- Amazon.co.jp ・本 (248ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004305217
感想・レビュー・書評
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p8
戦前の教育が国家目的に従属する、国家目的の手段としての教育であったのにたいし、戦後の教育は子ども一人一人の可能性を育てることを軸にしている。国家は、教育の内容に口を出し、統制するのではなく、一人一人の人間の権利としての教育をどう保障するか、その条件整備の責任を負う。
そこでは、教育の自立性、独立性がその原理になる。
基本法第10条は、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」
p9
戦後の教科書検定でとくに1960年前後を境目として特徴的なことは、学問的真実は真実としても、「教育的配慮」からこれのことは教えなくてはならないという態度を示してきたことである。しかし、これは「教育的配慮」という名の政治的配慮にほかならない。そうではなく、教科書および教育実践で大事なことは、科学的真理、真実とともに、それをどう教えるのかの「教育学的配慮」でなければならないというのが基本法の立場であり、精神なのである。
p13
日本の教育は、80年代半ばに臨教審が組織され、「自由化」の名で公教育を解体する路線がすすめられた。選択の原理が強調され、教育の商品化、競争と選別の強化が進んだ。商品としての教育は、お金がある人には私学でいい教育を、ない人には適当な公立学校でやればいいというもので、一人一人の人間の成長、発達を企画する教育基本法とは異なった教育観である。
p15
第二次世界大戦、あるいはそれにいたる帝国主義の歩みというものを全体として批判的にとらえる視点なしに、ただ日本の加害責任だけを強調するとすれば、歴史認識として正確とはいえない。
p16
帝国主義と侵略戦争に対する批判をした日本の先人たちの考え方とその行動、それへの弾圧の事実を含んで、生徒たちに丁寧に教えていくということを大事に考えないといけないと私は考えている。(中江兆民、幸徳秋水、内村鑑三、矢内原忠雄、石橋湛山、岡倉天心、柳宗悦)
p24
教養とは「人と人をつなぐもの」と言われるが、それは個別の認識を通してつなぐだけではなくて、まさに個別のものをいつくしむ感性を通して、あるいは人間的なふれあいを通して、苦しみを共有するということをも含んでの教養の問題が問い直されているのではないだろうか。歴史教育の課題もこの点に集約される。
p88
これまでみてきたように能力主義(メリトラクシー)は、官僚化と知の支配(エピステモクラシー)と密接に結合されて今日の支配的な社会構成の原理となってきている。この原理は、1960年代から今日にかけての日本の固有のものなどではなく、先進国に共通のものであるとともに、後発国にとっては、いわゆる「好発効果」(ドーア)をともなって、発展途上国では学歴競争はいっそう激しくなっている。
文部省の教育認識も、この時期を機に政治主義から産業主義へと、その基調を移していく。1962年の「教育白書」は、『日本の成長と教育』と題され、つぎのことばで始まる、「社会の発展において教育の果す役割が重要なことは、あらためてのべるまでもないが、とくに最近において教育が経済の成長をもたらす強力な要因であるという考え方が、広く国の内外を問わず一般化しつつある。
p97 L8
その未来社会はバラ色に見えてくる。しかしよく読めば、それが一部の知的エリートたちに限られたぜいたくだということもすぐにわかる。詳細をみるコメント0件をすべて表示