外套・鼻 (岩波文庫 赤 605-3)

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  • Amazon.co.jp ・本 (120ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003260531

感想・レビュー・書評

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  •  夫の本。ゴーゴリは200年くらい前のロシア人作家。訳も古く、昭和12年のもの。ドストエフスキーが「我々は皆、ゴーゴリの『外套』から生まれたのだ。」と言ったくらい、後のロシア文学に影響を及ぼした人。
     『外套』の主人公はある下級役人で、万年〈書類写し〉だけの仕事をしている、見栄えも良くない、趣味もない、ろくに話もしない、何ともうだつの上がらない、周りから軽視されている初老の男。
     しかし、周りの思惑と異なり、本人は書類写しの仕事が大好きで、ただ、その仕事をしているのが幸せだった。
     服装などにも全く拘りがなく、いつも汚くヨレヨレの格好でいたのだが、ある冬の初めの日、寒さに耐えられず、とうとう自分の外套がボロボロで限界であることを悟る。
     仕立て屋に行き、何とか修繕出来ないか交渉したが、新しいのをしつらえるしかないと言われる。
     彼の安月給では、外套を新調することなど、一世一代の大出費である。元から倹しい生活をしていたが、さらに食費を切り詰め、暖房費を切り詰め、何とか仕立て代を捻出する。
     いざ新調となると、まるで花嫁を貰うようにウキウキする。しょっちゅう仕立て屋に足を運び、一糸一糸を確認したり、裏地に付ける布を仕立て屋と一緒に買いに行ったりする。
     いよいよ、新しい外套が仕上がった時、彼は本当に誇らしげで幸せそうであった。〈書類写し〉をしている時以外でそんなに幸せそうな時はなかったくらい。
     だが、新しい外套を着て職場に行った日、同僚たちに無理やりお祝いの席に誘われ、その帰りに外套を盗まれてしまう。
     警察はまともに取り合ってくれない。同僚に紹介されて会った身分の高いお役人も、偉そうに「誰に向かって喋ってるんだ。」と言うだけで、彼の話をまともに聞いてくれない。
     失意の中、寒空の中を外套も無しで歩きまわり、彼は高熱を出して死んでしまう。
     家族もなく、誰にも顧みられず、何も残さず、死んで行った、世間からは特に価値のなかった一人の男。
     外套を盗んだ泥棒を捕まえて欲しいと頼まれ、冷たくあしらったあのお役人は、その後彼のことが気になって「彼はどうなった?」と周りに聞き、死んだということを知る。

     胸がチクチク傷む話であった。他人には分からない、小さな幸せを大事に生きている人を踏みつけて来なかったか?どうも、私にも身に覚えがある…。
     
     主人公は、死んだ後、亡霊となって、例のお役人の背後などに現れ、襟首を掴み、「外套をよこせ」と言ったりするのだが、亡霊にでもなって登場してくれなければ、読者としては気持ちが救われない。

     『鼻』は面白い話。ある気位だけが高い下級役人の〈鼻〉がある日顔から無くなり、高官の服を着て、紳士面をして、勝手に歩き回るという話。

     訳が厳しくて、ロシア人の名前が長くて初めは読みにくいと思ったが、どちらも短くて以外とすぐに読めた。

      

     

  • ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリの短編小説2編です。どちらの作品もしがない下級役人の悲哀とその役人の真面目さがかえって滑稽さに結びついているという皮肉な面白さがありました。

    『外套』は、ひたすら書写に仕事の生きがいを見出している下級役人がはからずも外套を新調することになり、それに付随して起こった悲喜こもごもの出来事を滑稽に描写した作品です。
    主人公の下級役人本人はいたって真面目ですが、その真面目さを事細かく描写することで可笑しみを増しています。読者からすれば外套の新調という些細な話ではあるのですが、ゴーゴリの手にかかれば、主人公の困惑から喜び、そして一転絶望と、その顛末に応じた感情が面白可笑しく伝わってきます。最後は意外な展開でしたが、不条理な悲哀を感じさせるものの、このどこかひょうきんな物語の締めくくりとしては、これまたゴーゴリの茶目っ気ぶりが発揮されているといえるでしょう。
    自分にとっても哀しみと滑稽さを同時に感じた複雑な作品でありました。(笑)

