- Amazon.co.jp ・本 (368ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003279632
作品紹介・あらすじ
都会を捨て、アマゾンの密林の中で未開部族の"語り部"として転生する一人のユダヤ人青年の魂の移住-。インディオの生活や信条、文明が侵すことのできない未開の人々の心の内奥を描きながら、「物語る」という行為の最も始原的なかたちである語り部の姿を通して、現代における「物語」の意味を問う傑作。
感想・レビュー・書評
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文明を捨てアマゾンの密林で部族の語り部となって生きたユダヤ人青年の物語。言葉が存在を創り、世界を生み、物語ることによってばらばらな人々を繫ぎ留める。‘物語る’という行為と営為の根幹と真意を垣間見たようで、久しぶりに小説読んで心打たれた。
何を読んでも響く作家がいる。読書家の方々なら頷いてくれると思うが、相性のいい作家がいる。馬が合うというか、肌が合うというか。どれを読んでも琴線に触れ、自身の座右の書となり得る書き手。ラテンアメリカ文学を読むきっかけとなった作家はガルシア・マルケスだが、マリオ・バルガス=リョサは自分にとってそんな存在の作家なのだとこの頃、気付いた。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
岩波文庫にバルガス=リョサの著作が入っているのを見て「おおっ」と思った。岩波といえばやっぱり古典中の古典というイメージなので比較的新しい雰囲気のするものが入っていると「岩波さん頑張ってるなあ」と思ってしまうのである。そんな岩波さん(いつの間にか「さん」づけ)に敬意を表し『密林の語り部』を手に取る。
『密林の語り部』は著者バルガス=リョサ自身を思わせる「私」と顔の半分に大きな痣を持つマスカリータと呼ばれる人物やその他研究者との会話、交流で構成される章と、アマゾンの部族の人たちの声や行動といったものを人称も時系列の感覚もなく、生きている人間と死んでいる人間の境も不明瞭な形で書き継がれていく章とが交互に出てくることで進んでいく。このうち後者であるアマゾンの部族の章は、声の主体を探そうとすると途方に暮れてしまい、あまり意味は追わずにどことなく雰囲気を味わいながら読むことになった。
アマゾン部族の章を読みながら「マジック・リアリズム」といった言葉もよぎったが、そういう言葉を使ってしまうとなんとなく自身消化不良を起しそうな気がしたので、自分なりに書ける範囲で思ったことを書きとめてみたいと思った。
アマゾンのとある部族の慣習についての記述を読み、ささいなこと(口論をしただけとか誰かに恨まれたりといったこと)がすぐに自殺に結びついてしまうことや、病気などになるとすぐに生きることをあきらめてしまう、という死生観、そして食人の文化など、全く想像しないわけではなかったが、こうして書かれているのを見ると純粋に驚いてしまう。そしてこのような人たちの世界観を表現するためにどのような言葉を費やすことが可能なのだろうか?と思ってしまう。われわれが日常使っているような言葉もしくは言葉の組み立て方では「それ(アマゾンの部族の世界観)」について書くことができないのではないのだろうかという思いがする。
「それ」を書くためにはどうしたらいいのだろう。私は2つあるのではないかと思っている。
1つは「それ」を語る人達の言葉に寄り添うこと。
2つ目は「それ」ではないもの(要するに自分たちがいる側の世界)の言葉に揺らぎを与えてあたかも「それ」であるかのように感じ取れるようにしてしまうこと。
1つ目が言語学者や民族学者の仕事で、2つ目が文学者の仕事なのではないだろうか、といったん定義してみたくなる。そうすると『密林の語り部』がとても巧みに構成されたもののように思われてくる。
2つの世界を対比させて書くのはどういう意図があるのだろうか。そこに何か普遍的なものを見い出そうとしているとも読めそうな気がしてくる。語り部による「語り」という行為。「人が人へ語るとはどういうことなのか」という事柄に光をあてているような気もする。私からするととてもほのかな光で、自分がそれを掬い取ることができるのかどうかもわからないのだけれど。
また、バルガス=リョサは大統領選に出馬するくらい現実世界に目を向けている人というイメージも一方であって、その現実を見る厳しいまなざしがアマゾン部族の章だけでなく、現実世界の言葉をもって小説を構成する要因になっているのかもしれないという思いも一方である。
