プロタゴラス: ソフィストたち (岩波文庫 青 601-9)

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  • Amazon.co.jp ・本 (204ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003360194

作品紹介・あらすじ

当代随一と仰がれるソフィストの長老プロタゴラスがアテナイにやって来た。興奮する青年にうながされて対面したソクラテスは、大物ソフィストや若い知識人らが見守るなか、徳ははたして人に教えられるものか否か、彼と議論を戦わせる。古来文学作品としても定評あるプラトンの対話篇の中でも、とりわけ劇的描写力に傑れた一篇。

感想・レビュー・書評

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  • 昔の怪獣映画流に言えば、「プロタゴラス対ソクラテス ソフィスト総進撃」ってな感じでしょうか。(笑)
    初期プラトン対話物語の中でも劇場物語性に溢れており、戯曲にしても面白いかもしれない。
    相変わらず「徳」は教えることができるかを問題にするソクラテス。徳は教えることができるとして、神が<いましめ>と<つつしみ>を均等に人に授けたという寓話をもとに論陣を張るプロタゴラスに対し、『メノン』と同様に、優れた人物はいても息子にその能力が伝わっているとは限らない、また、構成する要素として挙げた「正義」「分別」「敬虔」「勇気」「知恵」はそれぞれ一意のものであり相互干渉しないとの言葉をプロタゴラスから引き出したソクラテスは「無分別」なのに「知恵」があると言えるのかと迫り、プロタゴラスを戦意喪失にまで追い込む。(笑)
    弁論でなく一問一答形式の自分(ソクラテス)の土俵で議論しろ、そっち(プロタゴラス)が議論したければだが・・・、審判を申し出た周囲のソフィストに自分達(つまりソクラテス)より劣っている者にはできない、と相変わらず高飛車なソクラテスです。(笑)
    それではということで、詩の解釈が教育上一番なのでそれで勝負しようというプロタゴラスに対し、プロタゴラスもびっくりの弁舌で詩の解釈を行い煙に巻くソクラテス。「徳」論議に戻した後、「不正」「無分別」「不敬虔」でも「勇気」だけは独立した徳目だというプロタゴラス。本当の意味で、「快楽」=「善」、「苦痛」=「悪」だとすれば、「快楽」が「悪」につながることはあり得ない、それは善悪の「計算」ができない、つまり「知恵」がないからだということで、すなわち「勇気」も「知恵」(最終的に善になるという計算)があってこそという結論から、「徳は知である」から「徳」を「知」として教えることができるという最終結論を得るのである。
    『メノン』とは全く逆の結論になってしまった議論だが、大回転の論理展開を楽しめたのと、相変わらず詭弁気味に人を追い詰めるソクラテスに笑いがこみ上げてくるのとで(笑)、なかなか面白かった。もしかするとプラトンは、師匠ソクラテスを何かダーティなダシに使っているのでは?という気にもなってきました。(笑)


  • プロタゴラスとソクラテスの押し問答は本書の見どころですが、やはり1つのセリフが長いので理解するのに苦労します。

  • 哲学カフェ=ソクラテス・カフェをファシリテートしてみたい。

    という目的のもと、イデア論に染まる前のプラトン、つまり、対話篇の主人公であるソクラテスが、現実に近い形で描かれているとされる初期プラトン作品をまとめ読みすることとする。その1冊目。

    「徳は教える事ができるのか」というお題について、ソクラテスとソフィストの代表プロタゴスが手に汗握る知的言論バトルを繰り広げる。

    「お金をとって、徳を教える、なんぞ、許しておけねー」的な調子で、プロタゴラスのところに向かうソクラテスなのだが、このプロタゴラスさん、結構、真っ当な人で、ちゃんとごもっともな説を述べる。

    対して、これを突き崩そうとするソクラテスのほうが、やや詭弁ぎみで、ときどき論理が飛躍する。で、そこはさすが、ソフィストのプロタゴラスさん、論理の飛躍を指摘する。

    プロタゴラスさんが、長い弁舌をふるうと、ソクラテスは、「立派だが、長過ぎて、分かりにくい。もっと端的に答えよ」なんて、言うのだが、あろうことか、自分も本題とは関係ないところで、ながながと詩文の解釈を披露したりする。

    結構、プロタゴラスの主張のほうが常識的で、共感を持てて、ソクラテスの主張と論の進め方のほうが、なんか感じ悪かったりする。

    で、最後は、ソクラテスが、お互いに最初に議論をスタートした時点と逆の立場を主張する形になっていることを指摘して、おしまい。

    ということは、ソクラテスの感じの悪い詭弁は、ソフィストのパロディだったわけ????

