西洋哲学史: 近代から現代へ (岩波新書 新赤版 1008)

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  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (292ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004310082

作品紹介・あらすじ

はたして「神は死んだ」のか。言葉はどこまで「経験」を語りうるか-デカルト以降の西洋哲学は、思考の可能性と限界とをみつめながら、自然科学の発展や世界史的状況と交錯しつつ展開してゆく。前著『西洋哲学史古代から中世へ』につづき、哲学者が残した原テクストから思考の流れをときほぐしてゆく、新鮮な哲学史入門。

感想・レビュー・書評

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  • 【はじめに】
    著者の熊野純彦さんは東大文学部長、人文社会系研究科長まで務めた哲学者・哲学史家。本書は、『西洋哲学史 ― 古代から中世へ』の続く後編という位置づけになる。

    【概要】
    本書で取り上げられた主な思想家を挙げていくと、デカルト、スピノザ、ロック、ライプニッツ、バークリー、ヒューム、ルソー、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、マルクス、ニーチェ、フレーゲ、ベルクソン、ハイデガー、ウィトゲンシュタイン、レヴィナス、と続いている。これらの哲学者の思想を紹介する全15章からなる各章の扉に記載された言葉が意味深で印象に残る。なんとなくわかりそうでわからない、詩的で素敵な言葉である。のちにこのレビューを自分で見返すこともあるだろうという思いもあり、そのときのためにも全15章の扉を以下、書き下してみる。

    第1章 自己の根底へ:無限な神の観念は、有限な<私>を超えている ― デカルト
    第2章 近代形而上学:存在するすべてのものは、神の内に存在する ― スアレス、マールブランシュ、スピノザ
    第3章 経験論の形成:経験こそ、いっさいの知の基礎がある ― ロック
    第4章 モナド論の展開:すべての術語は、主語のうちにすでにふくまれている ― ライプニッツ
    第5章 知識への反逆:存在するとは知覚されていることである ― バークリー
    第6章 経験論の臨界:人間とはたんなる知覚の束であるにすぎない ― ヒューム
    第7章 言語論の展開:原初、ことばは詩であり音楽であった ― コンディヤック、ルソー、ヘルダー
    第8章 理性の深遠へ:ひとはその思考を拒むことも耐えることもできない ― カント
    第9章 自我のゆくえ:私はただ私に対して存在し、しかも私に対して必然的に存在する ― マイモン、フィヒテ、シェリング
    第10章 同一性と差異:生命とは結合と非結合との結合である ― ヘーゲル
    第11章 批判知の起源:かれらは、それを知らないが、それをおこなっている ― ヘーゲル左派、マルクス、ニーチェ
    第12章 理念的な次元:事物は存在し、できごとは生起して、命題は妥当する ― ロッチェ、新カント学派、フレーゲ
    第13章 生命論の成立:生と夢と行動のあいだいにある ― ベルクソン
    第14章 現象の地平へ:世界を還元することで獲得されるものは、世界それ自体である ― フッサール
    第15章 語りえぬもの:その書は、他のいっさいの書物を焼きつくすことだろう ― ハイデガー、ウィトゲンシュタイン、レヴィナス

    どうだろうか。このような流れで見てみると、カントが近代哲学史のひとつの到達点であったというようにも自分には思われる。カントの章の冒頭で、熊野さんは「カントは神の首を切りおとす」というハイネの言葉を引いている。確かに、それまでの哲学者、デカルトやスピノザ、ライプニッツは多かれ少なかれ、この世界を説明するために超越者である神を必要とした。そして、そのためにまずは神の存在証明を行う必要があった。一方でカントは、認識や思考がいかにして可能かという限界を考えることで、神を必要とせずに哲学を語ることを可能にしたということだとしたら、そこにはひとつの臨界点を迎えた大きな転回があるように思われる。

    その後の西洋哲学の流れは、自身による『哲学史講義』によって歴史を再構築してまとめあげたヘーゲルを経て、そのヘーゲルを批判する形で、マルクスやニーチェの思想を生み出し、論理哲学、現象学そして存在論へと至ったというのが流れだろうか。

