歎異抄 (岩波文庫 青318-2)

著者 :
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  • Amazon.co.jp ・本 (94ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003331828

作品紹介・あらすじ

数多い仏教書の中でも「いづれの行も及びがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」といった『歎異抄』の文言ほどわれわれに耳近いものはあるまい。親鸞滅後、弟子唯円が師の言葉をもとに編んだ本書には難解な仏典仏語がなく、真宗の安心と他力本願の奥義が、和文によって平易に説かれている。段ごとに大意を付した。

感想・レビュー・書評

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  • あまりにもモダンな考え方で衝撃を受けた!

    歎異抄は親鸞(1173-1262)の教えを直弟子の唯円がまとめたと言われる書。親鸞の没後作られた。親鸞の教えをやさしく説明したもので、大きく分ければ前半が親鸞の言行録、後半がそれに対する唯円の解説となっている。

    わたしにはどんな宗教に対しても信仰はなく、他力本願という言葉くらい聞いたことはあるけれども…… 「他力本願なんて、なんてテキトーで安易な教えなの。修業するとまではいかなくても、生活に気をつけるとか、よいことをするとか、そういうのはないの?」というふうに考えていたけれども、ぜんぜん違った。

    ここからはわたしの読み。

    「他力本願」とは、簡単にいえば「阿弥陀仏を信じてひたすら念仏を唱えれば誰でも往生できる」ということで、やることといえば念仏を唱えることしかない。
    やること自体は誰でもできて、断食とかもなくて簡単そうだが、実はこの“信じる”がポイントでかつ、究極的なクセものだ。

    わたしの理解では「信じた」とか「理解した」とか言葉でいえる程度ではぜんぜん信じたことになってなくて、もう疑問にすら思わない、自分にとって常識化して、意識して思い出そうとしなり考えたりしない限り意識に上ることもないくらい、いやそれよりも上だな、二度と意識に上ることはないくらいにまで、“信じ切る”必要があるということを、親鸞は手を替え品を替え繰り返し言っている。

     なにを信じるの? まあ表面上は「阿弥陀仏」ということになるんだろうけれども、おそらくそうじゃない。こういう言い方をすると自力──他力の反対。自分の意思で何かをおこなうことで、親鸞は自力の信仰を全面否定している──が混ざるので言い方が難しいけど、抽象的には「死後の世界は怖くない、もしくはどうであっても少なくともいまの自分に理解できることではないから、この世に生きるあいだはこの世で生きていること自体に完全な信念を持て」ということなのではないだろうか。

    つまり、あなたが多少なにかで失敗したとしても、悪い事をしてしまったと思っても、そういうのをいちいち悔やんではいけない、死後の世界を気にかけるよりもいまが大事で、いまを生きていればその先は勝手についてくる(というか導かれる)、ということを完全に信じて、そのように生きなさい、と言っているように思える。

    なるようになるというか、ケセラセラというか。そういうのに完全に身を任せよと。

    なんだそんなことか、そんな無責任でいいのかって思うけど、でもねえ、それを自分の人生で完全に実践せよと言われても、たぶん難しいだろうな。

  • 親鸞の口伝の教えを弟子の唯円が門徒のためにまとめたもの
    。師の存命中に異端論争が起きることから、真宗とは難解なものなのでしょうか。また、この書が明治の世まで秘されていたことは、どういう理由なのでしょうか。なんとも、不可解なテキストです。

  • 親鸞を師とあおぐ唯円が、その教えに対する異説があるのを嘆いて書いたという『歎異抄』。

    「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
    いわゆる悪人正機説で有名な親鸞。

    とはいえ、善行を積まずとも「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるだけで成仏して浄土に行くことができるという他力本願の思想は、当時においても違和感を持たれており、そうはいっても善行は大事だよね、というような他力本願思想の徹底さを欠く異説がたくさん出ていたという。自分がまさにその言葉を聞いたときに持った違和感は時代を越えておそらく多くの人が共有するものだろうし、そういった反応があったという状況は容易に想像できる。親鸞はその他力本願の思想のゆえに正式な弟子を取らなかったが、それは宗教的権力を保持し、宗派を維持しようとするものにとっては、そのままでは受け入れがたいことだったのかもしれない。

