情念論 (岩波文庫 青 613-5)

  • 岩波書店
3.64
  • (9)
  • (9)
  • (20)
  • (0)
  • (1)
本棚登録 : 370
感想 : 15
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (230ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003361351

作品紹介・あらすじ

近代感情論の源泉とされる『情念論』(1649)は伝統のスコラ的見方や情念=悪という見方を否定し、理性の善悪の判断に従う限り、情念に最も動かされる人間が最も多くの喜びを享受すると主張した。心身関係の具体的な説明にみるオートマティズムや脳の知見は、優れて現代的な課題を含む。デカルト解釈の可能性を広げる一書。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 高邁とは何か
    【自ら最善と判断することを実行する確固とした決意と、この自由意志のみが真に自己に属しており、正当な賞賛・非難の理由であるとの認識が、自己を重視するようにさせる真の高邁の情念を感じさせる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】

    「かくして、人間が正当になしうる限りの極点にまで自己を重視するようにさせる真の高邁とは、ただ次の二つにおいて成り立つ、とわたしは思う。一つは、上述の自由な意志決定のほかには真に自己に属しているものは何もないこと、しかもこの自由意志の善用・悪用のほかには正当な賞賛または非難の理由は何もないのを認識すること。もう一つは、みずから最善と判断するすべてを企て実行するために、自由意志を善く用いる、すなわち、意志をけっして捨てまい、という確固不変の決意を、自分自身のうちに感得すること。これは、完全に徳に従うことだ。」

    • 命題集 未来のための哲学講座さん
      情念が経験される知的な喜び
      【私たちが、自分が最善と判断したすべてを実行したことによる満足を、つねに持ってさえいれば、よそから来るいっさいの...
      情念が経験される知的な喜び
      【私たちが、自分が最善と判断したすべてを実行したことによる満足を、つねに持ってさえいれば、よそから来るいっさいの混乱は、精神を損なう力を少しももたない。むしろ精神は、みずからの完全性を認識させられ、その混乱は精神の喜びを増す。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
       私たちが精神の内奥で、自分が最善と判断したすべてを実行したことによる満足をつねに持ってさえいれば、よそから来るいっさいの混乱とそれに伴う情念のいかに激しい衝撃も、精神の安らかさを乱す力を持つことはけっしてない。なぜなら、不思議な出来事を本で読んだり、舞台で演じられるのを見たりするとき、さまざまな情念がわたしたちのうちに引き起こされるのを感じて、わたしたちは、知的な喜びともいえる快感をおぼえるのと同じように、共存している情念たちよりも、いっそう近接的にわたしたちに触れる喜びが、はるかに大きな力をわたしたちに及ぼしているからである。精神はそれらの混乱に損なわれることのないのを見て、みずからの完全性を認識させられ、かえって、その混乱は精神の喜びを増すのに役だつであろう。
       不思議な出来事を本で読んだり、舞台で演じられるのを見たりするとき、さまざまな情念がわたしたちのうちに引き起こされるのを感じて、わたしたちは、知的な喜びともいえる快感をおぼえる。
       「これら内的情動が、それとは異なっているが共存している情念たちよりも、いっそう近接的にわたしたちに触れ、したがって、はるかに大きな力をわたしたちに及ぼすものであるからには、次のことは確かである。つまり、わたしたちの精神が内奥にみずから満足するものをつねに持ってさえいれば、よそから来るいっさいの混乱は、精神を損なう力を少しももたない。むしろ、精神はそれらの混乱に損なわれることのないのを見て、みずからの完全性を認識できるようにさせられるので、これらの混乱はかえって、精神の喜びを増すのに役だつ。そして、わたしたちの精神がこのように満足するものをもつためには、ていねいに徳に従いさえすればよいのだ。というのも、自分が最善と判断したすべてを実行すること(徳に従う、とわたしが言うのは、このことだ)において、欠けることがあったと良心にとがめられないように生きてきた人は誰も、そのことからある満足を感得する。この満足は、その人を幸福にするきわめて強い力を持つので、情念のいかに激しい衝撃も、彼の精神の安らかさを乱す力を持つことはけっしてない。」

      2022/01/08
    • 命題集 未来のための哲学講座さん
      永遠の決定と自由意志
      【永遠の決定が、私たちの自由意志に依存させようとしたもの以外は、すべて必然的、運命的でないものは何も起こらない。私たち...
      永遠の決定と自由意志
      【永遠の決定が、私たちの自由意志に依存させようとしたもの以外は、すべて必然的、運命的でないものは何も起こらない。私たちにのみ依存する部分に欲望を限定し、理性が認識できた最善を尽くすこと。(ルネ・デカルト(1596-1650))】

