日中アヘン戦争 (岩波新書 新赤版 29)

著者 :
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  • Amazon.co.jp ・本 (209ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004300298

作品紹介・あらすじ

日中戦争はもう一つのアヘン戦争であった。昭和12年以後、日本は内蒙古にかいらい政権を樹立、ここを中心に莫大な量のアヘンを生産し、中国全土にアヘン・麻薬を流しつづけた。その害毒はじつに戦慄すべきものであった。著者が発掘した決定的な資料をふまえて、日本が日中戦争においておこなった最大の国家犯罪の全貌に迫る。

感想・レビュー・書評

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  • いつの間にかアヘンシリーズに突入していたが、積読アヘンモノ最後を読破。
    日中戦争時において、日本が暫禁政策と言いながら、実際には生産し、一定量以上の歳入を見越し、結果的にそれまで国民党政府がアヘン中毒者を減少させていたものをまた増加させてしまっていたという事について描かれている。

    半分以上が、公的資料から期待したXX地区で期待された生産量、歳入、密輸入、新たな政策・令がどうだったかといったことが事細かに書かれており、資料的価値は高いかもしれないが、読み物としてはあまり面白くはなかった。

    公的資料における建前と実質に乖離があること自体は別に驚くことでもなく、日本側に大きな乖離があり、国民党政府の公的発言では阿片中毒者を努力して減少させた云々はそのまま受け取っているところに少々違和感を感じる。またこの本の前に読破した「中国の阿片史」によれば、国民党も阿片の製造に関わっていたようだし、その後阿片の習慣を社会から無くさせたと言われる共産党ですら、製造に関わっていた可能性があるとのことであった。

    そういう意味では、日本ディスのバイアスが少々かかっているような気というか、ちょっとした違和感を感じなくもなかった。

    これらの事実が真実であれば、現時点であまり中国から責められていないかもしれないが、将来的には何らかの火種として突然語られるようになる可能性もあるかもしれない。

    P.6
    日本が一五年戦争下におこなったアヘン・麻薬政策については、かつて極東国際軍事裁判で追及されたことがあった。(中略)検察側が書証の一つとして提出した北京市政府の文書は、北京への「アヘン来源」は「日本人の奨励による」蒙疆土業組合にあると述べ、検察側の最終論告は、北京における「アヘンの主要供給者が蒙古傀儡政府により管理された日本軍によりアヘン栽培を奨励された蒙疆(土業)組合であり、運搬および販売は日本人および朝鮮人により行われたものである」と指摘していた。

    P.23
    20世紀に入ると、中国のアヘン禍は国際問題化し、イギリスへの避難がたかまった。アメリカの提唱によって一九〇九(明治四十二年)上海で最初の国際アヘン会議が開催され、その勧告をもとに、一九一二年ハーグ会議でハーグ国際阿片条約が調印されたが、これはアヘン煙膏の輸出入を禁止ないし制限したのみで、生アヘンの生産・輸出は禁止せず、また批准した国も少なかった。
    第一次世界大戦後、アヘン・麻薬の禍害は欧米でも深刻な社会問題となった。一九二〇(大正九年)年国際連盟が成立すると、ハーグ国際アヘン条約の実施については連盟が監督の権限をもつことになり、理事会の諮問機関として、関係国によりアヘン諮問委員会が組織された。ついで一九二四年国際連盟によってジュネーブ国際アヘン会議が招集され、米英が対立して紛糾したが、二五年二つの国際アヘン条約が成立した。ジュネーブ第一アヘン条約は生アヘン、アヘンの煙膏の輸入・分配を政府の独占事業とし、瘾者以外の使用を禁止するなど、アヘン吸煙の漸進的な制止をはかるものであった。ジュネーブ第二アヘン条約は、麻薬およびその原料の生産・分配・輸出入・販売の取締りに関するもので、条約の実施を監督するために常設アヘン中央委員会が設置された。
    その後、一九三一(昭和六)年ジュネーブで麻薬製造制限会議が開催され、麻薬製造制限分配取締り条約が成立し、麻薬とくにヘロインについて厳重な制限を加えた。
    こうして一九一二・二五・三一年の四つの国際アヘン条約が作られた。日本は四つの条約のいずれについても調印・批准している。