    ウィトゲンシュタインとハイデガー、レヴィナスを扱い、「語りえぬもの」と題された最後の第15章は、やや感傷的でかつ印象的な次の言葉で終わる。西洋哲学はどこにたどり着いたのだろうか。そして、どこに行くのだろうか。
    「ハイデガーは、戦中ひそかに「最後の神」をめぐる思考を書きつけながら、生前はその公開を禁じ、1976年、世を去った。レヴィナスは前世紀のすえまで生き延びて、95年の冬に不帰の客となる。弔辞を読んだデリダが2004年の秋に没し、他者をめぐる思考の可能性のひとつが途絶えた。そのあとのみちすじについて歴史というかたちで語りだすことは、なおゆるされていないように思われる」

    【語られぬもの】
    本書を読んだ後に気になったのは、ここで語られなかった思想家のことだ。最終章が先の引用した文でもってあまりに唐突に終わったことからも、読後感として感じたものはこれで終わりなのかというその物足りなさでもあった。新書版であり、二冊版としたもののそれでも紙幅に制限がある中で、すべての哲学者について言及できるわけではないことは理解できる。そうであるからこそ、改めて取り上げられなかった思想家を並べてみることによって、著者がこの哲学史によって示そうとすることの要点が逆に浮かび上がってくるように思われる。以下、西洋哲学史であれば含められてもよかったであろうが、本書で取り上げられていない領域について書き出してみた。いかがだろうか。

    ■ 実存主義
    大きな抜けのひとつは実存主義の系譜だと思われる。キルケゴール、サルトルについては、ほぼ言及されることはない。一般的な哲学史においては、実存主義は、主体の実存をそれまでの哲学への批判として生まれたとされることが多い。一時はスターのような扱いを受けたサルトルがレヴィ=ストロースらの批判を受ける形で生前から勢いと正統性を失っていった。倫理的・道徳的に過ぎる文脈も含めて、実存主義自体を西洋哲学史の中での正統的な文脈で位置付けることをあえてしなかったのではないか。ウィトゲンシュタインが『哲学探究』で倫理的なものをめぐる考察をいっさい拒んだと説明し、ハイデガーのナチズムとの近さを批判的に置き、同じ章でほとんどの近親者をホロコーストで失ったレヴィナスを扱った著者の実存主義に対する姿勢を示すものであると理解をした。

    ■ 構造主義・ポスト構造主義
    そして実存主義を批判したフランス構造主義の面々も扱われない。kindleの本文検索機能で調べてみたが、ドゥルーズは、彼ならこういったこう言っただろうという形で三度言及されているのみで、直接的にその業績は説明されない。構造主義の開祖と位置付けられるレヴィ=ストロースも、ルソーを最初の人類学者と評し、のちにデリダにルソーとともに音声=ロゴス中心主義者として批評される人としてのみ登場する。
    フーコーもまた、ヘーゲルの章の最後、「ヘーゲルの思考が不可能であるところで、哲学はそれでも可能なのだろうか。およそヘーゲル的ではない哲学がありうるだろうか。そう問いかけたのは、フーコーである」と思わせぶりに言及され、この後にヘーゲル的でない哲学としてフーコーが紹介されるのかと期待するも、その後まったく言及されず、肩透かしに終わった。
    デリダは、最後にその死によって「他者をめぐる思考の可能性のひとつが途絶えた」とまで言わしめたにも関わらず、その思想にはほとんど触れられていない。構造主義・ポスト構造主義自体が西洋哲学史自体へのひとつの批判としてもあったこともあって、ここに触れるととても新書では収まらないのかもしれない。

    ■ 精神分析
    もうひとつ完全に無視された思想家群として、フロイトを含めたユング、ラカンなど精神分析の系譜を挙げることができる。ユングやラカンはまだしも、フロイトさえも巻末の人名一覧にその名前が出てこない。このことから、著者は精神分析を正統な哲学の系譜に位置付けるに是としていないということがわかる。

