- Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004314653
感想・レビュー・書評
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2013年、日本語で書いた自著『雪の練習生』を自らドイツ語に訳している最中、多和田葉子が言語について考えたさまざまな疑問や気づきを書き留めた日記。
めちゃくちゃに面白い。日独だけでなく、多和田さんが講演などで旅した先で出会う言葉がどんどん思索を豊かにしていく。逆に翻訳作業の話は「手」の訳語にまつわるエピソードくらいだけど、多和田葉子という作家が日常的に言葉や文字とどう触れ合っているか知れるのが面白い。
レガステニーという学習障がいをめぐって「言語を文字で記すことが根本的に人間には困難」だと笑って見せたり、移民由来の乱れた言葉とされてきたキーツ・ドイツ語に惹かれてラップを書いてみたいと言ったり、これまでの西洋基準な言語学に物足りなさを感じたり、多和田さんは常に勉強熱心だ。「言語はべったりもたれるための壁ではなく、壁だと思ったものが霧であることを発見するためにある」。学べば学ぶほど深くなるのかもしれないその霧のなかを、悩みすら楽しみながら歩いていくように見える。
そして楽しむと同時に、常に言葉と自分との距離を冷静に測る目を大切にしているのだと思う。嬉しい言葉も悲しい言葉も鵜呑みにしないで、付き合い方を自分の頭で考えること。多和田さんの歩みを見せてもらうことで、私も歩き方を一度じっくり考えてみようと思った。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「雪の練習生」という日本語で書いた自著をドイツ語に翻訳するまでの間に、言葉について起こったことや考えたことを中心として綴られている日記。
多和田さんの小説はいくつか読んだけれど、なんてすごい言葉を持っている人なんだと、どの作品を読んでも思う。鋭いけれど、刃物の鋭さではなく紙の鋭さのような、温かみのある鋭さ。
いろいろな国に行って朗読イベントや自著の解説をする講習会や討論を行っている(よばれている)んだけど、そのなかでメガポリスを描く文体を模索しなければならないという話題が出てきたというくだり。とある海外の作家がメガポリスの例として東京を上げたことに多和田さんは驚く。あの「トーキョー村」かと。ヨーロッパにお住いの多和田さんにとって、特殊な場所以外では聞こえてくる言葉のほとんどが日本語である東京という都市は「村」であるという感覚だそう。
東京をメガポリスの例として出したこの方は日本語はあまりできず、東京に行ったときは意味の分からないことだらけで驚いたらしい。
「あんなに大きな看板を点滅させてどんな商品を売ろうとしているのか」「自動販売機の点滅の意味もわからない」とか。ただその中で世界的な企業のロゴマークだけははっきりとわかる。
日本語をわからないまま歩いたら、見えてくる東京という街は随分違うものなのではないかというこのエピソードが印象に残った。 -
多和田さんが好きなのは、独特の感性と鋭い批評眼があって、なおかつ明るさがあるから。小説でもエッセイでも。
この本は書店で平積みになってて、新しい本かと思って買ったら10年前の再版だった。けど読んでなかったのでノープロブレム。
2013年1月から4月15日までの日記で、1日分は短いので隙間時間にちょっとずつ読もうと思ったのに、面白くて一気に読んでしまった。
こむらがえりを起こすとドイツ人に言ったら、皆口々にそれはマグネシウムが足りないせいだと答えた、という話のあとに、
「「こむらがえり」はとても古い単語なので「マグネシウム」という単語と出逢って、かなり驚いたみたいだった。」(P69)
(「こむら」はふくらはぎの古語。)
トルコ語と日本語は同じウラル・アルタイ語族だと言われていた時期があった。しかしそれはインド・ヨーロッパ語族を中心とした見方である、といった内容のあとに、
「これは、鍋が自分中心に世界を見て、「ミシンとコウモリ傘は似ている」と主張するようなものではないか。鍋から見れば、ミシンとコウモリ傘にはいろいろ共通点がある。まず蓋がないこと、そして仕事中熱くならないこと、更には調理の役に立たないこと」(P159)
