悪について (岩波新書)

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著者 : 中島義道
  • 岩波書店 (2005年2月18日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004309352

悪について (岩波新書)の感想・レビュー・書評

  • ところどころ解釈が難しいところがあったけど大筋は理解できたし、予てから自分が考えていた事と重なる部分が多々あった。一切の誤魔化しを許さずに「自己愛」を摘発する姿勢には震えるほど共感できる。
    道徳的な人の例の中に私の大好きな「彼岸過迄」の市蔵君が挙げられてたのが嬉しかった

  • カント倫理学における「道徳的善」を裏側から抉りだす傑作。「根本悪と最高善」に引きちぎられる人間の姿を綴ったくだりは荘厳な宗教画のような迫力とドラマを感じた。

  • カント倫理学に基づき悪について語った本。道徳的善、善意思、根本悪などといった要素を元に悪について考えていく。
    世の中に善人などいはしない。善行為は即ち自己愛であり、自己愛は悪であるから。自分本位なのであるから。では善とはなんなのであろうか?悪とはなんなのであろうか?

    これは読者に何かしらの発見をもたらす本ではないだろうか。

  • 私はよく、いい人そうと言われる。穿った見方をするといい人というのは、どうでもいい人とも聞こえる。さらに、~そうということは表面的には少なくともそう感じるということだ。ただ、多くの人にそう言われるので、気にしないわけにもいかない。私自身自分のことはいい人とはそれほど思わない。わがままで利己的だし、他人を憎いともよく感じる。昔はそうではなかったのかもしれないが、社会に出て世の中にすれていくにつれ、どうも自分が悪い人間になっているような気がする、むしろ自分はもともと悪い人間だったのではないかと思い、本書を手に取った。
    冒頭から筆者の弁は痛快だ。「私は自分のうちに膨大な悪が渦巻いているのを知っているのだ」「悪にまつわる私の唯一の関心は、善人であることを自認している人の心に住まう悪である」どきっとさせられる言葉だ。誰の心のうちにも悪があると看破している。これを読んで思い出したのはカラマーゾフの兄弟のアリョーシャの言葉だ。正確には忘れたが、世間的に善人と思われているアリョーシャが、悪人と呼ばれている人達と自分は同じだと述べるシーンがある。そこで、同じ階段を上っているというようなことを言っていた。位置の高い低いはあるが、同じなのだと。
    誰の心の中にも悪が存在するということがわかって、どこか安心した部分がある。これで心置きなく自分と向き合える。悪いことが存在していると認めたうえで、それとどう付き合っていくかが人間としての条件という気がする。一線を越えてしまった人達についての言及が本書であるが、そこで悪が露わになると筆者は言っている。だが、日常にはもっと小さな悪もあるし、表に出さずとも心の中に潜む悪もある。それを見つめるということが自分を理解するということだ。

  • すべての人間は、道徳的には悪にならざるを得ない。
    善人ほど悪である…!
    どんなに善であろうと欲しても、動機においても行為においても、人は義とされない。
    誠実であろうとすればするほど、人は自分自身に絶望する。
    しかし、人はどこまでも道徳法則の尊敬に従って行為しなければならない格率が定められている限り、履行不可能な義務が人間には科せられている!!

    人間の持つ原罪を哲学の点から暴き出している。

    やはり、自分のエゴイズムを穴が空くほど見つめつつ、他人や善人の持つエゴイズムやごまかしを徹底的に追及する中島氏の原点はやはり、カントにある。

  • 冒頭からあまりにおもしろくて一気読みした1冊。
    うわこれ私もずっと思ってた嬉しい…!と感動しながら読み進めてくといきなり身体をものすごい勢いでえぐられる感覚が。自分が中途半端な人間なのを突きつけられるのだ。天秤でいえばただゆらゆらと揺れてる感じ。だからこの際どっちにもズドンズドンと振り切ってやろうと思った。それで中庸を保ちたい