    そこで唯円は、親鸞の言ったことを信じ、その言葉とはずれたことを言う輩に対して、親鸞はそんなことは言っておられなかった、と嘆く。これに対して、批判して相手の主張を変えるために戦おうとするのではなく、嘆くという行為が親鸞の教えに忠実なる者の行動らしい。なぜなら、親鸞の教えは、あるがままを受け入れる、という行為を是とする考えに行きがちであると思えるからである。

    親鸞の教えは『教行信証』と呼ばれるものである。
    「他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教(教)は、本願を信じ(信)、念仏をまうさば(行)、仏になる(証)、そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや」(第十二章)という適切な言葉がある。これが真宗の教義である。『教行信証』の説くところもこのほかにない。したがって、この簡単なる言葉を心にうけいれ、身につけることができれば、それで真宗の信者といわれるのである」

    つまりは、念仏至上主義なのである。一心に念仏を信じること、救われるから信じるのではなく、ただ信じ行うのである。
    「親鸞においては、その真実の道理として心にうけいれるべきことを「本願を信ず」といい、その道理を事実として身につけてゆくことを「念仏をまうす」というのである」

    「有限者である衆生の知識では、無限者のあり方を規定することができない」
    というとき、神の意志を個人の意志や行動で左右することはできないとして、救済されるかどうかはすでに決まっているとしたカルヴァンによる予定説とも相通ずるところがある。

    「それは真如(人智を超越した真理)から、我らの上に現れ来るものというほかないものである。故にそれを如来という。阿弥陀とは即ちその如来の徳である。これによって、不安と苦悩とにある我らにかけられた大悲の願は如来の本願といわれ、また弥陀の本願といわれるのである」

    そこには自力では救われないという認識がある。ゆえに他力本願の徹底が説かれるのである。それはカルヴァンがそうであったのと同じく、超越者の超越性を突き詰めて考えた場合には、論理的にたどり着く境地なのかもしれない。一方でカルヴァンの予定説は救われるのは選ばれた人であり、親鸞の他力本願はすべての人が救われるというものであるところが大きな違いであるように思われ、それが宗教としての性格にも大きな違いをもたらしているとも考えられる。
    「されば老少善悪の人をえらばない弥陀の本願は、正しく「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願」(第一章)である。その本願による不安と苦悩のないところを浄土という。したがって如来の本願とは、衆生を浄土にあらしめたいということである」

    それでは、最後に、なにゆえにそこまで念仏に信心を置くことができるのかという疑問が残る。それに対しては、「私は信じるから」との答えであり、それがたとえ間違っていたとしても後悔はないのだと言うのである。
    「念仏は浄土へ生れる種であるか地獄におちる業であるか知らないと答える。それは信心は知識でないことを思い知らしめるものである。さらに「いづれの行も及びがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」という。そこに自信の現実があるかぎり、法然聖人に欺かれたとしても後悔はない。いのちをかけての信心である」

    キルケゴールが「信仰の跳躍」と名付けたものが、そこにあるのではないか。信心は知識ではなく、行であるというのはそのことを指すのではないか。先ほど論理的に突き詰めるとそこには予定説や他力本願のように、超越者の無限性に対する人間の有限性を強調する教義と心性が生まれると書いた。その通りである。論理によって真実に辿りつくためには真なる命題から出発する必要がある。その帰依すべき真なる命題が、親鸞の場合は弥陀の本願であり、キリスト教プロテスタントの場合には聖書であったのだ。

    「その煩悩の心も念仏になごめられ、その罪悪の身も本願の大悲にたすけられてゆく。それ故に念仏にまさる善はなく、本願をさまたぐる悪はないのである」

    宗教が成立するためには、信仰の跳躍が必要なのである。その意味では、オウム真理教も正しく宗教であったのだと思わざるをえない。イスラム過激派も同じく正しく宗教であると思わざるをえない。無論、彼らが親鸞に似ているという意味ではない。ただ、宗教として存立するために何かに帰依するという段階をどこかで踏まざるをえず、そこには跳躍が必要であるということだ。そして、いつどこへ向けて跳躍したのかというのが、その宗教の根っことなるのではないのだろうか。

