テアイテトス (岩波文庫)

  • 岩波書店
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感想 : 10
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  • Amazon.co.jp ・本 (368ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003580028

作品紹介・あらすじ

知識とは何か、真にものを知るとはどういう場合を言うのか。当時行われていた三つの知識説をとりあげて批判しつつ、哲学がさまざまな角度と立場からの吟味や思考を要求するゆえんを示す。有名な無理数論やソクラテスの産婆術などのエピソードをまじえた対話篇。日本における本格的なプラトン研究をきりひらいた泰斗による翻訳。

感想・レビュー・書評

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  • もう二度とレジメにしたくないですねー笑
    話が結構込み入っていてややこしい。
    知識とは何かを問いながら、「~ではない」というかたちで反駁していく(結局こたえはみつからないのだけれど)。

    ヘラクレイトスやプロタゴラスの言葉ーー「万物は流転する」「人それぞれ」ーーというかたちの相対主義をいかに乗り越え、共通のものとして知を立てることができるのか、ということがプラトンの課題。
    あまりここでは「イデア」という発想が全面にはでてこないので、そのぶんだけややこしいのかもしれない。

    そしてもうひとつのモチーフは、《産婆術》。
    ソクラテスは、相手を窮地に陥れバカにするのだ、
    という批判に応えるために、
    ソクラテスは、若い男の子がみずから孕んだ概念のお産を助けてやるのだ、
    というのを実践的に見せている。

    確かに、こう言えばうまくいくんじゃない?とフォローしながら若い子と話していくのは楽しい。
    うんうん唸りながら最後に「ああ、そうか!」という笑顔を見るのは好きです。

  • 改版後の新版として登録。

  • (01)
    時間を主題とした哲学ではなく知識をテーマとしている.にもかかわらず,本書でいわれる「時間の余裕」はソピステスといわれる「智慧の指南者」のみに許される時間であるのだろうか.
    本書の大筋は,知識と感覚を分け,要素の列挙に還元される知識を避け,虚偽の思いなしの例を挙げることで正しい知識を彫り上げようとするものである.しかし,その余談として,プロタゴラスやヘラクレイトスへの批判を加え,テアイテトスやテオドロスとの掛け合いをソクラテスの名で演じ,ホメロスを始めとする歴史を通じ,鳩がいて蝋がある生活を用いて,知識の指南を楽しむ著者プラトンがいる.
    著者の余裕は,忙しさにかまけた弁論家や政治家,あるいは履つくりのようなビジネスからはほど遠い.この時間の余裕は,当然ながら本書に触れられる運動の問題に関係している.
    集合の小題にもつながる変化と運動(*02)には,時間や空間の余幅が必要となる.ある時間的な連続性と間歇性,空間的な遊びの余地などが変化や運動の質と量と情態を左右する.著者の知的な運動は,本書のテキストの中で余すところを持ちながら動き,テアイテトスや読者の知に作用している.

    (02)
    運動の結果や時間として,男女の交合と結合,摩擦(合性という訳語も関連して用いられている)の起こりを生成論に組み込み,出産に立ち会うだけでなく結婚を媒介する産婆をも演じている.著者は自らを歌舞の組仲間として任じており,相撲で裸でぶつかり合うことも潔しとしている.その多面的なソピステスの面持ちも愉快であるが,「川越え」のエピソードの引用にもあるような「足許にひっからまって」くる身体的で触知的な知との取っ組み合いが本書の魅力でもあろう.

  • http://naokis.doorblog.jp/archives/Theaetetus.html【書評】『テアイテトス (岩波文庫)』〜知識とは何か? : なおきのブログ

    2017.11.16 存在論(オントロジー)をWikipediaで調べていたら、存在論→認識論→『テアイテトス』(知識とは何か?)に至る。Amazonレビューを読むと、「知識とは何か?」に対する回答はなく、「知識とは何ではないか?」の3点を表しているとのこと。

    「対話」というよりも、老人のソクラテスが若者のテアイテトスへの一方的な詰問、論駁にしか見えない。台詞の8割以上がソクラテスで、テアイテトスが一言言えば、ソクラテスが延々と論駁する。本書の何がよいのか、理解できなかった。

    2017.11.28 読書開始
    2017.12.17 断念

  • ソクラテス先生母直伝の産婆術を使うも失敗の巻。

    知識とは何か?というテーマで議論をして、
    仮説を立てて議論をするが結論は出ない。

    「産婆術」という言葉の出典元であるが、
    ソクラテスが他の本でも行っているやり取りであり、
    しかも失敗に終わっているので、
    産婆術を学ぶために読む本でも無いらしい。