      「ゆえに、わたしたちの外部に偶然的運があって、その意向のままに、事物を起こさせたり起こさせなかったりしている、という通俗的意見を、まったく捨て去らねばならないし、そして次のことを知らねばならない。すべてが神の摂理に導かれている。その摂理の永遠の決定は、不可謬かつ不変なので、その決定がわたしたちの自由意志に依存させようとしたもの以外は、わたしたちに必然的、いわば運命的でないものは何も起こらない、と考えねばならない。したがって、わたしたちはそれと別様に起こるように欲すれば、必ず誤る。以上のことを知らなければならない。しかし、わたしたちの欲望の大部分は、まったくわたしたちだけに依存するのでもなければ、まったく他に依存するのでもない、そうした事物にまで及んでいるから、これらのものにおいて、わたしたちにのみ依存する部分を正確に区別すべきである。この部分以上にわたしたちの欲望が広がらないようにするためだ。残りの部分については、その首尾はまったく運命的かつ不変と認めて、わたしたちの欲望がそれにかかわらないようにすべきである。しかしやはり、その部分をも多少は期待させてしまう諸理由を考察することで、わたしたちの行動を統御するのに役立てるべきである。たとえば、ある場所に用事があって、そこへは二つの違った道を通って行くことができ、その一方の道はふだんは、他方の道よりはるかに安全だ、という場合がある。ところが、摂理の決定によればおそらく、このより安全と考えられる道を行けば必ず強盗に出会い、反対にもう一方の道はなんの危険もなしに通れることになっている。だからといってわたしたちは、そのいずれかを選ぶことに無関心であってはならないし、また、この神意の決定の不変の運命に頼ってもならない。が、理性は、通常はより安全である道を選ぶことを要求する。そして、わたしたちがその道に従ったとき、そのことからいかなる悪が起こったとしても、わたしたちの欲望はこれに関してはすでに達成されているはずなのだ。なぜなら、その悪はわたしたちにとっては不可避であったから、その悪を免れたいと望む理由はまったくなく、わたしたちはただ、上述の仮定でなしたように、知性が認識できた最善を尽くせばそれでよかったのだから。そして、このように運命を偶然的運から区別する修練をつむとき、欲望を統御することをたやすく自ら習慣とし、そのようにして、欲望の達成はわたしたちにのみ依存するわけだから、欲望はつねにわたしたちに完全な満足を与えることができるのは確かである。」
      2022/01/08
    • 命題集 未来のための哲学講座さん
      私たちに依存しないもの
      【私たちに依存しないものを可能だと認め欲望を感じるとき、これは偶然的運であり、知性の誤りから生じただけの幻なのである...
      私たちに依存しないもの
      【私たちに依存しないものを可能だと認め欲望を感じるとき、これは偶然的運であり、知性の誤りから生じただけの幻なのである。なぜなら摂理は、運命あるいは不変の必然性のようなものであり、私たちは原因のすべてを知り尽くすことはできないからである。(ルネ・デカルト(1596-1650))】

       「したがって摂理は、運命あるいは不変の必然性のようなものであり、偶然的運とは対置されねばならない。そうやって、偶然的運とは、わたしたちの知性の誤りから生じただけの幻として打破されるべきものとなる。たしかに、わたしたちは、ともかくも可能だと認めるものだけを欲望できる。そしてわたしたちに依存しないものを可能だと認めるのは、ただそれらが偶然的運に依存すると考える場合である。つまり、それらは起こりうる、かつてそれに似たものが起こったことがある、と判断する場合である。ところで、このような意見は、わたしたちがいちいちの結果を生むにあずかった原因のすべてを知り尽くしてはいないことにもとづくだけなのである。事実、わたしたちが偶然的運に依存すると認めたものが起こらないとき、それによって明らかになるのは次のことだ。偶然的運によって起こると考えられたものの生起に必要であった原因のどれかが欠けていたこと、したがってそれは絶対に不可能なものであったこと、また、それに似たものも、かつて起こらなかったこと、つまりその生起のためには同様の原因がやはり欠けていたこと。そこで、もしわたしたちが予めこれらの点に無知でなかったならば、けっしてそれを可能とは考えなかったろうし、したがってそれを欲望もしなかっただろう。」
      2022/01/08
  • 「身体は物質であり拡がりをもつ。精神はその身体全体に結合しているものであり、能動的な意志と受動的な情念とからなる。同じ一つの精神の中で、意志と情念とが互いに格闘しているため、精神は同一のものをほぼ同時に欲望し、かつ欲望しないようにすることになる。」

    以上のようにデカルトは、「基本的に人は身体と精神から成る」とする心身二元論の立場に立っている。

    それを踏まえて、本書を読み進めていく事になる。

    本書は三部構成になっている。

    第一部では、情念の定義について書かれている。

    デカルトによると基本的な情念は、「驚き」「愛」「憎しみ」「欲望」「喜び」「悲しみ」の6つだけであり、他のすべての情念は、これら6つの情念の複合的なものだとしている。