    親鸞は日本における宗教改革者の一人であった。その過激さがゆえにこうやって宗教それ自体について考えさせる思想家でもある。その親鸞から興された浄土真宗が日本有数の宗派となっているのは日本の宗教観念の懐の広さというか何事もそのまま受け入れて内部化する力というのは相当なものだと思う。


    ---
    最近、『歎異抄をよむ』という本がそれなりのベストセラーになり、アニメ化までされていると聞いて、何がそうさせているのかとても不思議になった。必ずしも現代の趣向に会う宗教観とも思えないのだけれど。

  • むずい笑、でなおしてきます

  • 今ではウェブ上に様々な現代語訳の歎異抄をよむことができる。本書が出版された昭和33年当時も「現代語訳の優れたるものが続出している」とのことで、本書はあえて解題と解説のみ付したスタイルとなっている。歎異に書かれた思想が時を選ばず読まれていることを感じた。
    近代につまずく時、人はたびたび親鸞を参照する。時にイエスと似通いながらも対峙する煩悶者として。時に西洋哲学に対する日本的思想の強靭な代表者として。現世における価値判断の欺瞞性の暴露や、近代的教育ではありえない絶対的な他力本願は、西洋思想に比する風格があると見なされてきた。
    自らが内包する根元悪に対してどうしようもない絶望を感じ、それでも己の弱い心情として救われたいと涙ながらに執着するとき、人は「南無阿弥陀仏」を必死に唱えずにはいられない。これは絶望的な本願成就に対して絶対的他力以外にすがるものがない者たちのワラを掴む思いであり、また悪人こそ正機があるとするいわれである。
    そんな状況におかれた者に対して歎異抄は語る。「念仏はまことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつる業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」

  • ラジオか何かでこの本が取り上げられており興味を持って手に取って見る。
    親鸞に師事した唯円(ゆいえん)によって鎌倉時代に書かれた仏教書でとのことであるも、無学なワタクシには少々難解。五木寛之さんの著書から概念を掴んだ上で改めて読み直したい。

