密林の語り部 (岩波文庫)

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制作 : 西村 英一郎 
  • 岩波書店 (2011年10月15日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (368ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003279632

密林の語り部 (岩波文庫)の感想・レビュー・書評

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  • 岩波文庫にバルガス=リョサの著作が入っているのを見て「おおっ」と思った。岩波といえばやっぱり古典中の古典というイメージなので比較的新しい雰囲気のするものが入っていると「岩波さん頑張ってるなあ」と思ってしまうのである。そんな岩波さん(いつの間にか「さん」づけ)に敬意を表し『密林の語り部』を手に取る。

    『密林の語り部』は著者バルガス=リョサ自身を思わせる「私」と顔の半分に大きな痣を持つマスカリータと呼ばれる人物やその他研究者との会話、交流で構成される章と、アマゾンの部族の人たちの声や行動といったものを人称も時系列の感覚もなく、生きている人間と死んでいる人間の境も不明瞭な形で書き継がれていく章とが交互に出てくることで進んでいく。このうち後者であるアマゾンの部族の章は、声の主体を探そうとすると途方に暮れてしまい、あまり意味は追わずにどことなく雰囲気を味わいながら読むことになった。

    アマゾン部族の章を読みながら「マジック・リアリズム」といった言葉もよぎったが、そういう言葉を使ってしまうとなんとなく自身消化不良を起しそうな気がしたので、自分なりに書ける範囲で思ったことを書きとめてみたいと思った。

    アマゾンのとある部族の慣習についての記述を読み、ささいなこと(口論をしただけとか誰かに恨まれたりといったこと)がすぐに自殺に結びついてしまうことや、病気などになるとすぐに生きることをあきらめてしまう、という死生観、そして食人の文化など、全く想像しないわけではなかったが、こうして書かれているのを見ると純粋に驚いてしまう。そしてこのような人たちの世界観を表現するためにどのような言葉を費やすことが可能なのだろうか?と思ってしまう。われわれが日常使っているような言葉もしくは言葉の組み立て方では「それ(アマゾンの部族の世界観)」について書くことができないのではないのだろうかという思いがする。

    「それ」を書くためにはどうしたらいいのだろう。私は2つあるのではないかと思っている。
    1つは「それ」を語る人達の言葉に寄り添うこと。
    2つ目は「それ」ではないもの(要するに自分たちがいる側の世界)の言葉に揺らぎを与えてあたかも「それ」であるかのように感じ取れるようにしてしまうこと。
    1つ目が言語学者や民族学者の仕事で、2つ目が文学者の仕事なのではないだろうか、といったん定義してみたくなる。そうすると『密林の語り部』がとても巧みに構成されたもののように思われてくる。

    2つの世界を対比させて書くのはどういう意図があるのだろうか。そこに何か普遍的なものを見い出そうとしているとも読めそうな気がしてくる。語り部による「語り」という行為。「人が人へ語るとはどういうことなのか」という事柄に光をあてているような気もする。私からするととてもほのかな光で、自分がそれを掬い取ることができるのかどうかもわからないのだけれど。

    また、バルガス=リョサは大統領選に出馬するくらい現実世界に目を向けている人というイメージも一方であって、その現実を見る厳しいまなざしがアマゾン部族の章だけでなく、現実世界の言葉をもって小説を構成する要因になっているのかもしれないという思いも一方である。

    いずれにしても一筋縄ではいかない小説だ。

  • 語り部パートのうねるような神話的な言葉が、それはわたしの生きる社会とはまったく違う論理で動く社会の言葉なのだけれど、幾つも幾つも胸に刺さった。「自分の義務を果たしているか?」という問いを自分に向けたことなんて、今までなかった。「やらないと怒られるから・困るからやること」以外の義務なんて考えたことがなかった。たぶんそれだから浮き草感覚が消えないんだな。これはもうちょっと考えてもいいことな気がする。

    語り部が語り部になっていった過程がギリギリと辛くて、でも語り部になったことで救われたことも伝わってきて、7章には実に揺さぶられた。語り部だけではなくて、どんなひとでも、自分がこの世界にいていいんだと思えるようになるまでの道のりはそれなりに長くて険しい。そう思えなくてつらいときは、この本を読み返そうと思う。

