- Amazon.co.jp ・本 (312ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003314425
感想・レビュー・書評
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日本文化論の古典。著者自身がヨーロッパ留学時に見聞したさまざまな土地の気候・風土とそこに住む人間が相互に形成しあう関係にあることを、著者の持つ天才的な詩人的直観によって捉え、そこから翻って日本の風土と日本文化との関係がもつ特色を描き出そうとする試み。
著者は本書の冒頭で、「この書の目ざすところは人間存在の構造契機としての風土性を明らかにすることである」と述べており、けっして「自然環境がいかに人間生活を規定するかということが問題なのではない」、「ここで風土的形象が絶えず問題とせられているにしても、それは主体的な人間存在の表現としてであって、いわゆる自然環境としてではない」と断っている。
とはいえ、本書の第2章に示された「モンスーン」「沙漠」「牧場」という三つの類型についての具体的な叙述が、自然環境が人間生活を規定するという思考方式からほんとうに解放されているかは疑問である。他方、もし本書が著者の意図するように「人間存在の構造契機としての風土性」についての考察となりえているとするならば、今度は戸坂潤が批判したように、観念論の立場に陥っているのではないかという疑念も生じてくる。まして本書の第5章で、著者がドイツ観念論の系譜における風土と歴史についての考察をたどりながら、新たな風土学の展望を開こうとしていることを思えば、戸坂ならずとも上のような疑念を抱かざるをえないだろう。
こうした問題を孕んでいるとはいえ、本書が重要な洞察を含んでいることを否定することはできない。和辻は、本書の叙述が主観的で一面的な印象に基づいていることを、むしろ本書の積極的な意義として捉え返そうとしている。彼は、この本がある短い期間だけ他の風土に生きる「旅行者」の立場から書かれたものだということを明瞭に自覚していた。じっさい彼は「人間は必ずしも自己を自己においてもっともよく理解し得るものではない。人間の自覚は通例他を通ることによって実現される」と記している。
もし、こうした議論のもつ積極的な意義を救い出そうとするならば、自分自身が住まう風土から他の風土へと越境するという行為は、双方の風土と人間の特性についての理解が成立する可能性を開く振舞いだという考えを、和辻の方法論的な構えとして理解することもできるのではないか。 -
斉藤孝『読書力』にあったオススメの書。必ず読もうと思う。
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◾️概要
風土とは自然環境ではない、の真意を知るため読みました。最も印象的だったのは「文化は文明とは違って、その民族に固有な、したがって原生的なものに根ざしている。その民族が悠久の昔から営んできている一定の生活の仕方、観念の形態で、歴史の展開・生活の変化にも関わらずなお残っているようなもの。」です。
◾️所感
文化、という言葉は日常的に使っているが、その真意を考えたことはなかった。また、それが自然環境と密接な関係にあり、人間の精神構造に刻み込まれているものというのは示唆に富む表現であった。 -
日本人がせこせこしているのに対してシナ人はゆったりしている。しかしそれは感情の細かなあるいは過敏な動きを超克して到達した境地、すなわち物事に動じなくなった腹の据わりなのではない。もともと彼らは動じないのである。
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題名からは想像できない(小タイトルにはなっているが)、深い文化人類学的な哲学書。昔の日本人の知識と文章力には脱帽させられる。ただ、内容については諸説あるようだ。特にまだ世界と交わりが少ない時代に書かれたものなので、各人種の類型化が現代の目で見るとかなり偏狭。ただ、日本人の考察については戦前に書かれた本であるのに、まるで太平洋戦争、その後の復興を予言しているようなところがあり、やはり考察が深い。
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「…さらにまたこの種の政治家によって統制される社会が、その経済的の病弊のために刻々として危機に近づいていくのを見ても、それは「家の外」のことであり、また何人かがおそらく責めを負うであろうこととして、それに対する明白な態度決定をさえも示さぬ。すなわち社会のことは自分のことではないのである」
第1章からいきなりむずかしくてつまづきそうになるが、第2章までいけば個別具体的な議論になってわかりやすい。有名なモンスーン・沙漠・牧場の3類型などはなるほどと思わせる(現代の水準でどの程度の妥当性があるかは疑問だが)。
日本人の政治に対する無関心についての箇所(3章の最後)は、ごく短い記述ながら現代に日本においてもがっつり適合してしまうのが興味深い。 -
同じ直感の天才なら柳田国男の方が好き。モンスーン・砂漠と牧場で偏りがあり過ぎる。
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文化や国民性を「風土」という視点から掘り下げたもの。モンスーン的風土の特殊形態だけを読んでも参考になる。日本人が公共性を持ち得ない理由を、「家」の概念から考察する。