- Amazon.co.jp ・本 (188ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003365229
作品紹介・あらすじ
学校とは暗記と試験にあけくれる受動的な学習の場ではなく、子供たちが自発的な社会生活を営む「小社会」でなければならない。このような観点からデューイ(1859‐1952)は、伝統的な学校教育に大胆な批判を加えた。自ら創始したシカゴ大学付属小学校での体験から生まれた本書が、戦後わが国の教育改革に及ぼした影響ははかり知れない。
感想・レビュー・書評
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デューイ教育学への入門として『学校と社会』はおすすめですが、教育学そのものへの入門としては、『教育原論』(特に第7章)から入り、『民主主義と教育』もいっしょに揃えて購入して読むはじめるのがよいと思います。ブクログのレビューをぜひ参考にしてください。『教育原論』の「全体の構成図」(p.120)をデューイ全体の見取り図に、また『学校と社会』からつくった2つの図(pp.126-127)を横に置いてみるとわかりやすいと思います。
『教育原論』 https://booklog.jp/users/lifedevelop2020/archives/1/4623081842
『民主主義と教育』 https://booklog.jp/users/lifedevelop2020/archives/1/4003365232
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さて、『学校と社会』ですが、岩波文庫版を推しているのは、安いのと訳が正確だからです。文章は古いですが、これに慣れると、少し古い本が読めるようになります。英語原文はネットで無料ですぐ読めるので、わかりにくいにところは英語と照らして読むとよいでしょう。小学校の概要を扱った章が訳されていませんが、それは他の訳本で補ってください。
力がつく勉強のしかたは、全段落に章ごとに番号を振ります(79ページ2行目が段落がかわっていますが、著作集ではつながっているので、つなげて、79ページ後ろから5行目の段落が⑮になります)。ノートの左に、段落ごとにキーワードを中心に書いてあることをまとめます。対応するノート右側に、自分の疑問や感想、何が問題にされているかなど書いていきます。ゼミでやる場合は、担当部分のノートをレジュメにまとめて報告する形になります。
著作名が、『学校と社会』になっていますが、『子どもたちと(学校と社会)と自然』にとらえてください。子どものとらえ方(子ども観)の変革が(今でも)新しいのです。
はじめの3つの章は、デューイスクールの寄付を募るためにおこなった3回の講演です。。後の章は必要な雑誌論文をつけたものです。「フレーベルの教育原理」が〈子どもから〉の発想を引き継いでいるのがわかりやすいと思います。ある意味、幼稚園・保育園の教育原理を小学校に延長しているのです。「初等教育の心理学」「仕事の心理学」「注意の発達」は、心理学の話のようですが、ここを新しい子どものとらえ方だと思って読むと、前の3章がくっきり理解できると思います。哲学的子ども観から科学的子ども観に踏み出している。今の心理学の目から見ると、素朴・古いと感じられるでしょう。現代心理学からの批判は必要です。ただし、哲学から教育学、心理学を分化・専門化しはじめた人こそデューイなのです。『心理学』という著作もあります(ウィリアム・ジェームズに酷評されて落ち込んだらしい)。日本の大学でも、心理学はもともと文学部にあってだんだん自立して外に出て行ったのです。100年以上の心理学に最も学ぶべきは、『子どもたちと(学校と社会)と自然』のように、教育や社会とのつながりを意識して進められたところです。
いま、子どもの発達に合わせた(adapted)、楽で楽しい教育保育を考えるとき、その発想の出発はここにあるのです。その新教育運動は、いまも継続している、いや、新型コロナの緊急事態のただなかでまた力強く進もうとしているのです。
もどって第3章「教育の浪費」はカリキュラム論です。新学習指導要領のもと、「社会に開かれた教育課程」「カリキュラム・マネジメント」が中心スローガンですが、それと対比して読むとデューイのすごさが実感できると思います。休校中、子どもたちは何かを見、何かを考え、問いを持ち、そして何かをはじめています。この〈芽〉を見逃さないこと。ここにコロナ明けの新しい教育・学校・園が生まれる希望があります。この〈芽〉を〈中心〉にするというのが『学校と社会』にまさしく今学べることだと思います。
休校中、いまこそぜひ読んで、感想などレビューに書いてください。20200427詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
デューイの本はいつか読みたいと思っていたのですが、ようやく機会があり本書を手に取ってみました。1915年に出版された本ですからすでに100年以上たつわけですが、あまり時代の違いは感じませんでした。むしろ米国という国の違いでよみづらさを感じたくらいです。講演録を本にしているということで、全体的に読みやすかったですが、やはり当時の米国の文脈(講演当時に米国ではどんな教育が当然と思われていて、どんな試みが行われていたか)をある程度理解している必要があると思います。その意味では巻末の解説がそれを理解する助けになりましたので、先に読んでもよいかもしれません。
デューイは学校に以下の2つの役割を求めます(以下、解説内の文章を参照)。「第1に、学校は暗記と試験による受動的な学習の場ではなく、そのなかで子供たちが興味にあふれて活動的な社会生活を営む小社会にならなければならない」。「第2に、この小社会は、たんにそこで子供たちの自発的な活動が行われる小社会であるばかりではなく、現代の社会生活の歴史的進歩を代表する小社会でなければならない」の2つです。この思想は米国だけでなく日本にも大きな影響を与えたとのことですが、解説を読む限り、1つ目の目的は達成されたが、2つ目については達成されたとは言えないとのこと(そこの解釈が正しいのかは私にはわかりませんが)。