  • 魂の遍歴と変身物語。そのアナロジーはまさにKafkaesque。だが、ひとびとはそれに抗うすべもなく、突き動かされてただ密林を放浪する。なぜならば、それだけが自然のなかで人間が人間として生きていく証しだから。そして、怒ることも恐れることもなく、静かな解脱の境地でまた旅立って行く者を、ひとは聖人と呼ぶ。
    そんな人間の生を、語り部によるマチゲンガ族の言葉によってと、そして西洋人のまなざしによって、読者は交互に目撃する。マチゲンガ族と彼らの習癖はいまの世では滅びゆくかに見えるが、決して失われることはない。人間が人間であり続け、夢や無意識を持ち続けるかぎり。

  • ひどい痣を顔に持つ友人マスカリータ、「私」の思い、アマゾンの少数民族の世界、そこで語られる神話、彼らが「文明化」にさらされること。様々な要素が交錯して書かれている。
    逐一ガチガチに理解しようとするよりも、彷徨うように読み、何となく物語を感じながら読むことを選んだ。そういう楽しみ方をする本だと思う。
    「私」は密林に消えた友人マスカリータを追わずにいられない衝動をを持つが、明らかに別の立場と道を歩んでいる。マスカリータは正しかったのか、文明のありかたとは、などと色々と考えさせられるのだが、結論が出るものでもない。多くの人は「私」と同じ立場に留まり遠くから彼の地を思うことだろう。
    奮起して密林の部族の力になりたい などと思って行動すれば、必ず私たちはマスカリータが忌み嫌った言語学者やキリスト教の神父や研究者など、善意の悪者たちになってしまうのだ。

  • ノーベル賞効果でリョサが文庫で読めて嬉しい限り。
    顔に大きな痣があるという肉体的欠陥を抱えるユダヤ人、ペルーの白人社会のマイノリティである主人公が、アマゾンの少数部族という更なるマイノリティの世界に惹かれ、身を投じる。リョサらしく、物語は複数の視点から描かれるが、さほど複雑ではなく、プロットは既視感もある。
    アマゾン、少数民族という「謎」を抱えたペルー社会、少数民族の独自の文化が白人の善意の布教によって崩壊する問題なども興味深いが、この小説の山場は語り手の物語るアマゾンの神話だ。神話?ほぼリアルな現実なのだ。天地は想像され、破壊される。人は(私は、あなたは)ワニの背に乗って河を渡り、鷺の首にしがみついて空を飛ぶ。ザムザのように目覚めるとセミになっている。孤独な旅の途中、ホタルと言葉を交わすようになる。ホタルは妻が星になった、と打ち明ける。

  • 私は怒りを感じる。〈車や大砲や飛行機やコカコーラがないからといって、彼らを滅ぼす権利があるとでもいうのだろうか?〉宣教師たけでなく民俗学者も悪だ。彼らと共に生活し、ジガバチが芋虫に産みつけた卵から孵る幼虫のように彼らの内部から破壊するのだ。マチゲンガ族はロマのように放浪する民。しなやかな強靱さをもつ。語り部は物語る、世界の生成、月と太陽、善き神と悪魔、死者の国、タブーなどを。顔に傷のあるカシリの偽りの光ではなくタスリンチに息を吹き込まれた真の光だった。密林から呼ぶ声がする。マ・ス・カ・リ・タ…

    〈聖書、二言語の学校、福音の指導者、私有財産、金銭の価値、商業、洋服…それらがすべて向上に役立つと言えるだろうか?自由で独立的な《未開人》から西欧化の戯画《ゾンビ》への道を進みはじめてしまったのではないか?〉これはマチゲンガ族だけの問題ではなく、北アフリカを除くアフリカやオーストラリア、オセアニア、東南アジアなどにも当てはまる。民族自決とはヨーロッパにだけ適用されるもの。ダブルスタンダードだ。なぜ彼ら自身に選ばせないのか。自分たちの経済システムに組み込み、収奪するためにほかならない。

