- Amazon.co.jp ・本 (311ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003412428
感想・レビュー・書評
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資本主義とそれを支える国民経済学への批判。
現代日本に生きる我々にとっては、マルクスの資本主義批判は今一つリアリティに欠けるように思われる。しかしそれは他ならぬマルクスの功績と呼んでもいいのではないか。マルクスやその継承者らの批判があったからこそ、現在のいわゆる修正資本主義がある。逆に言えば、本書は古典的資本主義の復古を図ろうとする動きに対する警鐘となるだろう。マルクスのヒューマニスティックな資本主義批判は至極真っ当であるように思われる。
後半は有名な疎外論。「疎外」という概念を知っているだけで思考が整理される場面は多い。人間が自ら生み出したものに疎外され、人間性を失ってしまうという、マルクスが提起した問題は今でも価値を失っていない。それどころか、我々が実生活において「疎外」に遭遇する場面は非常に多い。あらゆる物事の本質を見抜くテクニックを、マルクスに教えてもらったような気分だ。
読んだのは第三草稿の〔四・貨幣〕まで。ヘーゲル哲学を扱った残りの部分は、いつか気が向いたら読む。
“労働者が骨身を削って働けば働くほど、彼が自分に対立して創造する疎遠な対象的世界がますます強大となり、彼自身が、つまり彼の内的世界がいよいよ貧しくなり、彼に帰属するものがますます少なくなる” pp87-88
“人間(労働者)は、ただわずかに彼の動物的な諸機能、食うこと、飲むこと、産むこと、さらにせいぜい、住むことや着ることなどにおいてのみ、自発的に行動していると感ずるにすぎず、そしてその人間的な諸機能においては、ただもう動物としてのみ自分を感ずるということである” p92
“自由な意識的活動が、人間の類的性格である。ところがこの生活そのものが、もっぱら生活手段としてだけ現れるのである” p95
“貨幣が、私を人間的生活に、社会を私に、私を自然と人間とに結びつける紐帯であるとすれば、貨幣は一切の紐帯のなかの紐帯ではないか!それは一切の紐帯を解きはなしたり結びつけたりできるのではないか!だからそれはまた、一般的な縁切りの手段ではないか!” p183詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
後半部分が全く分からずついていけなかった。ヘーゲルを知らないとダメでした。
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初期のマルクスの思想がこの1冊に凝縮されている。ここで書き留めた内容をベースに、のちに『資本論』を書き上げた。読んだ感想として、ヘーゲル批判の第三草稿[五]と第四草稿は、ヘーゲルをある程度知っていないと、抽象的過ぎて内容についてこれないという印象を受けた。それに対して、前半部分は『資本論』で考察されたことが、簡素にまとまっていた。これは『賃労働と資本』や『賃金・価格・利潤』と同様に、『資本論』の要約本として読むことができた。
本書のなかで、第一草稿の[四]疎外された労働は、日々の労働に、肉体的にも精神的にも苦痛を強いられる人々が一読するべきだと思う。これを読むと、資本主義社会における労働の構造や原理を実感できると思う。 -
かつて死滅したイデオロギーだからではなく、世界中で富が偏在し、日に日に格差が拡大しつつある状況の現在だからこそ、格差の解消を富者や権力者へのルサンチマンとしてではなく、社会の構造的な視点からとらえようとしたマルクスの思想は、これから何度も読み直され、読み継がれていくことであろう。
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【由来】
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【期待したもの】
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※「それは何か」を意識する、つまり、とりあえずの速読用か、テーマに関連していて、何を掴みたいのか、などを明確にする習慣を身につける訓練。
【要約】
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【ノート】
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【目次】
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山之内先生の著書を読んで、マルクスの言う疎外の意味が分かったような気がします。いずれにしても僕には敷居が高すぎた感があります。
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手許にあるのは昭和44年第10刷
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『ぼくらの頭脳の鍛え方』
文庫&新書百冊(佐藤優選)179
マルクスと資本主義 -
『ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙』(ヨースタイン・ゴルデル著、1995年、NHK出版)じゃないけれど、13歳の私は哲学少女でした。
といっても、どうしようもなく小生意気で、手に負えない難題を周りの大人たちに問いかけては困らせていた、訳ではなく、たった一人で密やかに自問自答する寡黙な存在でした。
その頃、どれだけ理解できていたかは今となっては定かではありませんが(たぶん半分も分かってなかったと思います)、小説を読む合間に、多いに背伸びしてデカルトやパスカルやスピノザやライプニッツやルソーやカントやニーチェやヘーゲルやキルケゴールを読んでいきました。
きっとあの頃は、1日が50時間くらいあったのだと思います。飽きるほど本を読み、京都中を駆け回り、映画を見まくってもまだ時間が余る感じがしたものです。
マルクスに手を染めたのは中2の夏、ちょうど祇園祭の吉符入、7月1日の初日でしたからよく覚えています。
その時です、通称『経・哲草稿』というこの本で、初めて訳者の一人の田中吉六に出会ったのは。
たしか1907年生まれだと思いますから、おそらくご存命ではないはず(今年102歳)ですが、いまWikipediaで見ようとしてもありませんし、関連する項目も少ないです。
ひょっとして、それは、ひとえに彼がエリック・ホッファーと同じように、まったく独学で哲学を学んだ人だったからかも知れません。
エリック・ホッファー(1902~1983)とは、正規の教育を受けずに炭鉱夫や沖中士などをして、独学で哲学的思索を深め著作を表した人。
たとえば今の日本で在野の哲学者というと、フッサールの訳本『経験と判断』(1975年)もありますが、それより何と言っても一連のヘーゲルの著作を翻訳して私たちの理解に手を貸して下さったあの長谷川宏や、北海道に根付いて住民運動と共に実践的思想を構築し深めて来られ、レヴィ=ストロースの『親族の基本構造』(1977・78年)の共訳者でもあり『風の吹きぬける道を歩いて・・・現代社会運動私史』(2008年)を表された花崎皋平や、2003年の刊行は話題騒然でしたが、『磁力と重力の発見』全3巻を上梓した元東大全学共闘会議代表の山本義隆などがスグ思い浮かびますが、彼らはみな東大卒という高学歴者ばかりです。
それに較べて、今のところ私が知る限りでは、学校へも行かず日雇い労働者として生活して、まったくの独学で哲学を学んで著作を出したのは、田中吉六とエリック・フォッファーだけです。
中でも田中吉六は、ドイツ語のマルクスの著作を翻訳するという、普通では考えられない困難な仕事をやってのけた人ですから強く私を引き付けます。
この『経・哲草稿』と『ドイツ・イデオロギー』には、国や社会や家庭からの自由についての思索が溢れていて、私をとても魅惑しましたし、『経・・・』は、働くということはどういうことなのか。働くことは本来は自己実現して喜びであるはずなのに、資本主義社会ではそうではなく、自己疎外される。それをどのようにして乗り越えていくのか・・・などを考察して示されて、いきなり私は世界の問題の中心部へ連れて行かれたようでした。