  • 毎日のようにニュースで扱われている犯罪に関する「悪」の本だと思ってネットで買ったけどそうではなかった。カントの倫理学を読み解きながらもっと身近な悪を取り扱っている本だった。とにかく難しい。

    ・適法的行為が道徳的に善い行為というわけではない
    ・定言的命法によって起きる行動が道徳的に善い行為である。つまり自己愛による適法的行為は道徳的行為ではない。本人もこれを自覚できないことが多い。
    ・道徳的な人間とは答えが出る出ない関係なく自分で考える人である
    この3点は少しわかった気がする。哲学と無縁の生活を送ってきた自分にはとにかく難しかった。

    また、本編とは関係ないが夏目漱石の「こころ」の先生と妻の関係に関する解釈は眼からウロコだった。

  • タイトルの「悪について」の悪は悪一般についてを語ったものではない。カントの言説を通して中島先生の考える根源悪について語ったものである。こういう原罪に近いような悪って、きっと現代倫理学で扱うような対象ではないんだろうなと思った。
    道徳的な生き方とは何かと考えるとき、それは行為そのものではないことに気付く。では行為を漂白したときに何が残るかといえば行為と関係した意志である。たぶん今時の倫理学ではその意思が自己愛と深い絆で結ばれていることを前提として様々話が組み立てられていくのだろうけど、カントや中島先生はそれを許さない。厳格主義というだけのことはある。カントは適法的行為とは何かを主題に挙げなかったということだが、挙げる必要が無いという以前に挙げられなかったのではないだろうか。中島先生も挙げられないように見える。強いて挙げてしまうと、アイヒマンの持つ定言命法の格率と、グリーンフェルト氏のぎりぎりの所で持ち続けた定言命法の格率に決定的な違いを見出しづらいことが露呈する。
    定言命法による確率を最優先すべきだとカントは言うが、中島先生はそうは言っていない。ただ悩めと。自己の選択が善だと正当化することは言わずもがな、善悪が無いと達観することも不道徳極まりない。
    生きづらい生き方を選ぶ人もきっと多いんでしょうね……としか言えない自分がいる。

  • 高校生の時に買って、大学で哲学を学んでいた頃まで、度々格闘しました。ただ、やはり、全く書いてあることが分かりませんでした。難しいです。カントを専門的に学んでようやく、その難しさの原因がカントを扱う上での特有の難しさである事が分かり、カントが嫌いになりました(笑)。

    月日は流れ卒業から2年後の今読んで、書いてある内容の意味は大体取れました、でもさっぱり分からないし、分かったところで「そんなの、嫌だわ!」と叫んでいる自分がいました。「分かっても受け入れ難い」んです要するに。どうも、カントは好きになれません。

    哲学畑を出た人間としては、この本がいい本であることはさして疑いがないです。カントを扱う時は特に、概念の定義レベルからミスリードに神経質にならないといけない。だから、ああいう小難しい書き口になるんです。私がいい本だと思うのは、中島義道節を生かしつつ「新書レベルの厚さでよくあんな質めんどくさいもの解説できたな!」という意味で、です。はっきり言って、書いてある内容の意味を把握する(つまり「読み解く」)には、しっかりした哲学の専門教育か、それ相当の教養を要します。理解したり批判するには、院でカントを専門研究するしかないです。難しいです。新書だから入門レベルと侮らない方がいいです。

    ただ、分かったところで、嫌ですね。道徳的な正しさってなんだ?悪ってなんだ?という問いについては、「お前ん中で、一生生きながら、動きながら、考え続けてろ。正解なんてないし、正解だと思い込めば思い込むほど、お前は悪に近づく」ですもの。厳しいですね。この厳しさを受け入れられるかどうかが、この本を読んだ後でなおカントを勉強したいと思えるかどうかですが。