    ここで議論されている内容が何なのか、作者の意図は何なのかは、分かりにくいのだけど、この本、アテネにおける哲学的な議論の場をライブに切り取ったものとして、すごく面白いと思う。

    プラトンの「国家」を以前に読んで、ソクラテスの論説に対して、"yes", "no"しか言わない他の対話の参加者の影の薄さが気になっていたので、このライブな「対話の場」の描写は、私の目的にはとてもフィットしていた。

  • ソクラテス先生ソフィストの大家と対決の巻

    徳は教えることが出来るか?というテーマで議論する。
    今まで読んだ本は親しい友人との議論だったが、
    この本ではキングコング対ゴジラさながらに
    若いソクラテスがソフィストの大先輩に論争を挑む。

    ソクラテスは「徳は教えられない」という立場
    プロタゴラスは「徳は教えられる」という立場で
    意見を戦わせ、途中から「徳とは何か?」になり、
    議論している内容がどんどん変わっていって、
    読者は混乱させられて何が何だか分からなくなるが、
    最後にきちんとソクラテスが話をまとめてくれる。

    本当にプラトンの文章の構成方法は見事である。

  • 格闘技を観ていると、「何このマッチメイク・・・完全に噛ませ犬じゃん・・」という場合が少なくない。最初から明らかに実力差があり過ぎて、勝ったところで順当なわけで、てんで面白くないのだ。強い人間と強い人間の闘いが観たい。K-1MAXならば魔娑斗vsアンディー・サワーとか絶対に観たい。もう消滅してしまったけれど、PRIDEは最高だった。特にミルコvsヒョードルやノゲイラvsヒョードルやミルコvsノゲイラ、シウバvsジャクソンとか最高に興奮した。これは噛ませ犬ではない、塩試合ではない、強い奴と強い奴の闘いであり、強い選手同士が全力でぶつかり合うからこそ散る火花がここかしこで観られる。ガチなのだ。そして、プラトンの本はガチ過ぎる。プラトンの本は相手がかなり強い。この本は伝説のソフィスト・プロタゴラスvsソクラテスというゴジラvsキングギドラやナメック星のフリーザvs悟空みたいな、闘いなのだ。いや、ソクラテスがちょっと遠慮しがちなので、悟空vsギニューくらいかな。今日の感想はなんか変なので、切り上げることにしよう。

    −徳は教えられるか?−

    ソクラテスとプロタゴラスはそれぞれ異なる論陣を張ったところ、どういうわけだが最後の最後には、二人とも主張の性質に変化が見られ、それぞれ相手の張っていた論陣に立っているという妙なことになってしまった。ソクラテス「徳は教えられぬ」vsプロタゴラス「徳は教えられる」→ソクラテス「徳は教えられる」vsプロタゴラス「徳は教えられぬ」→ソクラテス「(笑)」・プロタゴラス「(笑)」

  • 知の議論。
    やりとりをなぞるだけで楽しい。

  • プラトン『プロタゴラス』
    ・徳は教えられるか。
    ソフィスト、徳は教えられるものとして、お金を得て人に教える人々。だが、徳とは何かという肝心なことには触れない。

  • ブックオフにて購入。他のプラトン諸作に比して際立った対照をなしている二点を、訳者自身の解説より抜粋する。"ソフィストとソクラテスの決定的な差異は、プロタゴラスに対するソクラテスの丁重な態度の内にいわば包み込まれるようにして、尖鋭な対立に顕在化されるまでには至らず""哲学的問題の追求のためには全体としてどっちつかずの様相を示しているといえる議論の進行の中で、明らかに脱線的な遊びの要素や、他の対話篇に見られるソクラテスないしプラトンの思想との食い違いのようなものも、いろいろと目につく"

  • ソクラテスは、分が悪くなると、話題を変えたり、立ち去ろうとするのだが(それも、すべて相手のせいということになっている)、なんやかんやで議論は進み、最終的に、善とは知識である、という結論に達する。

    善=快楽、悪=苦痛
    であり、
    悪行=自ら苦痛を選択すること=快楽計算の失敗=無知
    であり、
    よって、善=知、悪=無知 である。

    ということらしい。

    いやそんなことよりも、、ソクラテスの誘導尋問、非妥当な推論、意味のすり替え、などなどが面白かった。

  • ●他人に徳の教育をすることができるのか、というソクラテスの質問にプロタゴラスは可能だと答えて、人々が不正を繰り返さないために懲罰を与えることを証拠とした。しかし、不正を働かないのは、懲罰を恐れてのことではなかろうか。なぜならば、懲罰のない悪徳であれば、人は繰り返すからだ。(未成年の不良は悪事を繰り返すが、成人して社会の保護から外れると悪事を働かなくなる)
    人は知識としての道徳と不正を働いたときの懲罰を教えることができるが、道徳の本質は教えられるものではなく、各個人はその時々で、悪事による利益と懲罰とを比較して行動しているだけだと思う。
    ●人が悪いとわかっていながら、悪事をはたらくのは、本当の意味で『分かって』無いからだ。(無知だから)という考え方は面白い。つまり、悪事によるデメリットまで理解していないということ。


    ☆きっかけはPresidentの特集を見て。


    読了日:2011/06/16

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著者プロフィール

山口大学教授
1961年 大阪府生まれ
1991年 京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学
2010年 山口大学講師、助教授を経て現職

主な著訳書
『イリソスのほとり──藤澤令夫先生献呈論文集』(共著、世界思想社)
マーク・L・マックフェラン『ソクラテスの宗教』(共訳、法政大学出版局)
アルビノス他『プラトン哲学入門』(共訳、京都大学学術出版会)

「2018年 『パイドロス』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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