    テアイテトスの台詞にもある通り、
    話がややこしくてわかりづらいし、
    プラトンが好きな人以外にはおすすめ出来ない。

  • プラトンということで。
    「知る」ということがどういうことなのかを巡って数学者とソクラテスが考える。知るということがどういうことなのか、考えてみたくて読んでみることに。
    プラトンのいわゆる主要な対話篇と異なり、その思想体系を突き詰めた対話篇では決してない。しかし、それはひとえに、「知る」ということを考え続けていたからに他ならない。「知る」という行為が純粋に実践であると同時に、きわめて形而上学的な事態である。たぶん書いていたプラトンそのひともかなり難航したに違いない。
    人間は流転すると言えば流転しているし、止まっていると言えば止まっている。ただのことばなのである。そんな風に存在はできてしまっている。なんとまあ不可思議な存在であるか。おそらく、あえて対話テーマを絞らないで、プラトンは考えてみたかったのだろう。風呂敷を拡げ考えては立ち止まり、別の風呂敷を拡げてはまた考え、どこか煮え切らない感じに対話が進んでいく。
    プロタゴラスの原則は、万物の尺度は人間であるということである。ソクラテスはほんとうのことが知りたいから、はたしてすべての尺度であるのか考える。たしかに、痛みをはじめとする感覚というものをひとは誰かと共有することはできない。感覚とはどこまでも個人的なものだ。だが、その個人的な現象である感覚を、ひとはどういうわけか知っている。なぜだかことばにしたり、それでひとと話すことができる。真に個人的なものであるなら、どうして語ることができるのか。ここに、万物の尺度たる人間という原則がゆらぐ。あくまでプロタゴラスの原則は感覚に関することであって、知ることに関しては別なのである。感覚することと知ることは別の事態なのである。
    では、「正しく考えた」ことが「知る」ことになるのか。そして、「知識」とは「正しく考えた結果として言語化されたもの」なのか。所有と所持の考え方を用いているが、時間的に考えれば、「知る」という行為自体どこまでも現在の行為であって、「正しさ・誤り」というのは知った後のことなのだ。知るということが先行しない限り、正しさどうこうも起こりようがないはずだ。
    カントはこういうことをどこまでも概念の操作で詰めようとしていった。ソクラテスという男は学者でもなんでもないから、そんな頭の痛いことはしない。どこまでもこの生きている存在から連続した事態として考えていく。臨床哲学とかいう謎の学問を掲げるひともいるが、学問自体が生きている不思議から生じていなければ一体なんだというのか。産婆術とは、未知なる存在に対する探究心のことだ。知りたいから対話する。知らないから対話できる。

  • 常日頃、反「プラトン主義」をキーワードにしている私であるが、プラトンを読むのは結構すきである。

    それは、別に反論する相手を良く知ろうということではなくて、純粋に読んでて面白いからである。

    というのは、プラトン自身は、いわゆる「プラトン主義」に収まらない過剰なものがある思想家だと思うし、仮にプラトンが「プラトン主義」を主張しているときでも、「いやいや、それは違うんじゃないか」と思考をとても活性化させてくれるからだ。

    というわけで、「知識とは何か」という問いを巡る対話篇「テアイテトス」であるが、これは、他の対話篇に比べると、なんだか、すごく難しい。議論の大筋を追う事はできても、ひとつひとつの発言が一体何を言っているのか、その文脈を追うことは難しい。

    「知識」について、3つの考え方がしめされるのだが、それはいずれもソクラテスとの対話のなかで否定されてしまう。つまり、読者は「知識について何も分かっていない」という状態に取り残されるわけだ。

    「テアイテトス」はプラトン中期から後期につなぐような本であるらしいのだが、いわゆる「プラトン主義」のイデオロギー的な感じがする中期よりも、ある意味、「無知の知」を確認するところで終わるプラトンの初期の対話篇に近い感じがする。

    一方、議論の調子はすごく難しくて、そこのところは、いろいろなことを経験や思索を経てたどり着いた一筋ならでは行かない複雑なものがあって、これは初期の対話篇とは違うところ。

    ある意味、「知識とは何か」という問いを無意味化する脱構築的な実践と読む事すらできる。

    あるいは、「意味」という病にとらわれがちな哲学という言語行為を、臨床的に治癒しようというウィトゲンシュタイン的な行為と解釈することも可能かも。

    だって、有名な「ソクラテスの産婆」の話しは、この対話篇に入っているんだよね。人が正しい知識を生み出すことを手助けする産婆としての役割が哲学なのだ。(が、結局、生み出された知識は「正しく」ないことがわかるのだけど)

    「知識とは何か」という問い自体が実は適切な問いではない。言語の病であるとウィトゲンシュタインであれば言うであろうな、と思いつつ、そんなことを言うやつがでてくることも既にお見通しのプラトンなのであった。

    「知識とは何か」という問いに固定された答えはなく、それを探求していく対話・活動こそが知識なのだ、というのが本書のメッセージである、と自分の最近に引き寄せて、そう読んでみた。

    と、実にスリリングな議論がなされていそうなのだが、それにしても、大昔のギリシアの哲学議論をベースした議論をされても、なんだか分からない、という印象が薄らぐ訳ではない。

    なので、正直ベースでの理解度を踏まえ★は3つにした。

    なんか、字も小さくて、老眼が進展する私には読みにくいし。。。

  • 同じ田中先生訳が岩波文庫に収められていましたが、底本をプラトン全集に変更し、補注を加えるなどした決定版!産婆術のエピソードや無理数論、知識とは何か論など、談論風発で大変面白い。

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著者プロフィール

山口大学教授
1961年 大阪府生まれ
1991年 京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学
2010年 山口大学講師、助教授を経て現職

主な著訳書
『イリソスのほとり──藤澤令夫先生献呈論文集』(共著、世界思想社)
マーク・L・マックフェラン『ソクラテスの宗教』(共訳、法政大学出版局)
アルビノス他『プラトン哲学入門』(共訳、京都大学学術出版会)

「2018年 『パイドロス』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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