  • 今まで気になっていた対人関係の根本原因が分かったような気がする。もっと詳しく知りたくなった。

  • カントを通して見る悪

    どちらかというとカントの解説書(一部)みたいな感じ。

  • 善と悪は紙一重。価値観や立場が違えば捉え方も変わってくるが、人間の本質と倫理に照らし合わせるてどう解釈するか・・という哲学の話。

  • 何が適法的かという指針をカントは規定していない、という事の説明が得心いった。

  • タイトルを見て今はまっているまんがのキャラクターを思い出して借りた。

    カント倫理学の本。
    悪とは自己愛が動機だということを隠して、あるいは気づかずに道徳的行為をするこち。

  • カントの倫理学から、「悪」(そして、その対になる「善」)についての解釈のエッセンスを抽出して、比較的わかり易く解説してくれている。
    「道徳的」「善」「自己愛」「理性」などのキーワードが巡る中で、きっちりと論旨を積み上げて理解できた訳でないが、言わんとしている事は、わからなくもないレベルで読み終えた。
    とはいえ、難解は難解。自己愛に基づく行動が、本当に善いのか悪いか?混乱の深みに嵌ってしまうのは、自分が凡人な証跡であろか。
    自分自身を見つめなおすのに、軽薄な自己啓発本より、この手の本が良いというのがわかってきたのが収穫。

  • カント倫理学に基づいた善悪の分析。
    善なる行為だけをなして生きる、つまり善であることはできない。
    自分のなすべき行為が善なる動機から出ているのか悩み、そうあろうと心がけることが善である状態なのだろう。
    思考停止してはいけない。

  • 自己愛から逃れられない。悩み続けるしかない。
    日頃思うことを言語化してくれてる。

  • まずカントが言うところの道徳とは内容ではなくて「形式」である。なので、これこれが道徳だとは言えず、定言命法に従うことこそが道徳である。そして、それに従おうとして苦悶することこそが道徳的である。換言すれば、定言命法に従えればいいのだが、従えずに悶え苦しむ姿こそが道徳的であり、真なる道徳=最高善を人間は果たしえない以上、悶え苦しまなければそれは非道徳的となってしまうのである。ちなみに、ここで適法行為と非適法行為がある。これは法にかなっているかどうかとも換言できるもので、いわゆる道徳的行為はこの適法行為の内に含まれている。とはいえ、カントが規定しているのは道徳的行為の形式だけなのであり、適法行為、非適法行為の区別はつけられないことになる。その理由としては、両者の区別は時代や文化で異なってしまうためにその点に関しては真理たる性質を持ちうるものはありえないからである。よって人々は常に適法行為と非適法行為の間で揺られなければならなくなる。ここで完全義務と不完全義務とがあるが、前者は絶対的に果たされなければならないもので、後者は必ずしも果たされる必要はないものである。これらは定言命法の中で更に形式をわける概念と言える。さて、悪の潜む場所がどこにあるのかと言えば、それは欺瞞である。外形的には適法でありながらも、道徳的でない行為からは誰しもが逃れらない一方で非情に巧妙な欺瞞がそこには介在している。その欺瞞には必ずと言ってよいほど、「自己愛」や「嘘」が付随している。自己愛による幸福追求原理内に人間がある以上、人間は幸福追求のためには嘘をつくことは免れず、外形的に適法と思しき行為を一見道徳的だとも見える形でしかし実は自己愛に突き動かされて行うのである。とはいえ、人間が道徳的行為を外れる原因は自己愛だけではなくて、そこには他律も含まれる。それに対して人間は自律=定言命法に従うべきであるのだが、予め機械的に決定される他律=神の教えなどに従うのはただの思考停止と言えよう。