しかし私はこの2つの役割以上に印象に残った点がありました。それは、デューイの学校に対する「実験的なマインドセット」です。デューイは学校が実験の場であるべきだと明言しています。つまり新しい試みを導入する、子供への影響を見て効果の有無を検証する、次に違うアプローチをする・・・ということで、悪く言うと子供を実験対象にしていることになりますが、デューイはそれこそが唯一の教育の進歩の道筋だと確信しているようでした。この信念は極めて反権威的であり、未来志向であります。企業でいえば過去の習慣にとらわれず、新たな試みをする起業家精神にもつながりますが(エジソンと実験が切っても切れないことは当然のように)、私はデューイのこの進歩的(あるいは当時からするとかなり革新的)な姿勢に大変感銘を受けました。アメリカが様々な分野でここまで世界をリードしてきたのは、やはりこのマインドセットにあるのではないかと改めて感じました。 -
社会と教育の結合。
大事なことが書かれていることはわかった。
何度か読み返そうと思う。 -
前半
現状の学校は、社会から切り離されているが、それでは真の学びには繋がらない。
知識を詰め込むだけ詰め込む、受け身の教育ではなく、子どもが生活していく中に学びを見出すべきであって、子どもの活動の中に学びを見出すべき。
学校と社会を分離させてはいけない。
子どもの活動
→子どもが興味を持って行う活動
このことから子どもの興味に沿った、実践的な活動を通して学びを行うべきであり、学校や教師、教材はこれを適切な学びへと誘導するための適切な手段を用意すべきである。
子どもの興味に沿う教育を行うことで、主体的な学び、真の学びとなる。そこに対して、そんなことをしてしまったら学びが散漫してしまうなどという意見があるが、そこを誘導し、適切な学びを与えるのが学校現場の役割のはず、、、
感想
子どもの主体的な学びのもと、実践的な子どもの活動に沿った学びができるとしたら子ども自身もわくわくしながら学べるのではと思った。ただ、学びが散漫してしまうという意見もわかる。正直、誘導し、適切な学びへもっていくことができる指導員や教材も現時点で僅かであると思う。
中盤
学校と社会が分断されているように、学校の中でも組織が分断され、教科が分断されている。これは課題である。
幼稚園、小学校、中学校、高校、大学までの流れがうまく作用するべきだが、できてきた過程の違いによってある部分で分離してしまっている。
学ぶ教科も本来、繋がりを持てるはずである。
例えば料理をする中で、もちろん家庭科を学び、沸騰の温度は?と考えると理科を学び、昔の伝統的な料理を行う時、歴史を学ぶことができる。
このように一つの教科を単一的に考えるのではなく、他方の学びがあるのに現状の教育ではなっていない。
感想
たしかに生活していく中で、一つのことから多方面の学びが生まれてくる。いろんなものをむずびつけられたらいいと思う。現にそう行っている小学校も日本にはあった。例えば牛の世話をする中で、牛の世話をするためにいくら必要なのか数学的学びを、牛を世話する中で生物的学びを、感想を書かせ国語的学びを、、、、でも十分な満遍なく教育ができているのかは疑問。
後半
わけわからんかった
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個人的に「知識と経験の結びつき」と「勉強することの目的の明示」がないと学習意欲だけでなく、好奇心も生まれてこないと思っている。
本書のタイトルは「学校(知識)と社会(経験)」とも解釈でき、自分の考えに妥当性を見出す事ができた。
「高度に抽象的なことを、日常的な経験にたよることなしに、どうして子どもにしめしてやることができるものか」とは、まさにこのこと。
台所からだって地理学、物理学、植物学も何でも学べる! -
斎藤孝『新聞力』(ちくまプリマー新書)にて紹介。
「新しい学力の先駆けとなったのは、アメリカのっ教育哲学者であるジョン・デューイという人です。彼は1896年1月、シカゴに実験学校(Laboratory School)をつくりました。彼は個人の家を借り、ごく少数の生徒に対して、問題を解決していく総合学習型の教育を行いましたーこの本でデューイは次のように述べています。『バラバラの教科を学んでいても、実際の問題解決にはさほど役立っていません。まずは実際の問題をとらえ、それを解決するためにさまざまな教科の力を活用していく学習の在り方がよいのではないでしょうか』 つまり彼は総合的な学習を提唱したのです」『新聞力』p.33 -
「伝統的な学校へは〜子どもは精神を家へおいてくる。〜子どもの精神は具体的な事物に打ち込まれている具体的なものである。具体的な事象が学校生活の中に入ってこない限り、子どもはその精神を持ってくることはできない」p.85
デューイは、ダーウィンの『種の起源』から大いに影響を受けている。教育はもともと哲学を専攻していた彼にとって、人間の精神と行動との関係を見たり、個人と社会の関係を個体と環境の相互作用という視点から検証できる実験室のようなものであった。
彼の道具主義は「すべての観念は行動のための道具であり、思考は人間と環境の相互作用、環境を統制する努力から生まれる」というもので、哲学はパンピーが日常生活の問題を解明する方法になるべきだと説いている
デューイは、1920年代に世界各国(中国・ロシア・トルコなど)を訪れ、個人-社会の相互作用における究極の決定者は、個人(そして個人の精神)だとしていたものが、社会に力点が移るようになる。さらにアメリカの永遠の繁栄が終わり、社会の変化に応じて教育も変化を迫られた(あとがき) -
けっきょく今の教育現場で言われてることがデューイの焼き回しであるならば,教育改革論にさほど意味はなく,教育なんてものも社会のあり方の表出に過ぎない,それを単独で変えようとしても無理な話なのではないだろうか
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デューイの思想を理解できた。
何章か理解できない部分もあった。
現在の教育に求められていることをデューイはすでに提唱していたのかと思うと改めてすごい。