不可能性の時代 (岩波新書 新赤版 1122)

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  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004311225

感想・レビュー・書評

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  • 戦後から現在までを社会学的に丹念に分析したのち、現代の閉塞を突破する門を見出す。新書レベルでは中々お目にかかれない密度の高さ

  • 戦後という時代を「理想の時代」「虚構の時代」「不可能性の時代」の3つに区分し、それぞれの時代における「第三の審級」のあり方について考察しています。

    オウム真理教事件やオタク文化が現代の日本社会のある側面を示していることは間違いないとしても、それらに焦点化する形で戦後日本社会の総体を把握することができるのか、という疑問はもっともだと思います。ただ本書は、戦後日本社会を包括する試みではなく、見田宗介の『現代社会の理論』や『社会学入門』(ともに岩波新書)から、オウム真理教事件を中心に現代社会を論じた著者の『虚構の時代の果て』(ちくま学芸文庫)への展開を改めてたどりなおし、同時に『虚構の時代の果て』から東浩紀の『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)への展開に対する応答の試みとして理解するべきだと思われます。

    個別の議論では興味深いところも多くあるのですが、本書の議論の背景をなしている理論的な枠組みは、第三の審級をたえず繰り込んでいく資本主義の運動に対する否定神学的な解決なので、既視感は否めないように思います。

  • アメリカに管理され、高度経済成長を理想の時代から
    凶悪な犯罪事件などに代表される虚構の時代を経て、
    不可能性の時代に突入した今。

    不可能性の時代とは、「現実への回帰」と「虚構への耽溺」という、
    2つのベクトルを持つ時代という。
    政治の世界でいえば、
    「現実への回帰」は原理主義
    「虚構への耽溺」は多文化主義
    に対応する。

    また、この時代は神のような
    『第三者の審級』(全能者みたいなもの?)がいない。
    そのため自己責任で意思決定をしていかなくてはいけない。

    最後に市民参加型の民主主義は
    小さい社会集団の中でしか機能しないことに対して、
    『6次の隔たり』、『ランダムな線』で解決の糸口を見つけようとしている。
    その根拠に著者の知り合いである中村氏、河野氏を紹介している。

    正直、時代を語るのに、エポックメイキングだからって
    オタクとか宗教団体を引き合いに出されても、世界が狭すぎて
    その時代、社会を本当に言い表していると思えなかった。
    最後の結びも性急で市民型民主主義に不可能性の時代の突破口を
    見出そうというのは理解できるが、それが現実に根付いていないのに
    著者の知人を二人紹介されただけでは、納得できない。

  • オビの文句「なぜこんなにも息苦しいのか?」と「不可能性の時代」というタイトル。これらにある種の救いを得ようと本書を手に取る人も多いのではないかと思う。しかし個人的には、「理想の時代」、「虚構の時代」そして「不可能性の時代」という戦後を3期に区分する発想と、その画期としての1970、1995という年を想定することに、「なんとなく」「あいまいに」うなずかされる以上に、得られるものはなかった。そもそも時代を象徴する事件の特殊性にその時代の空気を見出そうとする発想は、それ自体あまりにも陳腐であり、気鋭の社会学者たるもの、その手法の有効性を疑うところから出発べきではないのだろうか、という疑問もつきまとう。何故「オウム真理教」ごときに時代を区切られなければならないのか?という問いに対して、まず「オウム」が鏡のように照らし出す「オウム」以外の日本を掬いとる態度を確立すべきなのであって、いまさらにオウムの省庁構成やホーリーネームの意味を云々する発想にはそれこそ可能性を見出すことは出来ないと感じた。良く出来たお勉強の成果、とは認めるが、それ以上でも以下でもない。

  • 大澤先生の本、たぶん初めて通読できた・・・でもやっぱ難しい。新書でも。

  • 「家族ゲーム」松田優作、食事のシーン、テレビ

    V 不可能性の時代
    3 反復というモチーフ
    「終わり」の回復

    このようにして第三者の審級を逆説的に回帰させることによって初めて、偶有的であった選択に関して、「必然性」の感覚をもつことが可能になる。選択したことに関して、「これでよい」「これしかない」という感覚をもち、それを引き受けることができるようになるのだ。 p.213

    VI 政治的思想空間の現在
    1 「物語る権利」と「真理への執着」
    「物語る権利」と「真理への執着」

    「物語る権利」を擁護するのは、典型的には、多文化主義である。「真理への執着」として現象しているのは、たとえば、原理主義だ。 p.221

    原理主義の「真理への執着」は、あの「現実」への衝動と、指向を共有していないだろうか。少なくとも、「現実」への逃避は、物語=虚構からの逃避、つまり多文化主義が「真理」の代わりに置いた多様な物語からの逃避である。それは、物語へのーーそれぞれが抱懐する世界がただの虚構であることへのーー根本的な欲求不満の表現だ。前衛的な哲学や思想においてすら、「現実」への衝動が支配的であったことを思うならば、多文化主義の優位は、一見そう思えるほどには自明ではない。 p.221-222

