表裏一体である。ロマネスクな憧憬は予め挫かれ断念される以外ではなくなってしまっている。何も到来することが無くなってしまった生=日常=世界、何かを「待つ」ということ自体が出来なくなってしまった生=日常=世界、全てが紋切型のクリシェ以上ではなくなってしまった生=日常=世界。そこにただ投げ出されただけの現存在、その茫漠とした憂鬱。 

    生と世界があらゆるロマン的憧憬を幻滅によって挫けさせてしまう即物的な「日常」でしか在り得ない、そんな精神史上の局面に人間は到ってしまっている。そしてそのことを当の人間が憂鬱な鈍痛とともに知ってしまっている。

    「しかし心の底ではことを待ち望んでいた。難破した水夫のように、彼女は生活の孤独の上に絶望の眼をやり、はるか水平線の濃霧の中に白帆の影を探し求めた。この偶然はなんであるか、この偶然を自分のほうへ吹きつける風はなんであるか、それはどこの岸へ連れて行ってくれるのか、それは小蒸気なのか三層甲板の巨船なのか、舷門にあふれるほど満載しているのは苦悩かそれとも幸福か、彼女は知らなかった。しかし毎朝眼を覚ますと、今日じゅうにはきっとそれがやってきそうに思われた。そしてあらゆる物音に耳を澄まし、はね起きては、それがこないのに驚いた。やがて日暮れになるといよいよわびしくて明日の日を待った」

    「待つ」という美的態度が予め不可能である以外にない日常で、世界は埋め立てられている。

    □ ダンディズム

    恋愛という文化的意匠から破り出てくる肉欲も宗教的平静も芸術美への陶酔も、仮初の気晴らししか与えてくれない。それはいつか必ず「幕が下り」る。幻影であり気安めであり虚構である、つまり「紛い物」である。と云ってしまえば恰もそれとは別の「ほんもの」が何処かに在るみたいだが、もはや「ほんもの」という観念自体が「紛い物」でしかないということを意識の中枢に於いてまで知悉してしまったのがボヴァリー夫人ではないか。「ほんもの」が「ほんもの」で在り得ないなら、「紛い物」は「紛い物」ですら在り得ない。虚構ならざる虚構のあいだを、何ら執着することなく深刻ぶる理由もなく、軽軽と戯れすぎる以外にないではないか(例えばロドルフ・ブーランジェの如く)。虚無に対するアイロニーを織込んだ新しい美的感性が、ダンディズムと呼ばれるものではないか。ボードレールが本作品を好意的に評していることは、偶然ではないだろうと思う(「ギュスターヴ・フローベール『ボヴァリー夫人』」)。

    「彼ら[ラ・ヴォビエサール邸での舞踏会に集う人士]の無関心な眼つきには、日ごとに欲情を満足させているための落着きがただよっていた。駿馬を操ったり、放埓な女とつきあうような、力がねれてしかもうぬぼれ心も満足する、手ごたえがあるようでないことを、苦もなくやってのけるところからくる一種独特の残忍性・・・」

    「彼[ロドルフ・ブーランジェ]に解せないのは、たかが色恋ぐらいのことに、こうまで取り乱すことであった。エンマはその愛着に動機と理由を持っていた」

    しかし、そこに意味を求めて serious にならずにおれない者の、その行き着く先はボヴァリー夫人自身が示しているとおりである。存在を吊り支える形而上的観念も形而下的土壌もない、常にそこから引き剥がされ続けるしかない者の、それは豪奢な敗北だ。

    □ 文体

    上述したように、本作品は、写実主義(現実を何らかの観念を通して観るのではなく、その"ありのまま"を精確細密に切り取ってくる)・自然主義(事物や人間心理を自然科学的な客観性に則して、ときには自然科学そのものの知見に基づいて、記述する)の源流として位置づけられている。或る場面を写真で切り取ってくるかのようにそこにある物,物,物を、その名辞・修飾語・メタファーで紙に書きつけるリアリズムの文体は、読んでいて、言葉の,則ち物のイメージの延々冗長たる羅列に食傷してしまうような感覚に襲われる。世界は所詮表面的に写し取られる物しかない、ロマン的な憧憬などを抱く余地は無い、そこにある即物が全てでありそれ以外の「何か」の到来を待つことはできない。そんな時代精神が、物語だけでなく文体にも表れているようだ。



    「いまこのとき、フランスの多くの村々で、ボヴァリー夫人は泣いている・・・・・・」フローベールのこの言は、いまや時代精神そのものにまで広がった普遍性を帯びている。

  • フローベールのこの作品は後世に影響力を及ぼしたらしく、「モーパッサンを生み、ゴンクールを生み、ついにはゾラ一派の自然主義を生む大きな機縁になった」といわれている。作品を制作するにあたり、フローベールは医者である父親の弟子の一人の妻が情夫をつくり借金によって自殺をした(1848年)ドラマ―ル事件を参考にしたといわれる。当時、内容が過激だったため多くのカットが要求されている。

  • エンマは、いつも幸福ではなく、何かを手に入れるとすぐに嫌になり、本を読んで憧ればかり募らせていき、しかも感情の起伏が激しく、飽きっぽい。それなのにエンマを嫌いにはなれない、自分の中のエンマ的なものを見つめざるを得ない。この小説の主人公はシャルルなのか・・・と下巻を読んで思った。シャルルの視点で読むとまた違う味わいになるのだな、と。

  • ロドルフがボヴァリー夫人のもとへ通うようになる場面以降のストーリー。下巻からは特に登場人物の傲慢さというかある意味人間らしさが溢れ出てくるので一周回って面白かった。結末は救いようのない印象を受けたものの、こういう終わり方もありだなあとモヤモヤを抱えながら感じた。

  • 古典の名作と呼ばれる作品も、波長が合う合わないというのがあるな。ぐちゃぐちゃにして結局誰かが死んで終わるっていうパターン化されたストーリーにはもう飽きた。この時代にはまだそのようなケースが少なかったのかもしれないけれど。残念な時間を過ごしてしまった。

  • 理想と現実の狭間で悩み苦しむ主人公の心情が見事に描かれていました。この物語から高すぎる理想は実現できなかったとき自分を苦しめることになるので理想は分相応にしたほうがよいということを学びました。

  • シャルルは善良、情にほだされやすい印象。シャルルが二度目に結婚したのがエマ。初登場は純真無垢でかわいらしい女性だったが結婚してからの変わりようがすごかった。ロドルフ、レオンと不倫して結局は自殺。 エマはよく深すぎて、二兎追うものは、、の諺がぴったりに感じた。

  • 平凡な人生に退屈した夫人の凡庸な欲望というさほど興味を引かなさそうなテーマをリアリズムで読ませることは読ませるんだけど、やっぱりテーマがどうしても興味をひかないせいか正直ぴんときませんでした。
    お椀型の物語の構造とかは面白かったけど。
    あと、冒頭の一瞬だけ語り手として登場した「私」について一言の言及もないし、その後一切登場しないのがなんだったのか気になって仕方ない。

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