    『鼻』は、ある日、目覚めると鼻が無かった!という奇想天外な話です。しかも、その鼻は近くの床屋の朝食のパンの中に入っていたり、きちんとした身なりで馬車から降りて礼拝に向かうなど、ちょっとどのような光景なのか想像すらできないほどのハチャメチャな場面が真面目な様子で描写されているのが楽しいです。
    これまた主人公の下級役人のあくせくぶりが面白可笑しく表現され、実際、切実な問題(?)であったはずなのですが、事態が事態だけに主人公のその滑稽ぶりが何とも可笑しかったです。

    2作品ともゴーゴリのひょうきんさが伝わる作品ですが、惨めな人をじっと観察して笑い飛ばすような残酷な面も併せ持っているような気もします。しかし、抑制の利いた文章表現が適度な可笑しみと悲哀ぶりを両立させ、逆に印象深い作品となっています。

  • ジュンパ•ラヒリの『その名にちなんで』の主人公がゴーゴリと名付けられてグレかけた話から、読むことにした。

    Wikipediaから。
    “本作は近代ロシア文学の先駆けとなり、多くのロシア作家に影響を与えた。ドストエフスキーが、「我々は皆ゴーゴリの『外套』から生まれ出でたのだ」と語ったと言われるが、実際にはフランスの外交官ヴォギュエの言葉とされる。”

    でも、世間では、(この本の解説でも)『あのドストエフスキーがそう言った』と言って、まことしやかに信じられるくらい、現代でも全然通じるお話だった。

    日本では天保の改革をよってる年だと思うと随分先進的だ。というか、ロシアはこの時からさほど進歩していないのかしらん。。。

  • 人間の広大無辺な運命というものを正確に描写するのが、小説家に与えられた究極の目標だったのだろうか?たとえばゲーテであったり、ユゴーであったり。だとすれば、この本に収められた短編2編は、それらの先行作家の作品とは同列にすべきではないのだろうか?

    なぜこんなことを考えたのかと言えば、ゴーゴリの短編になにか異質なものを感じたから。
    たとえば「外套」では、市井でも目立たず、うだつの上がらない男が主人公。神の啓示や精神的成長の軌跡などを見つけることは難しい。
    さらに「鼻」なんか、グロテスクで超現実的な内容に終始している。教訓も見当たらなければ、人生を照らす光のようなものもない。

    しかし私はそれだからと言って、この2編を低く評価するのは間違いだと漠然と感じた。なぜかと言うと、中国清代に民間伝承の怪異譚を集めて書かれ、日本の作家にも多大な影響を与えたという「聊斎志異(りょうさいしい)」を、ゴーゴリの短編から思い出したからだ。
    https://booklog.jp/item/1/4001145073
    聊斎志異では、庶民の日常生活のなかに自然な形で精霊や妖怪が姿を現す。また異形の者も多く登場する。だからもし聊斎志異の中で、亡霊が道行く者から外套を奪い取るという話があっても、鼻が服を着て街を歩くという話があっても、違和感はないだろう。

    だとすれば、ゴーゴリは聊斎志異を読んでいたのだろうか?芥川のように翻案したのか?
    でも冷静に考えれば、中国の読み物が1840年ごろにロシア語で翻訳出版されていたとは考えにくい。つまり、西洋社会が紙や羅針盤や火薬を発明したと思っていたら、同じものが中国大陸ですでに汎用化していたというのと同様だろう。だから現代の目から見てゴーゴリが先を越されているように見えるとしても、彼の創造力を過小評価するつもりはない。