    P.24
    こうのような国際条約が結ばれても、中国のアヘン禍は深刻化するばかりであった。中国は一九一七(大正六)年三月末をもってアヘンの輸入を禁止し、同年末アヘン禁煙令が発布され、十八年一月中国政府は上海でアヘン一二〇七箱を焼却するなど、禁煙に腐心したが、内戦がうちつづくなかで、実効はほとんどあがらなかった。
    軽量でありながら高価で、値段が極端に変動しないアヘンは、中国では通貨同様にみなされた。そしてアヘンは莫大な財政収入もたらすことから、各地の軍閥はケシの栽培を奨励し、アヘンを争奪しあった。

    P.30
    一八九七(明治三十)年一月台湾アヘン令が公布され、アヘンをすべて政府の専売とし、何人も輸入・製造しえないと、特許をうけないものはアヘンを売買・授受・所有できないこと、アヘン瘾者と認定されたものにかぎり、アヘン煙膏の吸引を特許することを定め、これらに違反するものは、重禁錮(最高五年)または罰金(最高五〇〇〇円)に処すとした。
    しかし実際には、アヘン瘾者であるという公医の照明がなくても、満二〇歳以上であれば、アヘン吸煙の特許があたえられた一方、瘾者の救済・矯正措置はとられず、膨大なアヘン収入が獲得された。
    もっとも、アヘン吸煙の特許料は過酷に高額で、瘾者の自発的廃煙や死亡によって、アヘン吸煙特許者数は、最高であった一九〇〇(明治三三年)の一六万九〇〇〇人から、一九一〇(明治四三年)九万九〇〇〇人、一九二〇(大正九)年四万八〇〇〇人をへて、一九三〇(昭和五)年には二万三〇〇〇人にまで減少した。

    P.35
    山東は中国へ還付されたのちも日本人による麻薬の密売の一大拠点であった。プロレタリア作家黒島伝治は『武装せる市街』(一九三〇年)済南の情景を描いて、
    武器を扱う商売が硬派だった。そして、アヘン、モルヒネ、コカイン、ヘロイン、コデインを扱う商売が軟派だった。すべて支那人相手の商売である。・・・邦人達は、たいてい、この軟派を仕事としている。饅頭屋、土産物屋、時計商、骨董屋などの表看板は、文字通り表看板にすぎなかった。・・・そんな商売をやる人間が一千人からいた。

    P.158
    満州国の状況は早くから国際的非難を招いた。三七年五〜六月にジュネーブで開催された国際連盟アヘン諮問委員会の第二二四回会議では、アメリカ代表フラーが、アヘンの生産は国民政府のもとでは制限され減少しているのに、満州国では増大しているという事実を指摘したうえ、「貪欲の結果また利得のために、同胞を大規模にドクする悲しむべき、またもっともいちじるしい例証であり・・・世界の他の政府にたいして負う義務をまったく無視した例証である」と陳述した。

    P.180(日の丸はアヘンの商標)
    陸軍中将池田純久は『陸軍葬儀委員会』(一九五三年)のなかで、つぎのように書いている。
    〔支那〕事変当時、日本で喰いつめた一旗組が、中国の奥地に流れ込んで、アヘンの密売に従事しているものが多かった。かれらは治外法権を楯に日の丸の国旗を掲げて公然とアヘンを売っているのである。だから中国人のうちには、日の丸をみて、これがアヘンの商標だと間違えているものが少なくなかった。よく調べてみると、中国人はそれを国旗とは知らず、アヘンの商標だと思っていたという、まったく笑い話のような滑稽談さえあった。

  • 日中戦争こそアヘン戦争だった。
    もっともっと解明されてほしいところ。

  • 1988年刊。満州事変以降、特に日中戦争以降は国策としてアヘンを中国内に蔓延させ、交戦意欲減退と莫大な資金獲得の手段とする戦術を採用したが、その実情を暴く。中共への安直な盲信は時代がかっていると言うしかないが、依拠する文献の入手経緯の問題を素直に開陳する点など、総じて学者としての良心を感じ、好感度大。また、引用も国際連盟報告書など、記述内容も出鱈目とは言いがたい。日中戦争前は国策でなかったとする点も中庸。もちろん、仮に中国人がアヘン等の常用者だとする点が問題だしても、製造・販売の方がより重い罪なのは明白。
    これは、現行の自己使用目的所持よりも製造や販売目的所持の方が重い罪とされていることからも明らかなこと。このようなアヘンの製造販売に積極的に関与したことは重く受け止める必要があろうし、大東亜共栄圏が実のないプロパガンタとしか受け止められなかったに違いない。

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