    ■ 言語哲学
    確かに第7章でヘルダーの『言語起源論』について扱いコンディヤックやルソーについて触れているが、言語論の射程はここで書かれているものよりもかなり広い。ソシュール、ヤコブソン、オースティンらの言語論・言語哲学にはほとんど触れられていない。ヘルダーを大きく取り上げたのも、カントの批判者として西洋哲学の中で位置づけたかったところではなかったのかと思う。第7章の最後に純粋理性やア・プリオリな認識などのカント用語を空疎だとしたヘルダーの批評に対して、「ヘルダーによる認定ははたして正統なものであったのか。ことのしだいは、次章であきらかになるだろう」として、第8章のカントの章につなげている。それにもかかわらず、第8章ではヘルダーへの言及は全くないのだけれど。
    最後にウィトゲンシュタインの言語ゲームを持ってきていることもあり、西洋哲学史における言語論の位置づけを無視しているわけではないが、単純に認識や意識の分析を行うために必要なツールとして位置付けているのかもしれない。

    ■ フランクフルト学派
    ベンヤミンから連なるいわゆるフランクフルト学派、アドルノ、ホルクハイマー、ウィットフォーゲル、マルクーゼ、ハーバーマスはほぼ全員が無視されている。人名一覧に名前がある人の方が少ない状況である。存在論や現象学といった大きな流れを作ることができなかったからであろうか。

    【まとめ】
    著者が「そのあとのみちすじについて歴史というかたちで語りだすことは、なおゆるされていないように思われる」としてこの本を閉じたのは2006年のことである。デリダのあと、それがゆるされるのはどういった状況と条件が必要だと著者は思っているのだろうか。
    哲学が人間の存在と認識をめぐるものであるとすれば、脳神経生理学で各段に発展した知見をもって新たな『哲学』の歴史を再開することができるのではないのかとも思う。少なくとも意識の問題を扱った本を読むと、カントやスピノザに言及されることも少なくない。

    また、この本は『西洋哲学史』である。西洋という一地域の思考と思考家の連なりが西洋においてのみ特権を持って『西洋哲学史』として語られることの不思議についても思い至らないわけではない。そしてまた、ほぼすべてが男性であることにもおそらくは違和感を抱くようになるべきなのだろう。そこにもまた、そのあとのみちすじについての開かれがあるように思う。

    日本の哲学史の大家の集大成の本として、避けがたい消化不良感を残しながらも面白く読んだ(飛ばした個所も多かったことは告白せざるを得ないが)。読み返すたびに新しい発見がありそうな本である。

  • 【デカルト】
    私は考えるコギト 私が存在するスム

    スムの不可疑性と神の絶対性→デカルト形而上学

    スピノザ「心身の結合と精神自身の原因を探しあてることができず、神へと退却した」と避難(エチカ5部序言)
    →ゲーリンクス「機会原因論」スピノザ「並行論」ライプニッツ「予定調和説」

    【近代形而上学】
    【スアレス】
    現実に存在するものは単独的・個体的
    共通的本性+否定(=トマス、スコトゥス、後にライプニッツ)

    機会とした神の介入

    ヴォルフ以降うしなわれるが、バウムガルテンを介してカントへ流れ込むことになる

    【マールブランシュ】
    デカルト的懐疑→「私たちはいっさいを神のうちに見る」

    神 多様性からなる単純性

    【スピノザ】
    「存在するために、他のなにも必要としない」
    実体=神(存在と本質が一致するがゆえに存在する)

    【経験論 ロック】
    トマス 可能態から現実態の移行というフレームの知性
    ⇔ロックは可能態をみとめない
    エネルゲイアに向かう潜性と傾向のみみとめる

