- Amazon.co.jp ・本 (368ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003271711
作品紹介・あらすじ
人間の肉体だけでなく、魂をも破壊した"アウシュヴィッツ"という死の世界を体験した者が、いかにして普通の世界に戻っていくのか、いかにして一度失った生を新たに獲得していくのか-。絶滅収容所を奇跡的に生き延びた主人公=作者レーヴィ(1919‐87)が、故郷イタリア・トリーノに生還するまでの約9カ月の旅の記録。
感想・レビュー・書評
-
973
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
フランクルの『夜と霧』の次に読んだ。淡々と、思った以上に明るく話が進むものの、その終わり方と最後に作者のその後を知ると、言いようもない苦しい気持ちになる。解放され、世界がどんどん「戦後」になっても、収容された彼らの戦いはずっとずっと終わらなかったんだなと。
-
第二次世界大戦のソ連を舞台にした小説を読んだので、積読状態にしておいた同時期のこの本を読むことにした。
複雑性PTSDの患者の整理しようのない感情と絶え間ない苦痛と非人間的な環境に対する絶望の吐露ではじまり、自分の人生を取り戻せないまま終わる。
彼はがん治療で苦しむ母を見て呼び起こされたラーゲリの記憶に、追い立てられるように投身自殺をした。彼はとうとうラーゲリ以前とラーゲリ以後の人生を統合できなかった。
読んでから気付いたけれど、この本の題名は「終戦」ではなく「休戦」だ。彼だけではなく多くの人が人生を戦争の悪夢に塗りつぶされてしまった。 -
戦争は終わってもまだ続いている。
アウシュヴィッツ解放後、混乱の東欧各国へ移送され、帰郷までを綴った手記。
国境を越えた民族間の交流が、
混沌とした大陸に秩序の融和をみた。
投獄中の陰鬱な魂を浄化し、人間性を回復する彷徨ではなかったか。 -
ホロコーストに関する「基本図書」の一つレーヴィの「これが人間か」を読んで、あらためて慄然とした。続けて、ホロコーストに関する本を読むのは、つらいが、「これが人間か」のその後を知りたくなるのは人情かな?
フランクルの「夜と霧」は家に帰るところまで書いてあったと思うのだが、「これが人間か」はソ連軍によるアウシュビッツの解放で終わって、そこから故郷に帰る話しは書かれていない。人の心理としては、「帰還」の旅をしりたいわけだ。
そういうわけで、レーヴィのアウシュビッツから故郷のトリノに帰るまでの話を書いたのがこの「休戦」。
アウシュビッツが解放されたら、すぐ帰れるかというと、そうではない。1945年1月はまだ「戦争は終わっていない」、ヨーロッパでの戦争終結は、5月なのだ。そして、日本が降伏する8月まで戦争は終わっていないのだ。そして、戦争が終わろうとするなかで、すでにソ連とアメリカの戦争が始まろうとする雲行きなのだ。
そういうわけで、ソ連の支配下にあったポーランドから旧敵国のイタリアには簡単には帰れないのだ。
結局、レーヴィがトリノに帰るのに約9ヶ月がかかり、その間、あちらこちらの収容所、抑留施設をまわることになる。
ソ連による抑留というと、シベリアでの強制労働みたいな話しになるのかと思ったら、そんな感じではない。
ソ連というか、ロシア人の東欧での支配は、おおらかというか、大雑把なもので、収容所といっても出入り自由だし、誰がいるのか、何人いるのかも把握していないゆるやかなもの。食事も無秩序なものながら、ロシア人も含めて、みんな同じものを食べている。カオスではあるが、人を差別しているわけではない。まあ、よくもわるくも「人間的」なものだったようだ。
(「解放」してもらった恩義もあるのか、レーヴィのロシア人の描き方は、概ね、肯定的。当時のソ連はスターリンが支配しており、ここはここで、もう一つの「収容所群島」だったはずなのだが。。。現実はいろいろな側面があるということか)
そうしたなか、アウシュビッツで徹底的に人間性を否定され、個性をなくした人々が、すこしづつ人間性を取り戻してくる。なんだかキャラがたってきていて、ほんと人間って多様だな〜と思う。
この9ヶ月の物語は、一種のピカレスク・ロマンとでもいうもので、著者の冒険が描かれていて、そこまで暗くない。
というわけで、「これが人間か」の救いのない世界から解放されて、ちょっとほっとするわけだが、アウシュビッツの傷は、完全に癒されることはない。
日常に戻っても、それが常に戻ってくるのではないかという深いおそれがある。今、ちょっとした「休戦」の期間で、そのうち、また戦争、収容所という現実が戻ってくるのではないかという恐れをもって、この帰還の物語は静かに終わる。 -
この本も、読み終えて、すぐには感想を書けなかった一冊。絶滅収容所を生き延びて、祖国イタリアに生還する様を描く。
結果として、21世紀を待たずして、また、混乱と 収斂と拡散の1990年代を見ずして、自死したプリーモ・レーヴィ。
その残された詩文を、一行一行、確かめていきたい。 -
アウシュヴィッツからイタリアに生還した筆者の、解放から帰国までの旅路について。様々な人間が非常に、非常に豊富な表現で、ときにユーモアを交え描かれておりすばらしい。
(本題からは外れるが)ナチスの蛮行によりこのような才能がどれだけ葬られたのかと考えるとつらい気持ちになる。 -
怒涛のレーヴィ第三弾。
大戦。アウシュヴィッツ。そして「書くこと」。
「悲惨な」体験であったアウシュヴィッツを「悲惨な」という言葉の中に閉じ込めないようにするには、血の滲む努力と自制心が必要だろう。それをレーヴィは『アウシュヴィッツは終わらない』と本書の中で成し遂げている。単なるセンチメンタリズムではない、本当の記録文学がここにある。 -
プリーモ・レーヴィの「見る」という行為は実に静かで淡々としたものだ。それは彼が化学者であったことに起因するのであろうか? わかならない。ただその視線が自分の人生をも突き放して見つめることを可能にしたことだけは確かだ。
http://sessendo.blogspot.jp/2015/07/3.html