無関心な人びと 上 (岩波文庫 赤 713-1)

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  • Amazon.co.jp ・本 (316ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003271315

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  • 『倦怠と、自分が余計者であるという感覚が、ひしひしと彼の身を包んだ。敵意を含んだような客間の闇のなかを、彼は見まわした。それから、あたりの顔をじっと見つめた』―『第3章』

    陳腐な連想だけれどヴィスコンティの「家族の肖像」の一場面が頭の中で再現される。ヴィスコンティを初めて観たのはいつのことだったか。あれは確か正門からそう遠くない女子大の学園祭での「山猫」の上映会だった気がする。退廃的な美、という決まり文句の意味するところも解っていなかった頃。まだ「ベニスに死す」は観てはいなかったけれど、萩尾望都の「ポーの一族」と並べて批評する人がいることは、隔週刊の「ぴあ」を愛読していた少年としてはトリヴィアな知識として知っていた。けれどそれは「プラトニックラブの本質は男色だよ」と簑島さんが「花岡ちゃんの夏休み」(清原なつの)の中で言っていたので「饗宴」を岩波文庫で読んで確認してみた、という程度の浅知恵でしかなく、同世代の女子たちが「エドガーが!」「アランが!」と熱くなっているのを、むしろ無理解のまま冷ややかに眺めていた。その違いを当時の少女漫画で例えるなら、一条ゆかりの「有閑倶楽部」はまだ面白いと思えたけれど「砂の城」はどこが面白いのか解らない、という感じ。それくらい初心[うぶ]だった。モラヴィアの「無関心な人びと」を読みながらヴィスコンティのことを連想するのはベタな発想なのかずれた感覚なのかは解らないけれど、そんなことを思い出して考えていたら、女子大の学園祭で「山猫」を観ていた時の落ち着かなさも思い出してしまった。

    アルベルト・モラヴィアと一つ違いのルキノ・ヴィスコンティの「山猫」の公開は自分の生まれた年。翌1964年には米国カリフォルニア・バークレーであの暴動が起きている。1970年代に世界規模で活発化する学生運動が始まる直前の不穏な空気が漂っていた時代に、日本では後に無気力な若者を称して「三無主義」と呼ばれる時代の来るおよそ半世紀も前に書かれたのがモラヴィアの「無関心な人びと」。なんの切っ掛けで読書リストに入っていたのか思い出せないけれど、訳者の河島英昭といえばやはりウンベルト・エーコの「薔薇の名前」なわけで、その初翻訳の本となればどうしても読んでおかずにはいられないというところか。氏はイタロ・カルヴィーノの翻訳なども手掛けているけれど、この作品にこれほどの思い入れがあったとは知らなかった。カルヴィーノもアントニオ・タブッキも好きだけれど、本当のイタリア好きというのはやはりヴィスコンティとかモラヴィアを面白いと感じられる人のことを指すのか、などと全く作品とは関係のない感想を抱く。

    『それなのに自分は、持ち前のおどけた仕草で、その場をやり過ごしてしまった。ああいう状況のなかでは、少しおどけた滑稽な態度をとるのを、むしろいちばん自然な、いちばん適当な方法であると、日ごろから自分は思いこんでいるらしい。二言、三言、何か言い、お辞儀を一つして、あとは立ち去るだけ。しかも、それから道路へ出たあとで、自分は嫉妬も、心の苦しみも、何一つ感じなかった。ただ、移り気な自分の無関心に対する堪え難い嫌悪ばかりを感じていた。無関心に引きずりまわされ、服を着替えるように、日夜、信念や態度をめまぐるしく取り替えてゆく、そういう自分だけがあった』―『第13章』

    「山猫」を初めて観た時の落ち着かなさは自分の理解を超えた価値観を見せつけられている、というところに根があったのだと今なら解る。勘違いでも何でも、自分の言葉に置き直せるなら、人は多分不安を感じない。落ち着かなさの根本には自分の言葉にないものへの恐怖心がある。「無関心な人びと」の描き出す世界の住人は、「山猫」を初めて観た当時の自分であればまだしも、世の中の不条理もある程度身に染みた今の自分にとって、全く知らない人々ではない。それ故、頽廃的な雰囲気が思った以上に伝わってきてしまう。もちろん、そうやって卑近な世界に引き寄せて作品を読んでしまうのはよくないとも思うけれど、今さらヴィスコンティを愉しむことが出来ないのと似たような印象を受けてしまうのは偽らざるを得ないところ。可笑しな連想ついでに言うなら、むしろヴィスコンティというよりはローティーンの頃に友達と連れだって観に行った「処女の生き血」という吸血鬼映画の印象が主人公の一人であるミケーレに重なる。この映画はホラー映画と分類されているけれど、当時は確か成人映画指定だったような記憶がうっすらとある(なので年齢詐称して入った覚えが、、、)。こちらは処女の血を吸わなければ生きられないという情けない吸血鬼が少女を狙うというロリコン的な、今考えればコミカルな物語。何しろ吸血鬼は死にかけているし、これはと狙って襲った相手が処女ではなくて吸った血を苦しみながら吐き出すとか、ドタバタ喜劇のような映画だった。「無関心な人びと」には翻訳家があとがきで解説するような文学的意義もあるとは思うし、カミュの「異邦人」にも似た社会の不条理に対する思いのようなものを感じたりもするけれど、青年のもやもやとした心理を疾[と]うに忘れた今となっては、どうしてもこの吸血鬼映画とも共通する陳腐な悩みを大袈裟に捉える構図を感じてしまう。もちろん、当時のイタリアの没落貴族の状況や第一次世界大戦後の時代の空気のようなものを反映した作品ではあるのだろうけれど。

  • 執筆当時のモラーヴィアから見た大人世代の登場人物たちが、極端に抑制も倫理もない唾棄すべき存在として描かれていて、うむ、モラーヴィアくんどうした、という気持ち。その一方で、同世代の姉弟は痛ましい。あの母親じゃなあ、と思いつつ、健やかな自己肯定力を育むにはいったいどうしたらいいんだろう、とぼんやりした。自分は幸せになる権利がある、と信じる気持ちを持つには。

  • 働かずとも生きていける中流家族。他人に自分達の運命を預けてしまったから漠然とした不安しか残らなかったのではないかな。無関心というより虚しさが哀しい。品がある分自暴自棄になるにも時間が掛かるところも辛いなぁ。ずるい人はこの手の人を敏感に見抜いて利用しようとするし、そこに助けも来ないところがリアル。カルラを救ってあげたいけどもう無理かな? 下巻はどうなる?

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