- Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004110620
感想・レビュー・書評
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マルクス、ウェーバーを読む上で参考になると思います。これを読んで、彼らの著作を読まないのは、もったいない。
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2009年1月、読了。
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マルクスとウェーバーの共通性や相違点など、大事な点が要所要所で繰り返されていてすごくわかりやすい。
ただ、この類の内容は、自分の血肉として語るのが難しい。うまく浸透してこない。
やはり原典を当たらねば。。。 -
ヴェーバーとマルクスの採った社会分析の手法を解説。
口語でちょっと要点はつかみづらいけれど、両者、とくにヴェーバーに関する記述は秀逸。 -
人間の「疎外」に立ち向かったマルクスとマックスウェーバーを比較検討した本です。
マルクスは封建社会から分業が成長していった結果、自由を手にしたように見えたが、むしろ人間から大きな力が働いて人間から離れて行き「疎外」が生まれていく。これを解決しなければならないと考えた。
マックスウェーバーは、歴史のダイナミックな過程から文化的な領域、宗教にまでその対象を広げてゆく。その文化的な領域が経済を制約し、「疎外」が発生すると考えたのである。
問題の対象が非常に大きな問題であるために、やや分かりにくい部分もあるが「疎外」に対して異なるアプローチを行った二人を比較検討した良書である。 -
メモ
ウェーバーもマルクスもまともに読んだことがない身としては、入門書として読んだ。
社会科学で人間の全てを説明・解明できるわけではない。欠点もある。でも、社会科学は人間や社会を理解する上で便利で役に立つ一つの方法だ。
マルクスは社会を生産関係(経済的側面)から分析する。ヴェーバーは人の動機から因果関係を追求し、社会現象を科学的に分析する。それぞれ問題や欠点や不十分なところがある。だからってすぐに捨ててしまうのは惜しい。どこがおかしくて、不十分なのか知っていれば、ヴェーバーやマルクスがやろうとした社会科学は十分に役にたつ。 -
ウェーバーとマルクスって書いてあるけど主にウェーバーの社会科学の方法について。
大塚久雄のウェーバー解釈の特徴は、ウェーバーとマルクスを相反する経済思想家と見るのではなく、両者に共通するものがあるとしている点にある。巷では「マルクスと対峙する」と形容されるウェーバーは、マルクスを批判することによってマルクスの見解を相対化しながら自分の立場に大きく取り入れていったのだとか。また、よくある「ウェーバーは宗教のみで世界の動きを説明しようとしている」というウェーバー批判をばっさり斬り、「宗教に焦点を当てているのみで宗教のみで説明しようとしているわけではない」とウェーバーを擁護し、その社会学における洞察力を高く評価している。
一番おもしろいのは3章の「経済人ロビンソン・クルーソー」のところ。「ロビンソン・クルーソー漂流記」はイギリスの資本主義勃興を象徴するような小説で、ロビンソン・クルーソーこそ「合理的経済人=ホモ・エコノメトリカス」であるとする解釈は本当におもしろい。実際、ロビンソンは無人島で囲い込み(=エンクロージャー)を行い農業や牧畜を行って富を蓄え、時の概念を忘れず、さらに貸借対照表までつけてしまうようなアダム・スミスが想定するような「合理的な」人間だったわけです。また、ロビンソンが貨幣の蓄積にはまったく興味がなかったということも歴史家の歴史解釈と一致する。そうそう。資本主義というのは現代社会に蔓延するような拝金主義ではなくて、禁欲的に労働にはげみ、労働それ自体を目的として献身したがために、偶発的に富の蓄積が得られたというキリスト教の隣人愛に起源をもつ経済システムである(ウェーバーの解釈によれば)ということを忘れるな。 -
1月?
(かつて?)文系大学生が読むべき本といわれる第三弾である。
[内容]?ではヴェーバーとマルクスを取り上げその「方法とその周辺にある諸問題を」扱っている。まず、章前半ではマルクスが扱われる。「マルクスは、人間生活の歴史が結局外的―経済的利害状況によって大きく軌道づけられると考え」ており、一方で、彼が、内的―人間的な諸動機から発する諸個人の行動の法則性の問題を視野の外に置いたのは、「最小限度に必要なもの、そうした第一に着手さるべきものとして経済学批判の仕事に集中した」と筆者は推測する。マルクスにおいては、上部構造は経済的な基礎(下部構造)から根本的な制約を受けていることが強調され、上部構造の運動法則に関しては積極的に何も言われていなかったのだ。ではヴェーバーはどうであるかというと、「重点の差異はあれ、終始様々な文化領域に手足や頭をつっこん」でいるという特徴がある。そして彼は、「経済学的利害状況による根本的な制約を十分に認めながらも、それだけには止まらないで、さらに他の文化諸領域における社会現象がそうした経済的利害状況の制約から相対的に独立して、どういう『固有な法則性』をもって独自な動きを示すのか、また逆に、経済の動きをどのように制約することになるのか」ということを正面から取り上げている。つまり、一つ確かなこととして指摘できるのはヴェーバーの「社会学」は、マルクスの場合よりも射程距離が大きいということである。?では、「ロビンソン・クルーソウ」の物語の意図しようとしたことを筆者なりの解釈で説明してある。それによると、作者のダニエル・デフォウは、ロビンソン・クルーソウという架空の人物に仮託し、当時のイギリスの現実の一面を書いているのではないかという。つまり、当時イギリスの国富を担っていた、さらにまたその輝かしい将来を担うであろう中産的生産者層の行動様式の中に含まれている、こうした側面をユートピア知的に理想化して描いたのではないかと筆者は指摘している。?では、「儒教とピュウリタニズム」という二軸を中心にヴェーバーの宗教社会学の観点から説明がなされている。まずヴェーバーが宗教に注目した理由は、宗教的社会倫理といったものを分析し、調べていくとその角度から、それぞれ、その当時の民衆の生活の根本的なあり方を、あるいは社会の構造を見通すことができると考えたからだという。そして、彼の分析では、旧中国における宗教的二重構造を指摘する。つまり、儒教が一つの身分的倫理であり、支配者層と結びついたのに対し、一般の勤労民衆と結びついていたのは、道教ないし、俗間の仏教であった。一方、キリスト教の発展の場合は、「民衆の宗教意識が絶えず支配者層の宗教意識を自分の中に捲きこみ、消化して、そこから新しい生命の躍動する文化を絶えず生み出していった」という。二者の違いは、前者が二重構造が固定化しているのに対し、後者は、二重構造が発生しても絶えず壊されていくという点にあるという。?では、ヴェーバーの社会学の基礎が紹介されている。彼は、宗教と経済の二つの対極とする緊張関係の中で歴史的現実の動きを推し進める根本的なダイナミックスを見出そうとする。つまり、経済的な利害状況とは日常的なものである。一方で宗教ないし思想というのは、非日常的なものをはらんでいる。個々人は歴史過程の中で利害状況に基づき行動するが、歴史の曲がり角というべき状況では、宗教ないし思想による新たな理念が、決定的な作用をもたらすのであるという。
[感想]
読み始めたときは正直読了することができるかどうか不安になったが、読みすすめていくと内容に引き込まれた。とくにマルクスとヴェーバーの比較というのはすごく意外な感じがしたが、双方が向いているベクトルは全く違う方向を向いているわけではないという点は読み終わり納得した。しかし、彼らの目的がどこにあったかを考えるとそれは自明のことであったのかもしれない。全章を通し筆者の考え方が一貫しており、それぞれ別々の講演内容を文章化したものであったがわかりにくさはあまり感じなかった。