    5 無神論への突破
    憎悪における愛

    逆に、もし「完全に均整の取れた美人」がいたとすれば、「とても知的で道徳的にも完全な男」がいたとすれば、彼/彼女はどこか魅力を欠き、情熱を引き出すきっかけや手がかりをもたないという印象を人に与えるのではないか。つまり特異的な欠点がない者を、われわれはかえって愛することができないのだ。 p.259

    それゆえ、こう結論できる。憎悪と完全に合致した愛こそが、つまり裏切りを孕んだ愛こそが、われわれが求めていた普遍的な連帯を導く可能性を有しているのではないか。ところで、これこそ真の無神論であろう。正義を基礎づける「超越的な第三者の審級=神」が与えられているなかで、その神への愛を神への裏切りーー神の存在の否定ーーと等値することが重要だからだ。 p.264

    結 拡がり行く民主主義
    活動的な民主主義は小さい?

    神的暴力の要諦は、神の無能を、つまり超越的な第三者の審級の不在を引き受けることにある。だとすれば、現代社会は、神的暴力にとって好機であると同時に、障害でもある。 p.272

    統治者と被治者の厳密な同一性によって定義できるような、活動的な民主主義こそ、神的暴力の理念の直接の具体化である。
    だが、しかし、ここで、われわれは、技術的な困難にぶつからざるをえない。このような意味での民主主義は、ごく小さな集団、ごく小規模な共同体においてしか、実現できないように思えるからである。集団の規模がある限度を超えると、被治者の意思は、不透明なものとなる。あるいは、多様な意見や価値観、利害関心を有する多数の個人を内部に含むがために、そこに被治者の統一的な意思を見出すことが不可能になる。その結果、被治者である人民とその意思が、その実際とは独立に実体化されることにもなるだろう。言い換えれば、「人民」が(現実の人民とは独立の)第三者の審級として機能し始めるのである。このとき、特定の指導者や特定の機関(たとえば党)が、われこそは「人民」の代理人であると僭称し、あるいは自分は「人民」の純粋な手足、純粋な道具であると宣言し、人民を支配することが可能になる。
    このように、統治者=被治者の関係が成り立っていると見なしうる民主主義は、小規模でローカルな共同体においてしか成り立ち得ない、と一般には考えられている。 p.273-274
    ※パットナム、草の根民主主義、ソーシャル・キャピタル、日常的な社交で維持される、…
    ※東浩紀『一般意志2.0』出版に際しての佐々木俊尚氏との対談(現代ビジネス Ustream)の問題意識とほぼ同じ。

    民主主義への希望

    小規模で民主的な共同体が分立しつつ、他方で、それらのどの共同体にも、外へと繋がる、外の異なる共同体(野メンバー)と繋がる、関係のルートをいくつかもっているとしよう。そうすれば、共同体の全体を覆う、強力な権力などなくても、何億、何十億もの人間の集合を、個人が直接に実感できる程度の関係の隔たりのなかに収めることができるのだ。この直接の関係の上にこそ、述べてきたような活動的な民主主義を築き上げることができるのだとすれば、市民参加型でありつつ、なお広域へと拡がり行く民主主義は十分に可能だ、ということになるのではあるまいか。 p.283-284
    ※一般意志2.0、Twitter、Facebook
    ※ペシャワール会、現地へ行く、近づく、河野義行氏、松本サリン事件の被害者、オウム信者と交流、「ランダムな線」は敵対しあっている者同士の間にもひかれうる、希望

    30分で読んだ
    メモ10分

  • 難しかった。もう一度きちんと読みたい。

  • 難しかった。
    けど、なかなか面白かった。
    けど、結局なんについての本だったのかよくわからない。

    「不可能性」という単語の意味が、そもそもよくわからないので、なんかもっと、わかりやすい概念の言葉に置き換えられないか…と思う。

  • (2011/2/13読了)

  • 近代文学演習Cでの発表作品。
    発表を通じて、わかったふりをしながら読書をしていることが多いことを痛感した。ただ、それにしてもなかなかに難解な本だった。「結局不可能性の時代ってなに」なんて質問されても、今でもスパッと答えられない……。

著者プロフィール

大澤真幸(おおさわ・まさち):1958年、長野県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。社会学博士。思想誌『THINKING 「O」』(左右社)主宰。2007年『ナショナリズムの由来』( 講談社)で毎日出版文化賞、2015年『自由という牢獄』(岩波現代文庫)で河合隼雄学芸賞をそれぞれ受賞。他の著書に『不可能性の時代』『夢よりも深い覚醒へ』(以上、岩波新書)、『〈自由〉の条件』(講談社文芸文庫)、『新世紀のコミュニズムへ』(NHK出版新書)、『日本史のなぞ』(朝日新書)、『社会学史』(講談社現代新書)、『〈世界史〉の哲学』シリーズ(講談社)、『増補 虚構の時代の果て』(ちくま学芸文庫)など多数。共著に『ふしぎなキリスト教』『おどろきの中国』(以上、講談社現代新書)、『資本主義という謎』(NHK出版新書)などがある。

「2023年 『資本主義の〈その先〉へ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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