    では、ここで終論が見えてくる。ここで悪の素質なるものを三段階に分けてみると、「人間心情の弱さ=動物性の素質」「人間心情の不純=人間性の素質≒文化の悪性」「人格性の素質=人間心情の悪性≒悪性の性癖≒道徳的価値の転倒=根本悪」という三つの構図が成り立つ。これは人間心情の弱さというのは、ある種の動物性である。動物ならばそこに理性が含まれないから悪とはなりえないが理性を持ちうる人間がひたすら動物的に行動=強姦することによる罪でありこれは心情の弱さが原因であり、不適法行為ともなりえるので外形的なごまかしはないとされる=根本悪ではない。人間心情の不純に関して言えば、他者と自己とを比較するような働きでありそれによって社会が成立し文化も発展していくという面もありあながち否定できるものではない。とはいえ、根本悪が外形的に見られるならばこの文化の悪性という形においてであろう。最後に人間心情の悪性がありこれこそが根本悪であると考えられる。これはすなわち性癖であり、人格性でもある。よって、その人間が自由の中で獲得してきたものであり、選択しているものであり、そうして選択することができるという一種の「自由」なのである。この性癖を人間が持ちうる以上、人間は常に道徳的悪という可能性を離すことができず、そして、幸福追求が第一義とされることによって道徳法則が転倒されてしまうのである。つまり、幸福追求が第一義でありその下で道徳が達成されるべきであるという外形としては適法行為であり続けながらも根本において転倒がなされる。我々は選択の自由を持ちながらも、その選択の自由において根本悪=欺瞞を選択してしまうのである。この欺瞞は誰からも追及されることがなく、本人は自分は道徳的行為に従っているのだという欺瞞をますます深めてしまうという意味におい... 続きを読む

  • [ 内容 ]
    残虐な事件が起こるたび、その“悪”をめぐる評論が喧しい。
    しかし、“悪”を指弾する人々自身は、“悪”とはまったく無縁なのだろうか。
    そもそも人間にとって“悪”とは何なのか。
    人間の欲望をとことん見据え、この問題に取り組んだのがカントだった。
    本書では、さまざまな文学作品や宗教書の事例を引きつつ、カント倫理学を“悪”の側面から読み解く。

    [ 目次 ]
    第1章 「道徳的善さ」とは何か
    第2章 自己愛
    第3章 嘘
    第4章 この世の掟との闘争
    第5章 意志の自律と悪への自由
    第6章 文化の悪徳
    第7章 根本悪

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    [ 参考となる書評 ]

  • 厳格な倫理思想として知られるカントの倫理学を、「悪について」という観点から解き明かしている。

    カントの問題は、何が適法的な行為であるかを規定することではなく、道徳的に善い行為を、単なる適法的な行為から鋭く区別することだった。著者はこうしたカントの問題意識の中に深く沈潜することで、カントの「形式主義」といわれる道徳法則についての議論が、一見道徳的に見える行為の中にびっしりとはびこっている「自己愛」をえぐり出す鋭い刃として機能していることを読み取っていく。ここでの著者の議論は、上に述べた論理的明晰さと繊細さが類まれな統一を見せており、まさに圧巻である。

    カントの倫理学の中には何が適法的行為であるかを教えてくれるような規準は存在しない。そのために、自分が正しいと信じることとこの世の掟との相克に身を置く者は、どのように行為するべきなのか悩むことになる。それどころか、みずからの信念とこの世の掟のどちらにしたがったとしても、彼(彼女)は、みずからのとった行為が、はたして善かったのだろうかと悩み続けなければならない。悩み続けることによって、彼(彼女)は、自分が道徳的でありたかったということを、さらには、自分が幸福になりたかったということを、知ることになると著者は言う。このように展開される議論にも、この著者らしい繊細さが細部にまで行き渡っていて読者を魅了する。

  • 本書は、カント倫理学の真髄をわかりやすく説き、現代のわれわれの生き方へと架橋する、落ち着いた哲学書である。難解な「哲学研究」でなく、生身の人間の実感から哲学を語るのは、著者のもう一つの持ち味だろう。

  • 半年くらい前に読んだときは途中で読むのをやめてしまった本だが、今回は最後まで引き込まれて読んだ。
    また半年くらいしてからもう一度読んでみたい。

    この本に書かれている『道徳的な善さ』の良さは分かるが、そこに意識を向けて生きると人生が重く苦しく気が狂いそうだ。
    『道徳的な善さ』を注視しながら生きる著者は強い。

    【2010年10月23日追記】
    再読したが、前より理解しやすくなっていた。

  • この人の本はわりとエッセイ風で読みやすいが、今回はちょっとカタかった。やっぱ岩波だから?

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