  • 念仏唱えてれば救われるという通念が頭にあって、どうしても胡散臭く感じて手を出せずにいた。
    ところが、親鸞のことばというものはそういうものでは決してなかった。彼のことばというものは、決して教えだとかそういう指導的なものでは決してなく、彼が思惟することで知ってしまった驚きから発せられたものだった。
    念仏をひたすら唱えてれば救われるだなんて、彼は一言も言ってない。そんなの知らないとまで言い切っている。彼ならきっと、地獄に行ってもそこでも念仏を唱えているだろう。彼にとって念仏とは、それしかできないからそれをするより他ない、そういうものなのだ。
    弥陀の本願という存在しない(知ることのできない)ものによって、この自分という存在が裏付けられてるというこの恐るべき逆説を知った時の彼の驚きは、カミュと異なり、反抗という形をとらず、信じるという形をとる。
    自力・他力というのも肉体を指して、自分・他人というそんなちっぽけなものでは決してない。ひとは自分以外の何者にもなれない。この自分という存在なしには何も始まらない。念仏を唱えるのだって自分がいなければできない。人間の成すことはどこまでいっても自力なのだ。しかし、この自分という存在は、どうやっても自分ではない何かがなければ存在しえない。なんだこれは。この存在するはずのない存在に気付いてしまった以上、すべてが自力だと疑いえないのに、この存在がつきまとって離れない。知ることから考えることが起こる。ぽっかりと空いた宇宙に親鸞は投げ出されたのだ。
    そして、この信仰はキリスト教の主が見せる熱情や怒りからくる畏れではなく、弥陀の悲しみから来るものだ。「甘え」と言ってもいい。だから、彼の信心はまるで弥陀に対して五体投地をせんばかりの強い力なのである。そうして彼は問いを問いとして生きることにしたのだ。弥陀に願をかけられる宿命として生きたのだ。念仏はそんな弥陀に縋り付く子どものようだ。
    往生とは、どこかここではないあの世に生まれることではない。往生とは、弥陀が弥陀であること、理想が理想であることによって本願は実現しない。生きている限り死ねないことと同様に。だから、死ねと言っているのではない、死んでは本願は現実に実現されないからだ。本願は生きている人間にかけられたものだから。往生とは実現不可能なものによって実現を裏付けられてる。どうもこういう逆説的なものであるのだ。
    そういう本願に支えられた人間の生だから、考えるということ、感じるということは人間に分け隔てなく与えられたものである。すべての人間が救われないというのはありえない、というのはこういうことなのだ。
    善人なおもて往生というのは、自分で悪いと思うことはしないという当たり前を言っている。ひとの行うことは自分で善いと「思う」ことだ。この点で人間が行うことは無自覚に等しい。これが自力というものだ。
    善は善だし、悪は悪というものすごく当たり前の話なのだ。
    ところが真に悪人というのは、悪いと気づきながらも行動する、つまり悪いということに気付く存在がいるのだ。この瞬間に自分ではない存在に悪人は善人では気づきえないことを「知って」いるのだ。往生できないわけがない。善も悪もそれを善や悪とわかる存在があってのものだ。そうであるなら、この善や悪を知っている「この」存在は、善悪を包含・止揚した存在であるはずだ。この存在がなすことが善か悪かなんて、もうわかりようがないのだ。すべてが弥陀の本願によって許されている。そんな存在であるから、千人殺すことが逃れられない宿命とならば、せずにはおれないというだけの話だ。善く生きられねば死なねばならぬというソクラテスと同様に。
    親鸞の場合には、念仏を唱えるということが善く生きることだった。ひとを殺したり、自ら世を嘆いて死んでしまっては、念仏を唱えられないし、弥陀の本願に気付き、念仏を唱えられる可能性のあるこの衆生を減らしてしまう。だから、しないのだ。だが、彼のように心から祈り念仏だけを行えるひとはそうそういないわけで。
    真宗の教義書を読んだことがないのでわからないが、親鸞のこの信じて念仏を唱えよというのは、表面的なわかりやすさや、やりやすさが前面に出てしまい、弥陀の本願という存在に対する驚きへの気付きを体系化できなかったために、誤解されるのだ。
    知らなければ経典をひもといて知ればいい。経典を読めなければ、とりあえず、念仏を唱えてみればいい、そうすればきっと気付くはずだ。彼がひとに求めるのはそういうやり方だ。各々、出来ることを各々やればいいと言っている。念仏か教義かなんて話ではない。
    この点、禅というものは、そんなものをわけるなんて面倒くさいしややこしさを生むのだと一蹴したのだと思う。

  • 世界で一番綺麗な日本語

  • 唯円(1222-1289)の著。1300年頃刊。浄土真宗の開祖親鸞の直弟子である唯円が、親鸞の没後、真宗に対する諸々の誤解を払拭すべく、親鸞の言葉をまとめている著である。本文自体は非常に短く、すぐに読める。原文に加え、十分な解説が列記されていて非常に分かりやすい。「絶対他力」「悪人正機」「自然法爾」といった真宗の教義が非常によく分かる名著である。岩波文庫の売り上げランキングにおいても上位に位置しており、多くの人々に読み継がれている名著である。

  • 弱い人間必読の書。  善人なおもて往生をとぐいわんや悪人をや!

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著者プロフィール

1881年新潟県高田に生まれる。真宗大学卒業。1911年浩々洞の雑誌『精神界』の編集担当。東洋大学教授、真宗大谷大学教授、広島文理科大学講師、1951年大谷大学名誉教授に就任。1976年10月20日逝去。
主著 『金子大榮著作集』(春秋社)、『金子大榮選集』(コマ文庫)、『四十八願講義』『口語訳 教行信証』(法藏館)他多数。

「2017年 『金子大栄講話集 全5巻 【オンデマンド版】』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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