回想のセザンヌ (岩波文庫 青 558-1)

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  • Amazon.co.jp ・本 (94ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003355817

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  • 画家であり美術批評家でもあったベルナールが、1904年、予てより心酔していたセザンヌ(1839-1906)を訪ねた折を回想したもの。

    透明を希求する感受性には、俗物たちの眼差しに照り返される世界は、虚偽と虚飾に塗れた醜怪な姿を晒しているに違いない。世界は、匿名多数の凡俗連中が垂れ流す言葉の垢でベタベタに辱められ、全ては既成の意味秩序によって分節化されその網目に捕われている。予め凡庸な何者かに貶められてしまったものとして、既に語られてしまっているものとして。世界はもはや、俗物市民の駄弁の慰み物でしかなくなってしまっている。

    かの感受性にとってとかく世界は正視に堪えぬ。俗物どもの意味秩序を解体し、ありのままの世界を回復させよ。悟性に矯制される前の生の世界を再び現前させよ。言語によって断片化される前の世界の全体性を感受せよ。理性によって整序される前の、無数の光の束として我々の内部に(im-)刻まれる(-press)世界の像を、そのままの形で画布に再現せよ。これが、19世紀末の時代精神の現れとしての印象主義(impressionism)の本義ではないか。セザンヌは、印象主義から出発し、20世紀美術への橋渡しとして、後期印象主義に位置づけられる。

    「吾々にはどうも確かり分らないものを、一生かかって彼は左官が壁を塗るような良心で描き續け、現実世界に、〈新しい言葉〉と、〈新規な法則〉を與えんと、執念深い狂氣沙汰と、眞面目な焦慮とで、無我夢中になっていたものに相違ない。」(レオン・ヴェルト、〈〉は引用者)

    「凡てが省略され、凡ゆる觸覺性は失わるるに至った。・・・。彼の精神の敏捷な活躍により、描かれた自然がある罪業からやっと解放されてでも來たかのように晴々見える、それまで自然は重い罪業のために酷く苦しめられていたという感である。・・・等何を描いても、セザンヌは必ず吾々を處女地に導くかと思われる。又嘗て人間の觸目したことのなかった神祕境を啓示するかと思われる。」(同上)

    「由來現世は彼にとって子供の感ずるように單純新鮮であった。」(同上)

    芸術家は俗物どもの発する空虚な雑音に耳を奪われてはならない。

    「藝術家は輿論を蔑視せねばならない。・・・。文學者氣質も警戒を要する。それは屢畫家をして本道である堅固な自然の研究から遠ざからしめ、煙の如き迷路に時を空費せしめる。」(セザンヌ)

    「藝術上の論議は殆ど無益に等しい。自分の仕事で一歩一歩進境を獲得しつつ進むそれだけで十分だ、俗物共の無理解に對する賠償であるとみていい。文學者等が抽象の言葉を弄する間に、畫家は色彩と素描とによって、その感覺、その認識を築き上げて行く。」(同上)

    有名な次の言葉は、来るべきキュビズムのピカソや抽象絵画のカンディンスキーの内に反響することになるだろう。

    「自然は球體、圓錐體、圓筒體として取り扱わねばならぬ、・・・。」(同上)

    しかし、20世紀の時代精神は、存在秩序の否定と破壊を極限まで推し進め、遂には、ありのままの世界への回帰をも、ありのままの世界の現前をも、「現前の形而上学」として断念することになる。留まる場所も、帰る場所も、無い。この精神の在り方を名付けて、ロマン主義的アイロニーという。

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