    一方でゴーゴリの作品は、一読したところでは諧謔的なストーリーとして印象に残るが、熟考するにつれて、ある考えが浮かんできた

    ――名を成す大人物であろうと、私たちと同じような名もなき一般人であろうと、運命に真正面から向き合おうとしたとき、自分の力では如何ともしがたい不条理なものに突き当たることがあり、そのおかしさや悲しさを正確に描写しようとするが故に、ゴーゴリはこのような異質な構成を発明せざるをえなかったのではないか。
    つまり、ゴーゴリは先に出た中国文学の様式を下敷きにしたのではなく、あくまで自己の内発的なものによるのだと推測できる。

    したがって、中国の作品とどちらが早かったかなどは、どうでもいい話だ。中国や日本では、庶民生活を凝視することで、怪奇現象の擬人化を極め、豊かな想像力によって抒情性と自然の恵みの賛美など、自分が“生かされている”と認識するしかない境地への到達を可能にした。
    一方でゴーゴリは、路傍の石のように世間的には一顧だにされないロシアの庶民生活を、わざわざ拾い上げて手に取って角度を変えて眺め、石の模様が同じように見えながらも個が持つ美しさが浮かび上がる瞬間があるかのように、一見無骨に見えるものの中に存在する人間の本当の美しさを見いだしたのだろう。
    そしてどちらもそれぞれの土地に根付き、文学的に花開いたのだ。
    しかしながらゴーゴリの文学作品は、あのドストエフスキーを生み出す種となったと考えると、ロシアの大地と同様に、その広がりがうらやましくもある。

    なお、ゴーゴリはポルタバ近郊生まれ。ポルタバは現在のウクライナにある。ウクライナ人とロシア人のどちらもが、自分たちを代表する作家としてゴーゴリを誇れる時代が早く来ることを願う。

  • 外套は内面を変えれない主人公が外套を纏うことにより内面の向上も付随したと勘違いしてしまう。いざ外套を剥ぎ取られて内面の変化がいざ錯覚と感じて失望の中死んでしまう。
    鼻は逆で鼻を失った主人公が狼狽えて鼻を捜し結局元に戻る小説。
    二つの共通点は内面と外面はそれぞれ磨かなければならない。

  • ドストエフスキーをして「我々は皆ゴーゴリの『外套』の中から生まれたのだ!」と言わしめたというだけあって、名作。
    一見してとるに足らない人生の中にも燦然と輝く瞬間があり、死に至らしめる悲劇があり、人間の善意や悪意、傲慢や小心、清浄や猥雑、そういうものが混然とした人間世界の中で決して矮小化せずに描かれている。
    つまらない人間(?)なのに、主人公に一度会いたくなる。

  • ジュンパ・ラヒリ『その名にちなんで』で、アショケがゴーゴリの『外套』を持っていた、という話を読んで、僕も読んでみた。『鼻』は1836年発表の作品、『外套』は1842年発表で、今から180年くらい前の短編。にもかかわらず、古さを感じない。『外套』で描かれる悲劇のなかに混じるおかしみ、おかしいからこそ悲劇が引き立つ、というそのバランスが魅力的だった。

    『外套』よりも『鼻』はいっそう奇妙、シュールで、おかしみも大きい。鼻が官員の服を着て歩き回って、誰もそれを気づかないとか、何なんだ、と思う。鼻のない自分の顔を鏡で見たコワーリョフが、「なんちう醜面(つら)だ!」と言うところは、訳語のおかしみも相俟って忘れられなくなった。

  • 去年いとうせいこう『鼻に挟み撃ち』を読んで「鼻」に興味が沸いたので今更この年になってゴーゴリの代表作を。

    まずは「外套」。下級官吏が奮発してようやく誂えた外套を暴漢に奪われさらに取り戻すために奔走してエライ人に頼みにいったのに怒鳴られてびっくり、ショックのあまり寝込んで死んじゃうも化けて出て復讐を果たすという、一見どこに救いを見出せばいいかわからないほど悲しい話ながらなぜかコミカルなのがすごい。悲劇と喜劇って紙一重なのだよなと改めて思わされる。