    生物多様化、進化論が正しいとするならば太古の昔から生命は常に進化してきた。ならばなぜ進化の頂点とされる人類に一元化されないのか。それは多様化により様々な環境に適応し、分科することにより絶滅することを防いでいるのではないかと思う。人類も居住範囲を拡大し、環境に適応して多様な文化を築いてきた。大航海時代より近代社会への転換をせまられるようになった。現代はさらに経済システムまでもグローバルスタンダードの名の元に一元化されようとしている。それは人類の滅びへの道ではないのか。

    マチゲンガ族は決して怒るなと言う。〈《大切なことは、焦らず、起こるべきことが起こるにまかせることだよ》と彼は言った。《もし人間が苛々せずに、静かに生きたら、瞑想し、考える余裕ができる》そうすれば、人間は運命と出会うだろう。おそらく不満のない生活ができるだろう。だが、もし急いて苛立ったら、世界が乱れるだろう。〉これが彼らのしなやかな強靱さの秘密だ。西洋哲学や仏教などに勝るとも劣らない哲学ではないだろうか。

    ストーリーと語り部の物語が対位法により交互に語られる様はバッハのトッカータやフーガのようだし、フィレンツェと密林もまた対応関係にある。『ドン・リゴベルトの手帖』はこの発展系かもしれない。さりげなく?カフカを織り込んであるのも見事。ダンテやマキャベリにも言及されそれぞれ照応関係にあるようだ。カルペンティエル『失われた足跡』と読み比べてもおもしろいかもしれない。『緑の家』とも関連があるようだ。

  • バルガス=リョサは最も好きな作家の一人だ。今まで読んできた彼の作品はどれも、近代的社会と前近代的な文化という二つの世界を対位法的に描くことで世界の可能性を暴き出しながら深い感動へと導いてくれる。密林の向こう側から紡がれる物語はかつて語る事が社会そのものであったという事実を私たちに突き付け、それをこちら側の世界から懸命に語ろうとすることでその可能性を乱反射させる。例えそれが解読困難な呪文の様なものであろうとも、遠い世界に手を伸ばそうとする事を決して諦めてはいけないと思わさせてくれる素晴らしい読後感であった。

  • アマゾンの奥地のある部族にまつわるお話。なんだか南米版「ビルマの竪琴」みたいな印象。

  • おそらくリョサ自身であるところの主人公と、タイトルにもなっている未開の部族の「語り部」の語りの章が交互になっています。序盤一見接点のなかった両者の繋がりが徐々に見えてきて、ついに語り部の正体が明らかになった瞬間のカタルシスが素晴らしい。ちょっと泣きそうになりました。全体の構成を無視して、語り部パートだけ読んでも、部族の神話や言い伝えが十分面白いです。

  • 何か物足りなさを感じた。
    『緑の家』のような複雑に絡む物語と同じ手法を取っているのだけど、登場人物が少ないので平易に理解することができる。
    しかしながら物足りなさも感じた。
    そこまで面白い話ではなかったというか。
    自分の読解不足かもしれないが、語り部がそこまで重要な人物であるのかがどうも掴み切れなかったので。
    秘密の存在ならば他民族が語り部になりえるのだろうか、という疑問ばかりが残ってしまった。
    青春小説として自分は読んだというのが正直なところ。
    ジャンルは違えどもクラカワー『荒野へ』にも似た読後感があった。
    青春・自我・文明の間で煩悶する青年像は優秀な人材にのみ許された特権だと思う。
    ただそれも古臭い感は否めないのだけど。
    またこの作品の場合、きっちりと現代文明を描写していることから、その対比としてのマジックリアリズムが鮮明になっており、そういった意味で非常に分かり易くなっている。
    バルガス=リョサはこの作品に随分執心しているようだけど、そこまでのものかなと個人的には思ってしまった。
    その辺を踏まえて読むとまた違った味わいが出るのかもしれない。

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都会を捨て、アマゾンの密林の中で未開部族の"語り部"として転生する一人のユダヤ人青年の魂の移住-。インディオの生活や信条、文明が侵すことのできない未開の人々の心の内奥を描きながら、「物語る」という行為の最も始原的なかたちである語り部の姿を通して、現代における「物語」の意味を問う傑作。

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