(「ミシンとコウモリ傘」のワードの選択もいい。)
「リアリティ」「クリエイティヴ」といった言葉について、伊藤比呂美の詩について、ワーグナーの文体についてなど面白いだけでなく刺激的で、読んでいる間、本当に幸せな時間を過ごすことができた。
立て続けに二回読んだ。 -
多和田葉子は何しろ、言葉への執着と愛着と自覚が半端ではないので、この日記は「アサガオの観察日記」ならぬ言葉(日本語、ドイツ語)の観察日記となっている。言葉とはよく言ったもので、日本語なら日本語、ドイツ語ならドイツ語という木が枝をのばし、言の葉を繁らすというイメージが、ぴったりだ。
いや、でも筆者は移動してばかりだから、その言語植物の種を世界中にばら撒いているというイメージも似合う。 -
私は中国語と日本語の間で著者のように行ったり来たりしている。
共感し、驚き、感激し、とにかく読み終わるのが嫌だった。
もっともっと続きが読みたい。
外国語の語感を通して日本語を深め、それを日本語で思考した後外国語でもう一度表現してみる。
そういう作業を楽しんだ。-
この本はまだよんだことがないですが、多和田さんの作品は読み終わりたくないと言う点で共感しますこの本はまだよんだことがないですが、多和田さんの作品は読み終わりたくないと言う点で共感します2023/01/11
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単なる「ドイツに住んでいる小説家の日記」ではない。
言葉と歩いている多和田葉子さんの日記、なのである。
多和田さんは小説を
日本語で書き、ドイツ語で書く。
日本語作品をドイツ語に翻訳もする。
自作品を日本語、ドイツ語、英語で朗読し
さまざまな言語に翻訳された自作品を聞くために
世界各地を旅している。
そんな人生があるとは。。。
まさに理想的な人生である。
それができる才能が実に羨ましい。
あまりに面白いので
私が勤める日本語学校の先生たちに
熱烈推薦してしまった。
何が面白いか、その面白さを説明すると
多分すごくつまらなくなるので書かないが
言葉に興味ある人はとにかく読んでみてほしい。
この本の中で多和田さんが読んでいた本も
読んでみようと思う。
「日本人の脳に主語はいらない」
「英語で日本語を考える」などなど。 -
『雪の練習生』と合わせて読んでいたのだけど本当にすばらしい羨ましいとしか言いようがない日々で、こんな美しい日々のことを本にまとめて発表してくれてありがとうという気持ちしかなかった。
言語も国も水のように揺蕩い、ここは泳げる世界なのだ、少なくとも葉子氏には。
伝え伝えられることの喜び、息をする喜び、書くことへの無常のよろこび。
朗読イベントとか、参加したくもなってしまうね。 -
「小学生の夏休みに『アサガオの観察日記』を書いた記憶があるが、それを参考に、日本語とドイツ語を話す哺乳動物としての自分観察しながら一種の観察日記をつけてみることにした。」(著者後書きより)
社会人になってから、数年に一度くらいの頻度で多和田葉子さんの文に引き寄せられる縁みたいなものがある。
今回は小説でなくエッセイというか日記というか、丁寧な思考をほいっと手渡されて後は任せた、みたいな短文が続くので、相変わらず素敵だなあと思ってゆっくり読んでいる。
今のこの日本ではない、別のもうひとつの静謐で豊かな世界がどこかにある気がしてくる。
さいしょからさいごまで良い一冊だった。 -
こーれは、面白かった。考えること=言葉。生活すること=言葉。
映画「ハンナ・アーレント」を観た日に読んでいたら、「〜ゆうべは友達と近所の映画館で『ハンナ・アーレント』を観た。〜」という文章が出てきてビックリ。なんたる共時性!-
2014/01/20
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2014/01/20
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言葉の丁寧なこだわりが伝わる。
ドイツ語と日本語を行き来するからこそ、日常にある落とし物を拾っては磨くような言葉たち。