    【モナド論 ライプニッツ】
    「不可識別者同一の原理」

    モナド 複合的なものをつくっている、単一な実体

    【バークリー】

    【ヒューム】

    【言語論 コンディヤック ルソー ヘルダー】

    【カント】

    【自我 マイモン、フィヒテ、シェリング】
    シェリング
    「美的直観とはまさしく、客観的となった知的直観である」『超越論的観念論の体系』

    【ヘーゲル】
    「私たちは、国家を超えていかなければならない」
    国家の終焉『初期神学論集』
    「生の多数性」

    「傷を受けた生は、私に対して運命として対立する」『神学論集』
    愛=相互承認

    【ヘーゲル左派、マルクス、ニーチェ】
    マルクス
    商品とは、「感性的に非感性的なもの」
    =神秘的な性格

    【ロッツェ、新カント学派、フレーゲ】

    【ベルクソン】

    【フッサール】

    【ハイデガ、ウィトゲンシュタイン、レヴィナス】

  • 論理構造を示す接続詞を省きがちなことから、文構造が明瞭でなく、気取ったわかりづらい文章になっているように感じる

  • それぞれの時代の哲学者のそれぞれの思想を紹介するのではなく、ある事柄に関して、それぞれの時代の哲学者は、どのように考えたかを軸に紹介している。
    従って、それぞれの哲学者の違いは理解できるにしても、各哲学者の思想を知れる訳ではない。
    また、代表的な著作が紹介されている訳でもない。

    読み進めるのには、結構、難解である。

  • デカルトからハイデガー、ウィトゲンシュタイン、レヴィナスまで、近現代の西洋哲学史を新書一冊で概観している本です。

    教科書的な解説ではなく、著者自身の解釈や問題意識を反映させた、かなり意欲的な内容を含んではいるのですが、さすがに新書の分量で15章、26の哲学者や学派を扱うというのは、少し無理があったのではないかという気がしてしまいます。個人的には、カントの批判哲学と人間学との関係について本書の叙述から示唆が得られたのは収穫でしたが、著者がどのような問題を見いだそうとしているのか理解できないところもありました。

    とはいえ興味をかき立てられるようなところも多かったので、同じ著者によるもう少し本格的な西洋哲学通史が出版されれば読んでみたいと感じました。

  • 引用は知っているものからではない。必要性がわからない。章の始めの導入部分は何を目的に語るのか分からない。思想のポイントや要約ではではないようだが。
    各章の名前(思想派)後世からみて、哲学者の思想をそう読んだために名前がついたと考える。内容にも後の思想家の考えが出てくる。現代からさかのぼっていくともっと分かりやすくなったのではないかと思えた。

  • デカルト以降の西洋哲学の総ざらい。デカルトが「我思う、故に我あり」の名言を演繹した筋道がわかったが、それ以外は難し過ぎる。「哲学」という学問、そもそも何を研究しているのかよく解らないので、本書のような本を読めば、少しはわかるかと期待したが、益々解らなくなった。本書に登場する哲学者たちが挑んだ主題も、数学・物理・文学・宗教・経済学・法学・生物学....と、まるで一意な共通項を見つけられない。しかも、禅問答の如く理解に苦しむ文章が続くので、正直いって読み続けるのは辛かった。唯一の救いは、各テーマが概ね20ページ程度にまとめられている事で、これ以上長かったら挫折していただろう。この本から、哲学的な何かを学ぶことはてきなかったが、先人の偉大で類稀な頭脳が、どんなことを考え悩んでいたのかが、少しだけわかった気もする。

  • 教科書的ではなく、個々の哲学者の思考の道筋を辿る物語的な内容なので、読み物としての面白さはあるが、ある程度哲学史を勉強した人でないと、多少とっつきにくいかもしれない。

  • 本書は、哲学(思想)史というより哲学の歴史エッセイ連載みたいなものなのかもしれない。

    哲学者について生きた時代、歴史的流れを意識しながら、それぞれの問題認識から、思想や取り組みを説明する試みはわかった。
    しかし、一人一人の取り組み(研究/提案内容)について、前後の流れのなかで点で、点を詳しく説明されているように感じ、それぞれの哲学者の考えや過去との位置づけについて全体的に説明不足に感じて頭に入ってこなかった。

    また、本書はヴィトケンシュタインまでで終わっており、その後の言語論的転回や構造主義、ポスト構造主義へのつながりなどが説明省かれており、このないようだけで哲学史といわれてしまうと、今とのつながりが理解しにくいと感じた。

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著者プロフィール

東北大学助教授

「1997年 『カント哲学のコンテクスト』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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