- Amazon.co.jp ・本 (277ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003313855
感想・レビュー・書評
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岩波文庫
柳田国男 不幸なる芸術・笑の本願
「笑い」「ヲコ」「ウソ」など言葉の使い方が時代とともに変化していることを検証した本
著者にとっての「笑」は、俳諧的であり、高笑いを微笑に入れ替えることにより、笑って人生を眺め、もの静かに笑って生きること
俳諧的とは
人を憐れみ、その立場からこの世を見ようとし〜志を同じくする者の協調と連結とを要すること
著者の日本語を理解できない部分があった。「笑わん」とは 笑うこと?笑わないこと?「笑われる相手」は 笑われる人? 笑われる人の相手の人?
強い者の自由に笑う世は既に去った〜強いて大声で笑おうとすれば人を傷つけ、また甘んじて笑いを献じる者は〜苦汁をなめる
俳諧について
*和歌が古体に復る時代が来ようとも、俳諧ばかりは 古臭い、凡庸ということが 即ち滅亡である
*俳諧の真意は突兀であり、転換であり、また対立であって、むしろ尋常単調の間に現れてこそ人を興がらしめる
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とりあえず、「笑の本願」のみ読み終わった。
「笑い」とは、なにか。
これこれ、こーいうのが知りたかった。
世の中はバカバカしいもので、ほんと、笑っちまう様な事だらけだけど、その「笑い」とは何なのか。そこをちゃんと考えさせてくれる。考えなくちゃあ、仕方がない。
柳田の文体として、「はいこれ、はい、知ってるっしょ?」っていう感じが否めなく、ときに置いてきぼりになりそうになるが、そこを乗り越えるとよく分かる。
実によく分かる話。
「笑の本願」は
自序
笑の文学の起源
笑の本願
戯作者の伝統
吉右会記事
笑の教育
女の咲顔
からなる。
特に「女の咲顔」は、泣ける。
男だろうと泣ける。
「願っていなかったとは言うことができない。」
「言うことができない」て。 -
柳田國男の、大正15年から昭和22年にかけて書かれたエッセイを集めたふたつの著書を1冊にまとめたもの。
これはなかなか面白かった。
「笑い」の文化史という観点で室町時代ころにさかのぼると、大名の家々には必ず一人以上の「咄の者」(=笑わせ屋)がいたという。これはシェイクスピア劇に見られる道化と同じものだろう。つまりトリックスターである。
また、あくどい「偽り」とは対照される「ウソ」の文化史を追えば、これまた「以前はウソつきは一つの職であった。」ということになる。「たくらた」=「馬鹿」もまた、民俗学上はそれ自体価値あるものとしてかつては存在していた。
「不幸なる芸術」では驚くことに、「悪の技術」が称揚されるが、柳田の言うこれはちょっとした悪巧みのようなものであって、戦国時代や近年に見られるような、残虐な悪とは異なっている。
要するにこの本にえがかれているのは、民俗上のトリックスターである。
柳田國男はこうした「悪」「ウソ」「馬鹿」「笑い」の伝統がすたれつつあることを憂慮していたようだ。しかし現在考えてみると、「笑い」「馬鹿」は「芸人」としてテレビの中で存続しているように思う。
ただ、ちょっとした子どもの「ウソ」に対しやかましく大人が叱責するという風潮は、柳田が指摘した当時と変わらない。現代はどんどん堅苦しく、がんじがらめになっていく傾向があるのは確かだ。
柳田は「こういう点にかけては、近代人はかえって自由でない。」と嘆いている。