- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004313861
感想・レビュー・書評
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筆者が「構造災」と呼ぶのは、福島第一原発の事故や放射性廃棄物の処理の問題など、科学、技術、社会の間で起こる災害のことである。
過去の歴史的経緯、専門的で複雑な技術体系、助成や補償といった社会制度などが、それぞれに絡み合い、責任の所在があいまいなまま、先例の踏襲を続けていくうちに後戻りできないところまで事象が進んでいくことが多いという。
筆者の論点のうち重要であると感じたのが、責任の所在があいまいというのが、単に当事者意識の欠如といったレベルで片づけられる問題ではないということだ。
構造災に伴う責任は、時間、因果関係の面などで無限責任となる場合が多く、どこかのセクターに責任を取らせれば片が付くというものではない。このことを、放射性廃棄物の処理の問題で、説明している。
筆者は、構造災が起こることを避けるためには、「無限責任を有限化するしくみづくり」が大切だという。わたし自身も、「放射性廃棄物の地層処理が果たして責任ある対応なのだろうか?超将来のことが不確実なのであれば、地上で厳重に管理しながら次世代に継いでいくことも選択肢の一つなのでは?」とふと思ったこともあり、筆者の論点に共鳴できるところがあった。
ただ、そのような社会制度を設計するために必要な社会的意思決定の在り方は、非常に難しいものになるだろう。不確実性に伴う責任の有限化は、先送りと紙一重であり、現時点の判断だけではなく将来の進め方につてもある程度制度的に担保していく必要があると思われる。
そのようなことができるようになるまで社会的な議論が成熟するには、非常に時間がかかると感じた。
もちろん、時間がかかるからといって取り組まなくてよいということではなく、筆者がその一端を提言している、構造災を防いでいく社会の在り方について、議論を深めていく必要があると思う。 -
新しい概念というのは、書くほうも試行錯誤するのでしょう。その試行錯誤に多少とも付き合うことになるので、なかなか理解が遠い。それでも・・・・、何か変だ・・・と思っていることへの解答として魅力ある概念だという感じはした。
構造災としての原発事故だとすれば、なぜ現在もなお廃炉を惜しむ声があるのだろうか。
当事者こそ、しっかり構造災を学んでほしいものだ。