    その他の情念とは、第二部で挙げられている。列挙すると以下の通りである。

    驚き、重視と軽視、高邁と高慢、謙虚と卑屈、崇敬と軽蔑、愛と憎しみ、欲望、希望、不安、執着、安心、絶望、不決断、勇気、大胆、競争心、臆病、激しい恐れ、悔根、喜びと悲しみ、嘲り、うらやみ、憐れみ、内的自己満足と後悔、好意と感謝、憤慨と怒り、誇りと恥、いやけ、心残り、爽快。

    私たちはこれだけの情念が内在している。これらの情念について、デカルトの深い考察とともに向き合っていくのが第二部である。

    これだけの情念に左右され生きていくのは非常に過酷である。

    これらを統御し生きていく方法について書かれているのが第三部になる。

    一通り読んでみて、現代では医学的にも証明できていることが多いが、当時の考察としては優秀なものであると思う。

    情念論的な思考で、人間の抱く情念に向き合ったことは少ないので、新鮮な印象を受けた。

    情念に対して、統御する技術を身につけ、悪を制御し、善を最大限に大きくすること。すなわち、高邁な徳を持った人間になることが必要であると意識させられた。

  • 名文家だった仏文学者伊吹武彦訳(角川文庫S34年版)で読む。

    デカルトにデカルト主義を押し付けたのは時代の教会権力の罪であり、近代の責を押し付けたのは後世の罪である。

    歴史はどうも終わってはいず、オルタナティブは相変わらずオルタナティブのままだ。

    知識人がどんな洞察を加えようと動物でもアンドロイドでもなく、下界の人間臭は自己を肥大化させつつただ加齢してゆく。

  • とにかく、
    読みにくい本です。
    その内容の色々なところに
    生きるヒントのようなものが眠っている気がします。

  • 倫理学の書として読まれる事もあるらしいが、本人にはそのような意図はなかったように思う。最終的にはお姫様達のツッコミにより心身結合論を容認してしまったようにも思えるが、あくまでも意志と理性の哲学者として人生は全うできたのではないかと。やっぱカッコイイねデカルトは。

  • 面白いことは面白いんだけど、一冊読み切るほどのモチベーションはもてず。
    最初と最後と解説だけ読んだ

  • 心身機能から情念という精神機能をろんじている。

  • デカルトが身体と精神のつながりを論じたもの、第一部はガレノスの生理学(動物精気)などが論じられている。第二部は6つの情念(精神の受動・身体の能動)が語られる。驚き・愛・憎しみ・欲望・喜び・悲しみなどである。第三部は合成された情念である。理性で善悪を判断し、情念をつかうことで幸福と不幸がわかれるという。

    『方法序説』や『省察』などの心身二元論はたしかに極端な感じがするが、かといって、身心が一体だといってすませられるわけではない。人間には内心というものがある。医学的な知識はもうふるいが、情念と身体をむすびつける観点はなかなか面白いもんだなと思う。

    レギウス(レッヒウス)などの唯物論者との差異などに興味がわいた。科学史としては面白い本だと思う。

  • デカルトが「情念」について論じるもの。脳や心臓、循環器の機能と意識の関係等は、現在の科学の水準からは誤りが多いですが、情動と、脳を含む肉体との関係に関する記述は、そのメカニズムの詳細はともかくとして、現代にも通じるように思います。第3部が特に面白い。

  • フランスの哲学者・数学者であるルネ・デカルトの著作。物心二元論を唱えた彼が、身体と精神の中継点を松果体としたことを書いたものとして知られる言わずとしれた古典。しかしながら、デカルトの考察や理論は過去の偉業として埋没せず、現代においても価値を持つ点で非常に優れた人物であることは疑いようがありません。
    デカルトは、心身の相関関係とメカニズムを踏まえたうえで、人間が必ず有する情念の発生原因とその効果を明晰に述べていきます。「精神が結合している身体以上に、わたしたちの精神に対して直接に作用する主体があるとは認められない。したがって、精神において「受動」であるものは、一般に身体において「能動」である、と考えねばならない。」と書いているように、デカルトは心身が相互に影響を及ぼし合うことを示し、それを土台に論理を展開していきます。
    この情念論の中でも、私が最も普遍的であると感じ、感銘を受けたのが特殊情念の考察です。全てを語ると長くなるので割愛しますが、152「どんな理由でひとは自分を重視できるか。」、170「不決断について。」は、個人的に本書の白眉であると考えています。最後にデカルトは、「情念に最も動かされる人間は、人生において最もよく心地よさを味わうことができる。」と言っています。
    私達が人間らしく生きるうえで必要な喜怒哀楽など感情について、ひいては人生の過ごし方等について、本書はこれらを深く考えるきっかけになることは間違いありません。

全15件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

デカルト

Rene Descartes 一五九六―一六五〇年。フランスの哲学者、数学者。数学的明証性を学問的認識の模範と考え、あらゆる不合理を批判検討する立場を確立した。そのことによってしばしば近代哲学の父といわれる。一六三七年公刊の『方法序説』は思想の領域における「人権宣言」とも称される。長くオランダに隠れ住んだが、終焉の地はスウェーデンであった。

「2019年 『方法序説・情念論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

デカルトの作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×