    「鼻」はなんともシュール・・・。文章だから成立しているけれど実際、礼服を着て紳士のようにふるまう鼻の姿というのはどう想像していいかわからない。ダリの絵みたいなのがなんとなく頭に浮かんだ。ある朝目覚めたら虫になってるのもイヤだけど、ある朝目覚めたら鼻がなくなっているのみならずその鼻が独立した人格として行動しているっていうのも相当イヤだなあ。

    基本的にどちらの話も、見た目上大切なもの=外側を覆う外套も、顔の真ん中にある鼻も、他者からの第一印象を決定づける外見上の特徴(虚栄心の象徴的なもの?)が失われ、それを取り戻すために主人公がすったもんだ繰り広げ、ラストは一種のハッピーエンドという同じ構造。なぜかしら、ちょっと落語っぽいような印象を持ちました。個人的には奇想天外な「鼻」のほうが好き。

    余談ですが前述いとうせいこうの小説内で、ドストエフスキーの「われわれはみなゴーゴリの『外套』から出てきた」という言葉について、『鼻』だって名作なのになぜ『外套』にしたのか、それはつまり「われわれはみなゴーゴリの『鼻』から出てきた」では「お前は鼻水か、ということになる」からじゃないかと書かれていましたがごもっとも(笑)

  • ドストエフスキーがそこまで言うならと思い読んでみたらこれがおもしろい。
    「外套」のアカーキイさんが不憫でかわいそうでしょうがないけど、そういう人に対するゴーゴリのまなざしはとても優しい。
    ところで「アカギ」ってこっから名前取ったんじゃないかなんてふと思ったけど考えすぎか。
    「鼻」はカフカや安部公房的なストーリーで、外套よりエンタメ。
    荒唐無稽なようでいて、自分が悪いわけでもないのにひどいことに巻き込まれるというのは人生のあるあるなので、これもまたあるあるなんだと思った。

  • 知らなかったけど、ゴーゴリって、トルストイやドストエフスキー、ツルゲーネフよりも年上で、しかもツルゲーネフは大学時代の教え子(ゴーゴリの世界史授業を受けたことがある)なんですね。
    てことは、ゴーゴリこそがロシア文学の先駆者であり、父であり開拓者だったんですね!へー。
    以下、感想。

    『外套』
    万年下級役人の、アカーキイ・アカーキエヴィチが主人公。彼は見るもみすぼらしい外套の持ち主だったが、ある日、大金をかけて外套を新調する。気持ちは晴々しく生まれ変わったよう、役人仲間達も彼の外套のために祝杯をあげるべく宴会を開く。しかしその宴会の帰り道、追い剥ぎに遭って真新しい外套を奪われてしまう。アカーキイは何とか奪還する漠上司などにもかけあうが、この上司から手酷い叱責を受け精神的にダメージをくらい、かつ外套を奪われたショックのために死んでしまった。それ以降、ペテルブルグにはアカーキイの幽霊が夜な夜な参上し道行く人の外套を奪ってまわるという噂がたった。かつてアカーキイに罵声を浴びせた上司もこの幽霊に遭遇し、彼の上等な外套を奪われた…

    という話。
    コミカル&ユーモラスで読み手をクスッと笑わせる、かと思いきや、いきなり悲壮な展開。罪の無い主人公に同情せざるを得ない。そしてラストに幽霊参上という幽玄?な展開で、物語自体はとても短くまとまった作品なのに、いろんな気持ちを抱きながらこの短編を読んだ。一粒で2度も3度も美味しい作品だった。
    この作品は、他のロシア作家達に多大な影響を与えたとされているが、なんとなく分かる気がする。ドストエフスキーの作品のユーモラス、トルストイ作品の理不尽や悲壮感に何か共通するものを感じる。

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