いずれにしても一筋縄ではいかない小説だ。 -
語り部パートのうねるような神話的な言葉が、それはわたしの生きる社会とはまったく違う論理で動く社会の言葉なのだけれど、幾つも幾つも胸に刺さった。「自分の義務を果たしているか?」という問いを自分に向けたことなんて、今までなかった。「やらないと怒られるから・困るからやること」以外の義務なんて考えたことがなかった。たぶんそれだから浮き草感覚が消えないんだな。これはもうちょっと考えてもいいことな気がする。
語り部が語り部になっていった過程がギリギリと辛くて、でも語り部になったことで救われたことも伝わってきて、7章には実に揺さぶられた。語り部だけではなくて、どんなひとでも、自分がこの世界にいていいんだと思えるようになるまでの道のりはそれなりに長くて険しい。そう思えなくてつらいときは、この本を読み返そうと思う。 -
2012.7記。
「チボの狂宴」の著者バルガス・リョサ再読。ペルーの少数民族マチゲンガ族の「語り部」が伝える神話的記憶と、人類学者の考察やドキュメンタリー制作の描写が交互に描かれる。
「木が血を流した時代」と語り部が呼ぶ、白人の過酷なゴムプランテーション経営による人口の激減、乱開発から滅び行く民族を守ろうと努力する同じ白人の人類学者たち。定住し農耕することを教え、人口維持に貢献する学者たちは、しかし同時に境界なく森を行き来する民族の誇りと文化を破壊したのだろうか?こうした問題を考えさせられながら、めくるめく神話の数々にも圧倒される。
ところで、本作のハイライトである「大地の揺れ、怒りを鎮めるため突如姿を消す」マチゲンガの家族のシーンは、僕に村上春樹の「神の子どもたちはみな踊る」の冒頭部分を思い起こさせた。阪神淡路大震災の報道を一時もテレビの前を離れずに無言で見続けていた「妻」が、突然姿を消すところからこの小説は始まる。発想の源泉が偶々似ているのか、村上がリョサを読んでインスピレーションを受けたのか、とにかくいずれもとても印象的なシーンであった。 -
神話や民話、民間伝承などが好きなので、語り部パートを特に面白く読んだ。
不思議だなと思ったのは、マチゲンガ族の自殺率が高いということ。寒い地方は鬱が多く、自殺率が高いのも分かる気がするけど、アマゾンのようなただでさえ生存率の低そうな地域で自殺率も高いって…?しかも外敵に対し受け身で抵抗せず逃げるように移住するだけ。よくそれで部族が存続してきたなあ。
とはいえマチゲンガ流哲学の中にはけっこうしっくりくるものもあった。怒りをよしとしないところとか、《人が何をし、何をしないかが問題だよ》とか。
日本で語り部というと、自然災害や戦争の記憶を語り継ぐ人が真っ先に思い浮かぶけど、そういう特定の負の記憶だけじゃなく、歴史や伝承といった地域の多様な話をできる人ってもうほとんどいないよね。テクノロジーに頼れば頼るほど、失われていくものもあるんだな。 -
小説なのか、ドキュメントなのか…。
著者の一人称で回想される章と、アマゾンの密林で小さな家族単位で住処を転々と移しながら暮らす民族の「語り部」の言葉で綴られる章とが混じりながら物語が進みます。
語り部の部分は、なじみのない言葉がたくさん出てくるし、時系列も、登場人物が多いのか少ないのかもよくわからない、独特の文章なので、慣れるまで少し苦労しました。が、徐々に慣れ、学問・啓蒙という名のもとに近代文明が密林の住人たちの生活にもたらした”破滅”の様子が少しずつ理解できるようになってきたことで、どんどん引き込まれてスピードアップ。後半は一気に読み切りました。
アマゾンだけでなく、世界中のあちらこちらで文化の破壊が繰り返されていること、そして、”進化した”社会でぬくぬくと生きている私たちの生活はそうした経過を経てあるのだということを改めて思い知らされる本でした。
語り部が伝える、太陽や月、流れ星、動植物をめぐるものがたりは、とても素朴で、以前に読んだ遠野物語にも、アイヌの人々の物語にも通じるものがあった気がします。 -
現代の私が語る章と、密林の語り部が部族の神話を語る章とが折り重なるように繰り返す。語り部の章が断然よい。アマゾンに生きる少数民族の、いまを生きる神話が、まさに風前の灯の絶唱の如き生々しい生命力を感じさせる。
解説によると、リョサの半生にまたがるテーマを具現化したものだそうだ。物語の出来上がりのレベルで考えれば、同じテーマの「緑の家」の方を上と見る読者が大半を占めると思われる。それでも、作者の思い入れが強い作品は別にある、ということは往々にしてある。
リョサの作品としては読みやすい、入門の書として絶好。 -
難しい。